フランツ・ローゼンツヴァイク(1886-1929 42才) 「救済の星」〜「すべてについての認識はすべての死から、死の恐怖から始まる」 メシア的終末とメシア的希望 ヘーゲル哲学批判、 1918年塹壕の中で、 1920年自由ユダヤ学者、ブーバー、フロムらと、 1922年筋萎縮症 1929年死 私は世界の欺瞞、不条理を知り、正そうとしているのではなかった、これらを哲学、文学でどう捉えるかということなのだ、人間や世界を性悪説で見れば当然なのだが、そこにどのような哲学、文学が成立するのかの、 神について〜何故求めるのかの、 理想について〜理想とは何かの、 生身について〜備わっているの、 実存について〜実存批判、世界の肯定とはの、 現代批判について〜善悪、正義、不正への、 すべてが無意味というより、意味や価値を付与する必要がなくなった現在にあって、文化は自由に、個的に、私の必要性においてのものに、時間や時代、物質や存在を俯瞰的に見る、どのようであっても変わらない、どちらでも良い、人の在った姿だけが見える、人生の長短、幸、不幸も同じ等質の在った姿に、この自由こそが、3.11で人が獲得したものであったということ、癌で得た生身性、存在の天国から更に高次の自由、在ることの賛歌ではない、在ったことの到達点、末期の意識も必要のない自在、在ったことの喜びへと、 であるから、であったへ、 母であるから、母であったのように、私というものの、シュティルナー的獲得、H、O、Yのあの死の床の姿に在る、私の絶対性の獲得、 人生は夢の如しとは、年を経て解るもの、知るものの多くは今やここに居ないと思う時、 ウナムーノの存在を讃美する詩に接すると、この原発渦の中で、どのように詩をしたためるのかと、求める私の実存という領域も、欺瞞に思えるのだった、私対世界の視点は同じだが、キリスト者としてのウナムーノは神にゆだねる視点が実存回避になつてしまうのだった、 ウナムーノの求める懐疑、生と死、個と全体、への答えは、核世界によって明示されている、核の懐疑以上の懐疑が、信仰への懐疑、神の不在への、核以上の答えはない、 ウナムーノ〜脳水腫の子供がいた、第4子7才で死亡、 パスカルの悲哀と恐怖、キルケゴールと妻オールセン、カフカとミレナ、ウナムーノとコンセプシオン〜母性、幼馴染、幼少に両親喪失、母のような愛、と人は語るが、母性を知らぬものにとって、女性こそは母性である、が、母性に依拠すると現実が疎外される、 神を捜し求めたウナムーノ、ベラスケスのキリストに至って、やはりウナムーノはつまらなくなる、神を、イエスに受肉させることによって、貶めることになる、神を宇宙へ、神秘へと、どこまでも人の想像を超えたものへと向かわねば卑小な論となる、 亡命先での、妻を抱くように海を抱きしめよと言うが、海は早や核に汚染されている、この海をいかにして抱けるかが、海も大地も、この汚された星をいかに抱けるかが、海は、大地は、今や幻影と化したことの、この目覚めこそが人に必要な時なのだ、海を抱けないことの、大地に恵みを求められないことの、味気ない水耕栽培の食べ物と、奇形の水族館と化した海を見つめることしか叶わないことの、邪悪も、美も、愛も、混沌一体となった海、プルトニウムも、金も含む海、シーラカンスもイワシも棲む海、奇形も健常も含むこの海を、いかに抱いていけるかの、 信仰を失い絶望することの恐怖を、亡命の中でウナムーノは持ち、内戦に反対し、ナショナリストと闘い死んで行ったバスク人であった、 ステッアヌ・モーゼス(1931-) かつて虚無が怖かった、カフカも、ニーチェもドストエフスキーも、しかし核の大いなる虚無が出現して以降、何ら怖がることでもなく、世界は当たり前の虚無の中に、以前よりあったのだと、個の虚無など大したことではなかったのだと、 カフカの「市の紋章」への、 ボルヘス「隠れた奇跡」、 現在、過去、未来、黙示録等をいかに論理的、哲学的に語ろうとも、核の支配下にあっては、感情的なものしか存在しない、モーゼスが展開しようとする理知による、概念への、 ローゼンツブァイク、〜歴史をユダヤ歴史とキリスト教の歴史とし、ユダヤ教をメタ歴史と闇の歴史と規定、 ウァルターベンヤミン、〜パサージュ論 ゲルショム・シューレム〜カバラー、ユダヤ神秘主義 歴史的時間の消滅と共に歴史の顕在化、テロス(歴史の目的性)の否定、そこから宗教、シオニズム、革命へと、ユダヤ的終末論、 選民思想〜自民族中心主義 「歴史の概念について」〜歴史の中断 「ヘーゲルと国家」〜理性が世界を支配し作って行く、歴史の中に理性を実証しようとして、主観的精神、客観的精神、絶対的精神、 〜歴史哲学とは客観的精神であり、法、国家の哲学である、 理性の目的は自由〜国家を通して自由、国家あってこそ個人、歴史的な必然的な法則が存する、 「救済の星」〜ユダヤのメシアニズム カフカ「父親への手紙」「市の紋章」 ユダヤ教の頑なさ、絶望の後救済のシナリオは意図的、恣意的、自虐的楽天と思え、拒絶感、カフカに救済はなかった、不条理を生きる、 森有正とは、日本人であることと、人間であることの懊悩の旅であった、日本人批判とヨーロッパ文化への憧憬であった、が今3.11を経て、そうした前近代、封建の日本や、近代、ギリシャ等ヨーロッパ文明への感情は私には失せ、有正がつまらない、文化を排した人間の実存をこそ探りたい、 バビロンの流れのほとりにて(1956年) ヨーロッパというものを精神で捉えようとする有正に、かつてはどれ程の憧れと意味を感じたことだろう、が今、その感情が、森の感動が子供じみて見えてしまうのは、3.11以降の人間の文明、歴史を考えると、文明などどうでもよく、つまらないのだった、核で汚染されたアクロポリスに何の感動が、グーグルで場所を当たって見るが、文明が個としてのものと程遠い、職業、共同体、社会、宗教にと、個を喪失した、ただの技術、ファッション、遺物に思えてしまうのだった、 3.11以降、杞憂が現実となったということ、新たな哲学が必要となったということ、世界が一つになったということ、ユダヤ哲学が、終末論が真に試されることに、 人が実存という領域を味わう時はどんな時か、人の死、災害等、日常の存在に対しての実存は感じないもの、食べることを食べる、眠ることを眠るなどと、まして私対世界などと、それらを人に示す必要などないこと、私が刻んでいるだけ、癌体験以降の、3.11以降の私を刻む作業、私にとって世界は3.11以降の延長ではないのだから、病気以降は天国を生きていたのだから、3.11とは地獄の到来であったのだから、何が地獄かといえば、全価値が、天国も喪失するという感情体験であったのだから、 森有正日記 人間の可能性を超えた、気味の悪い何かを、人間が使い出したのだ、そこに自分もその中に巻き込まれたのだという感じが、全体として自分の存在を浸していた、 悲しみとも、絶望とも判らない気分の中に、自分は浮かんでいた、それは苦しみではなく、希望をすべて奪い去るような暗さだった、凡ての生命の可能性が朽ちていくような、言いようもない感覚だった、-原爆についての夢-1965 6/27 計算された戦争 歴史は決定的に黙示録的段階に入っている、神の消滅、人間存在の無意味さ〜二つの時代を示す印、ならば、神の復活と存在の意味に希望が、でなければ絶望しての死、 人生 誕生、結合、深い不安、仕事、絶望、死、死に対する迂闊が問題、 芸術とは 死を求める一つの形である、日毎の死、成就としての死である、 日本人にないもの 意識がはっきりしている、現実に対する感覚の問題、意思の役割をよく心得ている、意思とは複合体である、組織するとは諸要素を組み合わせること、 主観性は絶対のものである、そこには健全も不健全もなく、正常も異常もない、 性的関係と友情の結びついたものを人は幸福な愛としている、 話し相手と相互に二人称の関係に入ってしまい、相互が主観性を取り戻せない状態に我慢がならない、 シュチアシオン(評論) 罪と罰を、核、終末、唯一者、超人の視点からから考えるなら、罪とは神が決めるもの、裁くことが出来るのは罪を犯したことのないものと、では人は人を裁けないのか、裁けても裁けていないという、反抗的人間としての存在に対して無効であることの、未開において人喰いは罪ではないように、人間の歴史において、過去において、罪ではない事柄は多い、法だけが罪を規定してきた、罪とは社会、歴史によって摺り込まれ、作られてきたものである、ドストエフスキーがそれに挑んだのだが、核時代にあって、ハイテク時代にあって、罪とは、万引き少年の、夫殺しのと、社会は裁くのだが、しかし、原爆投下の、ステルスの無人攻撃の、反革命の、謀略の罪とは、封建の、システム秩序維持を善で、罪ではないとする、権力者の罪意識の喪失、罪を感じるとすれば、妻に嘘をついたことくらいである彼らの罪意識の喪失、彼らとラスコリニコフの対比で十分な現代という核時代の罪と罰、 が、権力者の彼らも、被曝、終末への予感、不安はあるのだった、攻撃される恐怖、殺される恐怖といった個人のものは残っており、それらが罪への想像を可能とするが、基本、罪は理解不能である、罪と罰の背景に、人間愛のテーマがあるのだが、自愛があって他愛が育ち、自己への尊厳、唯一性を通して他者性が自己同化となり、人の持つ人類愛とは、平和裏に暮らすことの喜びのうちに育まれることの、その上で聖書的、哲学的愛が観念として抽象されるのだが、この日常的な生活の中の愛が、核、終末の世界にあって、スタブローギンの自在さとは、モラル、偏見に対する反抗に過ぎず、自在さではない、何故文学が、芸術が回復しないのか、カフカ、ドストエフスキーの虚無さえ空しく、意味を成さない程の現在の虚無は、人類が考えてきた虚無を超越しているということ、ユダヤの終末、救済さえも役立たず、終末も、救済もありえないことが自明となった今、真に一遍ではないが、自らも捨てて、自由、自在になる外ないのだった、
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フランツ・ローゼンツヴァイク(1886-1929 42才)
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