核の理解ということ Y、T、H、S、etc、私の作品をもっと分り易く、万人が納得できるように、過去を安易に否定しないで、個人的でなく全体的にと、独断ではなく、視野を広く持ってと、様々に私の作品を、自分のこととは捉えないで批判する、私は解ってもらわなくて良い、私のことだから、私と核のことだから、核は君たちの問題ではないのだから、核の絶望は、私の人生、私の時間の中の問題なのだと、誰もが核の問題を自らの事としたなら、どんなことでも共存、解決可能なこと、世界を絶望と捉えない限り、世界の諸問題は解決不能、核の問題とは、絶望に至る病、私はキルケゴールの時代にはなかった、核を通した死に至る病を書いているのだから、 それぞれの人生に在る実存 進行形の中に、感情の中に、それらを記憶として、過去として、失われるものとしてみるとき、今という時の中に、実存は存する、日記をひも解き、振り返った時、出現した人間であった時の感情、記憶、 価値の無価値 人類の文化総体が価値を失ったということ、時間的、限定的には、必要性において価値は在るものの、未来的、根源的には価値が喪失したということ、人の死は、人の絶望は、信じる、信じないに関わらず、宗教、思想、科学であってさえ、人類の絶滅の前にあっては意味を失うのであった、 いずれ生あるものは死すとしても、人為的に、近い将来、崩壊する文明というものを考えるとき、絶望へと、 実存領域に取り掛かれず、ブログの20C文学でもと、マードックを読むが耐えられない、巧いが、つまらない、イギリスの探偵物のような、物語がおしゃべりで放棄、 ネットでビエンナーレ見る、多彩な表現、現代を今を表わしている、裸体が多い、裸に力を感じているように、音楽もラップのような、肉体を使った表現、文学もこの肉体、生身の文学が求められているのだった、世界中でおきている自爆テロについて、文学は何も語れて居ない、ロープシンのみが、 ベクレル社が24兆円の資産で、難民、餓死者が3000万人のこの世界への文学の答えは、世界の核への答えは、私は実存という領域で、絶望の共有で、これは時代や状況がどのようであっても、核戦争後の、核汚染の世界にあっても、死の淵にあっても、普遍だということ、人という意識、死の瞬間までの味わいとしての、実存という領域、 私の実存領域 いつものように、3時間後に目が覚めた、4時、やはり夢を見ていた、Sが電車に乗るところを私は見つからないように同じ列車に乗ろうとしたら、Sの乗った列車だけ出発してしまい、私は取り残されたといった夢、その後様々に過去、回想の夢、夢か目覚めていての意識か分らないままに、眠ろうとしていて逆に目が覚めてしまった、過去を回想する思考に実存領域を感じているからか、親、親戚、付き合った人間、死んだもの、生きているが絶交している者、と、彼らを思うとき、私のある俯瞰した、所有している私対世界のような、尽きない何かがある、今彼らと共感、共有するものは何もないのだが、彼らを当時の私を含めて俯瞰することが出来ることの、私の実存領域、これは人が獲得することの出来る、生の実感、楽しみ、意味、未来はなくとも、過去は在るといった、 悪の哲学〜シェストフ 人はどのようにして理想主義に至るか、 時間、まだ時間はあるという喜び、 人の意識の中の理想主義〜共感、親愛、etc、 共感より強い私対世界の持つ時間対私の意識 地下生活者の手記 自己欺瞞、自己卑下を通して、自己肯定をと、理想の欺瞞を暴くことを通して実存へと、 時間だけが人の所有できる、生きている間の唯一の所有物、時の所有とは〜不幸でも、幸せでも、この世界に在るという時の所有、 悪の哲学 シェストフ 絶望からの出発 理想主義の誕生、 マクベスの獲物、 「現代の英雄」〜レールモントフ トルストイ〜善なる感情の説教、 ドストエフスキー、ニーチェ〜問いかけだけ、 悲劇の哲学は可能かどうか、 ○人間を嘲笑する運命の英知 信念が生まれ変わる物語〜「地下生活者の手記」 むせび泣くような雄弁、独断 以前の信仰を憎悪、軽蔑 ○才能とは「嫌うべき特権」である ○新しく発見された真理は、醜悪である ベリンスキーの人権宣言、世界秩序、ベリンスキーとの決別、 流刑により「最も卑しい人間」との ○逃げられる者は、勝手に逃げよ! 「死の家の記録」 ○暗黒なる生活の前夜に ○偉大なる絶望を終えてこそ 「全世界が消えてなくなるのと、私がお茶を飲めなくなるのと、どちらがいいかだって、いつでもお茶が飲めるとならば、世界など滅んでしまったって良いさ」 魂をかきむしる恐怖の号泣 思想などというものは何であれ、実はどうでもよいのだ、偉大なる絶望が必要であった、ギロチン台、流刑という、 ○理性と良心とを主権の座よりおろせ、 別の生き方が出来なくなった者だけしか、破壊の仕事は出来ない、 ○何にもまして先ず、エゴをこそ、 生きたまま埋葬されるのは嫌なのだ ○死の影の下で〜トルストイ ○崇高なものの醜悪さ 「戦争と平和」のエピローグ〜ロストフの考え、 トルストイの「アンナカレニーナ」 アンナの愛に生き、愛に去られ、自死するテーマと、アンナの妹キティの生活者としての愛の生活の肯定のテーマと、トルストイの中にある、相反するテーマの作、 人間文化のこれら相反するテーマ、人間は各々に選んで生きてきた、逆に言えば、日常、生活、社会に取り巻かれ生き、死んできたのだが、理想主義と現実主義と、どれもが人生肯定で、決して虚無絶望主義などではない、現代にあって、存在の耐え難い軽さのような、刹那に意味を問うテーマもあるが、いずれ意味を求めてのもの、意味を問わず、肯定も否定もせず、絶望も希望も持たずは、シェストフ、ニィーチェ、キルケゴールであってもできないのだった、求める人間という存在、絶望であればあるほど、求める人間という存在、宗教が、すべての文化がその証である、 絶望主義の視点に立つと、何事をも腹立たしくなくなった、理想主義で、啓蒙で成立しているマスコミ、社会、文化に対して微笑ましく見るばかり、 ドストエフスキー「貧しき人々」 24歳の作品、所簡往復のマカール、ワーレンカの、恋愛と別れの445枚の作品、これが処女作という、通俗を詳細、克明、真理に分け入って描写することで成立しているが、細部に立ち入ると、詰まらないのでハショッテ読んだが、社会批判、人間洞察の視点、深まりは、25歳にして備わっていると思った、私の25歳はそれら全部を省略したスローガンに過ぎなかったと、ドストエフスキーはこの作で、小説はラブレターのように書けばよいと知ったのだろう、400枚が面白いほどのねちっこさで書かれている、苦労を知らないラブレターのように、 自我、エゴ、個人主義、ナルシズム、自尊、自己中心主義、かつて、人間の歴史は、これら自己対社会、自然との闘いであった、この根底にある自我、自由、生存、生身への態度が、実存の領域であろう、人間が持ち得る、人間としての特徴こそが実存、絶望も破滅もそうした主体からの、私対世界という実存の感情で捉えるもの、 実存領域とはどのようなものか 作家、哲学者達の意識の中に、それはあるのか、市井の人間の意識とは何が違うのか、人間存在そのものが実存であるのか、私が探っていることは特別なことではなく、一般的な人意識に過ぎないのか、 昨日はバンジャマン・フォンダーヌ、アウシュビッツで死んだユダヤの詩人、彼の中にあった意識は、文学であって、実存という区切りは、ただの区切りに過ぎず、彼が言う「不幸から見る世界」であるだけで、書くとき、話すとき、ものを判断するとき、置かれた視点であった、 バンジャマン・フォンダーヌ 「ボードレールと深淵の体験」 ピエール・エマニエル「ボードレーヌ、女と神」 「ライ病患者の詩」〜私はヒキガエルが鳴く泥沼ですと、自己卑下 「レビ記」13章、45.46節 〜風景を作り出すのは自分である、 何故詩を書くのか〜ものを書かない人が居ることのほうが不思議だ、 シエストフはマルセル、カミュに影響を与えた、 詩とは自分の中の何かに直接触れるもの、理性の網の目を逃げるものの働きが詩である、 シェストフの「明証的なるものの闘い」への共感、 日記「無頼者ランボー」「風景」 シオランからの賞賛、 さようならフランスよ、と、 ヨブ記のような「人間が持つ有機性に対しての怒りと反抗」をボードレールに見る、 不条理の不連続なるものの体験、絶対なるもの、高次の「実在」、無限なるもの、 アポロが、アウシュビッツが、9.11が、日航機がと、陰謀論の、それらはどちらが、何が真実かなど、どちらでもいいとの私の視点は、ただ世界の構図と、それに捉われた意識の、その有り様への批判であるのだった、人間にとっての意味は、日々刻々の、私の所有と、そこからの世界存在への味わいであるのだから、真実、理想、正義、etcのテーゼは何ら人の意味の根源ではない、明日死ぬとしても、死への味わいという意味がそこにあり、私対世界という人間存在の喜びがそこにあり、 ムルソーの最期は事物の無関心への覚醒であった、私においては、最期の時点の私の味わい、関心の深めであるのだった、生きて未だ何かあるのではないかと、プロセスではない、この何か、私の味わい、関心をこそ深めねば、
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核の理解ということ
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