タックスヘイブンと文学 ドストエフスキーの人物、根本において、世界の不正義への怒りを内包しての愛の指示、あらゆる文学が不正義を見据えての人間存在のあり方の指示、が、正義、不正義、貧困が問題ではなく、人間存在が、死という罰に抗する人間が指示されていないのが問題であるのだった、男は戦争へ、女は売春への時代、片や3000兆円の脱税、蓄財の、利権、資本構造、何冊本を書こうが、何曲曲を作ろうが、それは作ったのではなく、作らされた、その時代のニーズによった、仕事としての、対価を働いたということなだけ、沖縄の基地構造、本土防衛という、北朝鮮の核、防衛のために核をという、アメリカの銃社会、そういうものとして生きる、野生動物たちのように、絶えず肉食への警戒を怠らずの、この資本構造という社会、これは未人間社会ということ、TVのこと、見る必要はないということ、見ないほうが良いという情報、社会の不正義に対して告発、反抗するドラマが、最期は死で終わるが、不正義を受容する、それも飄然と、そして人間を生きる形のドラマは何故に少ないのか、99パーセントが権力、利権構造に取り込まれた、未人間社会のドラマ、超然の1パーセントの権力、サタンのドラマが何故に書かれないのか、諦観、諦めではない、超人のドラマこそが求められ、 Hの病室風景 Hはいつにおいてもしゃべり続けるのだった、この間知り合って5年、多人数で会っての場ばかりであったが、何事にも博識でもってしゃべり続けるのだった、その趣旨は、人間かくあるべきといった啓蒙であったが、他者の疑問、問いかけを共感、共有する、そして考えるということはなく、どこからか答えを取り出ししゃべる、病床、私の声を聞きたいとのことであった、私の絶望主義が聞きたい訳ではないことは解っていたが、最期になるかもしれないHの見舞いに出かけた、そして、やはり双方向の話ではなく、知りえた知識の、感興のを同意を求めしゃべりつづけるばかりであった、太宰、漱石等の何度か聞いた同じことを、私のシュティルナー、有正などへの関心はないのだった、Hはただおしゃべりを聞いて欲しいだけなのだった、あの時、Sは私の話を聞くことが嬉しそうだった、Yは何も語ることはなく、世界との隔絶を楽しんでいるようだった、Tは私と自分とのノスタルジーを楽しんでいるようだった、Oは私との決別を哀しんでいるようだった、 Hがソクラテスのように自己漂白したとする、自分においてイデオロギーの鍵は教育であり、ワールドウオッチであると、戦前の教育、生きのび戦後の世界を見、体験してきての、教育によって人も国もどのようにでもなることとの、それは共有するが、3.11以降、いかなる教育が、いかなる思想がと、私は問うているのだつた、そこがHと共有できないところであるのだった、 カラマーゾフの兄弟 映画1969ソビエト、有正のドストエフスキー研究の批評のため鑑賞、 小説と異なって、人物像がはっきり印象付けられ、これは山口家そのもののような、私はアリョーシャだったなーと、父はやはりドミートリーだろう、伯父はフョードル、イワンは死んだ坊主の健次さんだろうと、私はこんな環境で育ったのだと、養護施設、民商、癌の体験、そして何よりこうした家庭に育った私は、ドストエフスキーの作品が、少しも奇異でも、不思議でもなく、良く理解できるのだった、神の問題だけは関心外だが、各々の人物は良くわかるのだった、親子、兄弟、財産、相続という問題、小金で殺人、大金で戦争という、人間は金と財産に縛られているということ、テーマはこうした人間の悲しみと、怒りと、不条理への抗議であろう、それが神への否定となり、 神を持たない日本人は、肉親への、世間への、カラマーゾフ兄弟の金に対する態度、神対金との関係こそが、 邂逅、それのみが真実を開示すると、有正はドストエフスキーを締めくくっている、 人生とは何だったのか ドストエフスキーであり、カミュであり、リルケであり、それらが生身で体験されたということであったと、人生は小説より広く、深く、喜びに満ちたものであったと、私は末期において伝えたいのだった、3.11という絶望にあっても、核汚染の、核戦争の、抑圧と支配の世界であっても、だからこそこの絶望が人に生の喜びを味合わせてくれるのだと、人の死の必然のように、世界の核汚染の必然のように、内と外、私と世界の、死の獲得によって初めて人生が甦えるのだと、ユダヤ哲学のメシアとは違う、救済ではない、生身の実感として、人の死の、世界の破滅の、現実生身を通して甦った一日、存在したことの喜びとしての記憶、人生が人にもたらせたものだとの、 ハンナ・アーレント 35歳のハイデガー、17歳のアーレント、父を3歳で亡くしたアーレントは、父性をハイデガーに、 「悪の凡庸」 しかし、システムとして、そこでの役割、利益、支配欲、又は服従と、そこには人間の最も醜悪な、生存、生理のための合理化が為されており、悪は凡庸なとではなく、悪は人間の本質である、軽ろうじて、精神、真の虚無意識によって、悪に対置できる人間はいるのだが、圧倒的にはこの人の本性の前に屈服する、人をこそ、人文化をこそ、裁かねばならない、それがアイヒマン裁判であり、ファシズムの本質であるのだから、国家、国境、秩序等々、守るものとしての戦争、仕事、生活、健康等々、充たすものとしての政治、それらへの要求が戦争へと、抵抗、革命へと、 末期の風景 間もなく去るのだと、今生を眺めていた、薄暗く、静か、心地良い静けさ、この静けさに私は消えていくのだと、その静けさを何時までも味わっていた、 有正のドストエフスキー論 すべて邂逅、運命的出会いの問題として人を捉えようとしている、人が神に目覚めるとき、そして、人の不条理の目覚めの中に、愛と善とを見ようとしている、この到達点は人の求道者の姿であるが、そこに核という、人為の、無知の、悪の凡庸の出現、この悪をも人の邂逅と捉えられるのか、これは巨大な人間存在の悪としてしか、他の生物への犯罪、存在そのものの否定の中で、ドストエフスキー的実存、愛が成立するものなのか、私においては、最早戻せないのだった、核のパンドラのように、3.11以前には戻れないのだった、3.11以降の新たな哲学がドストエフスキーの中にも見つからないのだった、 人間がやっているのだ、彼らのものだ、私は見ているだけ、音を消してみるTVのように、彼らの世界の出来事として、それが核汚染の、世界と私であるのだった、仕方がないのだった、これが彼らの宿命、自然であるのだから、 愛の幻想と、愛の本質と、愛への欲求 人間の全文化は、愛を求め、愛を実現することに費やされ、向かってきた、しかし、その愛とは何か、いかなるものを求めているのか、イエスの愛にしても、一体愛をどのように考えているのか、なぜ求めるのか、愛はなくとも、存在することで喜べぬのか、生の充実が愛の充実であるのか、愛とは人の心の形而上学化、観念化、細分化、個別化に等しい、牛肉を何十通りもの部分に分けて、どこが最上だとか名前をつけて、肉はどこでもそれぞれ個性を持った味があるだけである、人間の心も、悪も善も、憎しみも愛も、人間の心として、存在するものであって、どれをもって上等だというものではない、美醜においても、何が美で、何が醜いかなどと、植物の、動物の、全存在のように、どれもが形であり、存在であるのだ、美醜の観念は、その人間の作られた、固まった観念なだけであるのだ、 キリストの愛という時、汝の敵を愛せよとか、右の頬を打たれてたら左もとか、また犠牲精神とか、人間のその時々に現われる情動心というものを、愛という形でくくろうとしている、変質させようとしている、人のもつ千変万化な心が気に入らないかのように、 人は朝元気に、気分良く目覚めて、普通に食べて、またその食料のために、労働に向かい、余暇は、存在を楽しみ、夜になれば安らかに眠る、それだけで充分な、そこに愛の定義など必要なく、動物の、植物の、成長を喜ぶ日々なだけ、人が人の愛を求めるのは、存在からの、物たちからの喜びが解らないからなだけ、癌から生還した日、存在からの喜びが降り注いでいた、愛とは、石の、木の、生き物たちの喜びを、人へ伝える形なだけ、花が咲いているよ、鳥が鳴いてるよと、 孤独の探求 諸行無常的な求道ではない、オースターのような発明でもない、人における孤独の持つ意味、人はどのように孤独を忘却または処理してきたのか、人の孤独は自明であるのに、逃避、無視をしてきただけ、生き物にはある孤独、人だけが忘れた孤独というもの、 孤独を通して、愛からさえも自在になったということ、人間、人生そのものへと、在る孤独というものの喜びへと、 世界への絶望があって、人生への諦観、決別が自然裡に、が、世界の存在の有は肯定する、が、私の有、意味は否定する、私とは意識に過ぎなかったのだと、意識を充分に生きたいとした、すなわち充分とは、絶望に至った意識を肯定することにおいて充分であったへと、
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タックスヘイブンと文学
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