二律背反、善と悪と灰色 かつて、銀行強盗が人質の同僚の耳を切らせた事件があって、Sがその時、君ならどうするかと聞いてきた、私は切らないと言ったが、正解はわからないことだと、その時になってみないと分らないと、人間とはそういうものだと、〜絶望的視点は耳を切るだろう、 また、子供の担任のTが、私は差別が良いか悪いかは言わない、生徒自身に考えさせることが教育だと考えていると、〜絶望的視点に差別する価値はなく、 また、子供のサッカーのコーチの男が、私は歴史教育を終わらせるために、歴史を教えていると言った、〜絶望的視点には歴史の真実とはどちらでも良いこと、 今回、ふとYさんのことを思い出した、彼は人を撃ちたくないために、自らの指を事故と見せかけ打ち砕いたと、私にその指を見せ、書いている作品の動機を話した、〜絶望者にとって戦争とはただの奴隷状態に過ぎず、 アウシュビッツ、カフカ、プリモレービ、多くのホロコースト作品を、また辺見の対談等、そして昨今の情勢を思うにつけ、君はどうするかと問う時、私は私で、その時々、自らで判断し行動すると、善悪や、意味、無意味やらではなく、私という絶対で、癌と原発と、未来の核戦争に対するように、社会、国家、組織ではなく、私という個で、老後も、病も、死も、3.11という絶望を体験してきた私でもって判断する、それは社会、国家、真実などではない、普遍の私という存在を生きているという、それが私対世界であるのだから、 カフカの絶望と私 世界を絶望存在としてとらえ、描いているのに対して、私は世界を実存的という、ロマンではない、ペシミズムでもない、ある神秘感の肯定で描こうとしている、世界は絶望であっても、見る、描く、私には意味であり、見出すものであるとの、近代の超克という、デカルト的エゴの問題でもなく、存在を存在していくと言う、今在ることの感覚で世界を見ようとする形である。 核とは 人間の悪も善も究極まで高めるということ、核への絶望を通して、連帯するか、虚無とするかの闘いとなる、いずれであっても核は不滅だから、どちらでも良いとはなる、ただ世界観、人間観への変更が起きるだけ、絶望とは在ることの肯定と虚無の共感が必然となる、人間を人間らしくするのはこの核しかないということであるのだった、神の究極が核であるのだった、具体が核であるのだった、ハイデガーの存在の神秘の探求、ヤスパースの象徴の確認〜神が存在するだけで十分である、 世界が今在ることで十分であるへ、 国の領有権について 世界の資本は繋がっている、戦争はさせるものがいて、させられる、背後で操っている国際金融と、軍事産業、政治がある、領有とは彼らのものであって、漁民のものではない、漁民同士は、ただの生業者、相手も同じ、政治的矛盾、悪政、すべて結託した政官財のなせる業、 文学哲学はこうした日常由来の現象にとらわれず、実存の領域という、生命の意識に向かうことが、人間に生まれたということを、人間とは何かを、実存という領域とは何かを、それらを感じて味わい、生きるとはを、それらを表し人存在を生きる姿をこそ、 映画の中の人生 絶望が、絶望を知らぬままに生きた、生きる人間群として描かれており、かつてそれらの世界を描くことがリアリズムとしていた、自分自身の過去も、そうした視点の中にあった、ゾラ、モーパッサンのようにとか、市井の人々の生活をを描くことが意味であると、が今、核という絶望の中にあって、アウシュビッツの人間群のような、絶望を知らない人間群としてとらえることの虚無、今や絶望を通さないではリアリズムなどありえないのだった、「風が吹くとき」のような人存在、 人間喰いの問題 人は飢えれば、仲間を喰ってでも生きのびようとする動物、「野火」「海神丸」「ひかりごけ」etcの小説の中で、「鬼畜」松本清張の継子殺しにしても、人は人を殺すということ、我が父も、あの兄を殺そうと待ち構えていた、兄弟という、遺産相続が憎悪へと、我が母も、あの癌を得て、娘の世話となり、私への忘却、拒否は母と子の絆をも断ち、人間を親子、兄妹といえど、はした金の相続で壊れていくことの、3.11以降これらのことが、いともたやすく肯定出来るようになったのだ、核に対する絶望を通して、人は人を喰う動物であることの、 ポランスキー〜すさまじい半生を生きてきていた、「水中のナイフ」から世界の構図の解明へ、それが「ゴーストライター」へと、 天皇論 君主性などと、古墳時代じゃあるまいし、 統治するなどと、おこがましい、現代科学、世界情勢に何-程の知識が、世界は科学の絶望に支配され、 国家論 大宝律令の租庸調に過ぎず、 人間を貶めて何が楽しいか、人間を絶滅して何が嬉しいか、ただ少なくなって権力維持が容易になればいいとは、奴隷制社会で奴隷が少なくなったら維持は困難になる、生かさぬよう、殺さぬようにしなければ、 1804年 ミヒャエル・コールハースの闘い〜領主の不正に対し果敢に闘う1人の商人の話、不可解な訴訟に阻まれ、頭首となって決起し、勝利はするが最期は騒乱の罪で死刑となる、カフカ「審判」の発想元、 カフカは闘うロマンではなく、闘っても正せない不条理をこそ問題にしている、阻む人間であり、迷路のような組織であり、訳もなく人を殺す人間世界への、 現実存在 実存哲学が、開示、思索しているのは、論考を背景にした、日常の、生身の私において在る、ある感情、ある刹那、それを私は実存という領域と名付け、言葉で表そうとしている、私対世界において、絶望世界において、この領域こそが、私の、人間であることの証、実感であることへの、 T、H、S、皆同じで、私の絶望主義への否定の立場、私と、作品への肯定は困難であるのだった、それで良いと思う、これは私の方法であるのだから、人は夫々の方法で絶望に立ち向かうしかないのだから、私の作品には毒が含まれているのだろう、自己肯定して、他者を否定する、そんな嫌悪を感じるのだろう、人の労苦を愚弄するような、無関心、無視の軽蔑を感じるのだろう、ニィチェには感じない、ドストエフスキー、カフカにも感じない、彼らには虚無であっても、共感が探られるということなのだ、人は絶望しては生きられない、歴史と文化を否定しては生きられない、等々、希望、肯定的感情を説き続ける、 「絶望名人の山口君」 「NHKの地殻大変動の番組、あれこそが絶望だよ」 「山口君の作品、あれはちょっとどうかと思うよ、短絡的だし、問題を含む作品だ」 3.11より、世界は否定され、不信、絶望へ、抵抗のすべなく、 実存という領域とは フクシマ、チェルノブイリ、スリーマイルということ、個人においては、癌、難病、死刑囚ということ、実存をその人独自の現実存在と捉えるなら、一人ひとりに内在するもの、表面には現われていない、内実の、未来予見の中に存在する領域、死を自明としつつも、そこには不条理が、その不条理からの視点が実存領域、世界の実存とは、核汚染未来の不条理という絶望、死のように自明であるのだが、絶滅に至るまでの世界の、個人の内実こそが、3.11以降の実存という領域、 ワルシャワ蜂起のTV ナチスに対し、スターリンに対し、自由と独立を求めて闘った市民という視点、独裁者は常に抑圧、隷属を強いる、それに対する闘いは自然なことではあるが、人間はどちらにしても、強いもの、大きなもの、時や、運命に支配されているということ、で私は闘いたくないのだった、闘うということで消耗されたくはない、弄ばれ、忘却したくはないのだった、どんな時にあっても、自らを生きる方法を執りたいのだった、時よ、運命よ、支配したいのならせよ、命が欲しいのならとれ、私はその先を生きるとしたいのだった、それこそが私の実存という領域、 Tの大雪山が、Hのワールドウォッチが、それぞれの実存という領域となるのか、核汚染の絶望世界という視点なくして、実存とはなり得ない、 沖縄の少年兵〜生まれてこなかったと思えば、死は怖くなかったと、 私はミナマタだ、から、私は生まれてこなかったへ、人間は邪悪だ、から、人間は絶滅したほうが良いへ、あらゆる警鐘が叫ばれ、苦境が表わされ、最終的には絶滅する自明に何の哲学があろうか、ただ死すまでの私の領域ということなだけ、死刑囚を、病者を、殺されるものを、人間の自然裡ととらえ、それらへの共苦も、悲哀も、歴史の一こまととらえ、 銀糸の記憶 〜辺見は言葉に寄りかかりすぎだ、語りえぬものを言葉で語ろうとして、構成、語りにもたれ過ぎ、せっかくの内省が掻き消されてしまっている、文学的感興もそがれてしまっている、言葉を選ぶことと描写することの、構成し、語ることとの、構成しない、語れないことの、内面、実存することの、小説というものの持つ宿命、 アイアムアロックを比喩ではなく、私は岩であると、存在するものへの、確かさの確認、有機物の空疎さ、消滅後は土へと、そして岩へと、化石のような脆さはあるが、無機物の確かな存在へと、私という有機物は未だ存在を許されていないエーテル的存在にしか過ぎず、
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二律背反、善と悪と灰色
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