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国家社会主義の論理性

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国家社会主義の論理性

○東方への進出○労働運動の弾圧○ヨーロッパでの覇権○ボルシェヴィキの撲滅○ユダヤ教の撲滅○イギリス、アメリカへの対抗○精神病者、無為徒食の排除○ゲルマン民族の礼賛
これらが一般に蔓延するとき、理性は終焉し論理を超える、

家畜列車での、羞恥心の消滅が人間の変身、
点呼のもつラーゲリ性の象徴〜軍事教練も同じ
ベッドメイクの謎めいた意義〜秩序と規律の象徴
入れ墨の暴力〜家畜への〜モーゼのレビ記には入れ墨の禁止が
イワンデビィソニッチの一日〜
ドストエフスキーの死の家の記録〜
ヘスのガス室の発明、得意に、
人間の灰の利用〜断熱材、肥料、道の舗装
髪の毛〜産業用繊維

アウシュビッツにガス室があったかなかつたか、アポロは月に行ったか、9.11はやらせかを、私が問題にしているのは、常に人間は、国家や支配階層の意図に絡めとられることの危険を言っているのだった、私にとってはどちらでもいいことであった、人間という、正邪、善悪、灰色は共にあり、それら条件がそろえば、いとも簡単に、悪貨が良貨を駆逐するということ、そのためには、どちらでも良いとする視座、立場が必要であることの、私対世界、私、私、私、で世界に対することの、

ジャン・アメリー〜1978年自殺、世界と殴りあう姿性、「アウシュビッツの知識人」「精神の限界」「罪と罰の彼岸-ある打ち負かされた者の克服の試み」
インテリの定義〜精神の枠の中で生きている人間、
「試練」〜コンラッド的
教養が役に立った、オデッセウスの歌、魔の山、ヘルダーリン、ダンテ「神曲」、
「華氏451度」〜ブラドベリ〜本の記憶をもつことの意味、
人類の進歩など、19cの遺産ではないのか、知識人は国家を神格化する傾向が有る、
ハイデガーも、シュタイナーも、ローマ法王も同意していた、
ラーゲリは無信仰をさらに固めさせた、
多くは信仰をもって意味付け、合理化していた、
絶望していなかった、
教養があり信仰がある者、教養があり信仰がない者、教養がなく信仰があるもの、教養がなく信仰もない者、
ハーグ条約〜捕虜は脱走すべしと、
スターリン、日本は、捕虜は死すべしと、スパイ、内通と見なした、
捕虜と絶滅収容所の違い〜彼らは世界の外にいた、誰も匿わない、
世界の反乱、反抗の歴史の悲惨〜成功はないが常にあった、
トーマスマン、トリアッチ、ツヴァイク、ブレヒト〜亡命した、
国家のテロリズムを理解しなかった〜中流ユダヤ人、

人類一人当たり、TNT換算3.4トンの核爆弾が貯蔵、
スイス、スエーデン人は核シェルターを持っている、
1932年選挙〜共産党100議席、社民党121議席、ナチス196議席、
数万部が売れただけ、1000人に1人、その中の40人が手紙をくれた、自分の罪について話す勇気がなかった当時のドイツ人、
罪に対する問題〜見ないことは罪であることと、見ても行動しないことの罪、
不寛容、権力への野望、経済的理由、宗教的政治的征服、
普通の人間が教育によって作られた、
カルロ・レーヴィ(1902-1975)〜反ファシズム画家、
自分だけは悪に組みしないとする、二分法的思い込み現象に苦しんだレーヴィ、

プリモ・レーヴィ(1919-1987)68才
映画化の企画後自殺
レーヴィの自殺の原因はアウシュビッツの通俗化、無関心への絶望、ムルソーの無関心に似る、
人間の邪悪と世界支配の構図、

非道な蛮行を自ら被り、内面まで深く汚染されたと感じている者が、これに正しい審判を下すためには、人間の内部の分裂を受け入れ、再び同じようなカタストロフィーを避けるためにこの分裂に注意しながら、ある可能性の世界のヴィジョンを求めるしかないのだと、
生き残った者は皆何らかの特典に与ったから生き残れた、つまり敵のために働くことを受け入れた時から始まった、

レーヴィがロマンを描こうとすると、嘘が感じられる、史実であっても、ディテールがと思わせる、レーヴィの世界は事実、写真の作品であると思うから、ユダヤ人の戦闘組織を描きたいとするが、そこでの覇権、差別、困難が描かれるが、一般的な戦闘物と変わらなく思える、地獄と人間不信を見据えた目には、すべてが無意味であるのにと、アプリオリな感情が、私に定着しているからか、途中で読むのを放棄、アドルノの「アウシュビッツ以降、詩を書くことの野蛮」であるのに、
溺れるものと救われるもの〜ユダヤ人とパルチザンの違い、闘わず人間を剥奪された者と、闘った者との、
情報手段があれば、アウシュビッツを繰り返すことは出来る、科学、合理性、経済、利潤の名の下の人間剥奪、
内部被爆、原発労働、徴兵、人体実験〜人道に対する罪
コーリッジ「老水夫行」
レーヴィの視点とスヴェトラーナの視点、〜人間への不信と絶望の視点、

エリー・ヴィーゼル(1928-)「夜」
アウシュビッツ体験は冒険であったと、テクニカラーだった、それ以外は白黒だった人生とは、
人間の心の暗澹を考えると、核問題も吹っ飛びそうな感情に、しかし、この核こそ人間に人間の感情を取り戻させる核心となるとの、この絶望こそ意味となる、殺人犯が、もう何人殺しても同じだと、罪の上塗りをするのではなく、罪に疲れ、殺人を放棄するような世界の認識こそが、その認識の根底にこそ核があるのだとの、ナチスのあの労力は100MT原爆1ケ、1秒で済ませられる核世界に今あることの認識、

プリモ・レーヴィ

5作品を読んで、処女作の「アウシュビッツは終わらない」のドキュメント的描写を超えた作品はなく、どれも同じ読後で、やはり体験の初体験性は超えられず、後の作品は、結局しのびよる反ユダヤ主義と人間への警戒、再びの警告であるのだった、
絶望を通して恩寵、希望に至る、絶望を超える方法の探究ではないのだった、
善悪の、幸不幸の超え方は絶望を通した恩寵、実存の領域でしかないと思えるのだった、なかにし礼が癌からの生還をシャーシャーと語っている、プリモ・レーヴィもアウシュビッツからの生還を快活に語っている、私は癌を、3.11をあのようには語れない、実存を通してしか、この生存の不明を、意味を噛みしめてしか、

啓蒙とは

何に対しての啓蒙か、支配、被支配の構図の中で、支配肯定、固定、絶望共有の中にそれはない、警告、否定、糾弾となる、あらゆる人間文化が啓蒙で支配されていることへの、







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