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続 原発震災日誌47

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続 原発震災日誌47

夢を見た

私はタケシと話していた、「よく言った」と褒めていた、彼は地球を絶望的に語っていた、いつものアイロニカルな言い回しではあったが、彼の言い様は真をついていた、私が絶賛を表したら、喜んで共感を寄せてきた、そうこうする内に、タケシが爆笑問題の男に替わっていた、彼はえらく私の意見に共感してきて、途中まで一緒に歩いた、が私は帰らなければならないからと、駅に自転車が置きっ放しだからと、彼はどこか旅行で一泊する予定のようだったが、私は断って駅に戻った、すると私は山小屋風の館の一室に彼と来ていた、彼が私を皆に紹介した、私は名前だけ告げて、皆とビールを一杯だけ飲んだ、顔が赤くなると嫌だと思っている、そうこうする内、何人かの詩人や評論家を紹介してきた、一人の男が私の文章を朗読し始めた、私の文章に似てはいるが、果たしてどこが良いのか、詩のようなメタファもアフォリズムもない、ただのエッセイに過ぎないのにと思っていたら、これは良いですよ、月間評論で紹介しておきましたと言う、私はヘーと、私の知らない所で、誰かが私の「未踏」を読んでいるんだと、しかし私は今、「絶望と無」を書いていて、それらを超えて進んでいるんですと言ったが、誰も良くは解からないようだった、また大して期待もないようだった、ただ女たちだけが私を取り巻いてきた、私はエミコに外泊することを電話してなかったことを思い出し、怒っているだろうと思って、直ぐ帰ることにした所で夢から覚めた、

夢分析

この夢は3つの要素、切っ掛けから構成されている、
1、ネットでタケシに対して、カンヌの映画のように、現実に切り込んで欲しいといった書き込みに対して、彼の心根を想像してのもの、
2、昨日書いていた絶望と無の人間への帰属の問題があって
3、絶望と無をどのようにして超えるのか、虚無との闘いなどでは解決できない、テロリストの哀しみのようなものを考えていて、

原発はプルトニウム製造のため、プルトニウムは水爆のため、水爆は戦争のため、戦争は覇権のため、覇権は欲望のため、欲望は生物の本能、理性が停止した時働く生物の機能、結局生物存在が原発を容認しているのだった、直ちに死ななければ、欲望のままにという、

カフカの異邦人感覚

日本という社会と日本人というものを見る時、カフカとは違った、異質な私という異邦人感覚を感じる、カフカが組織や社会に対してのものだが、日本においては村という又は農民という都会的組織ではない、小市民というような個的なあいまいな組織でもない、小さく自分を守ろうとする穴の中のような、村社会の閉鎖性、封建制の、地主と小作のような、一度地方に行けばそれらは草の根のように張りめぐっており、それは縄張りのようなもの、良い悪いではなく縄張りを持たぬものにとっては異邦であるのだった、彼等が必至に守ろうとしているものは微笑ましくもあるのだが、超えられない人間の壁を見るのだった、それはカフカにおいても同じであったかもしれないが、世界の構造も根底にはこの縄張りを守ろうとする欲望、覇権以前の様々な種の、基盤を持つという意識から発生するところの、排他性であるのだった、異邦人感覚こそがここを超えた感情、理性とはここを越えたところに在るものであるのだった、疎外、孤独ではあるが、実存ではあるのだった、組織と縄張りに留まる人間への嫌悪と超越こそがカフカのテーマであるのだった、

アイデンティティを求めての、それがマルクス主義であったり、実存主義であったりの青年時代、また美的なもの、誇れるもの、懐かしいもの、私独自の世界や感情のように、愛で構成したものが、今や、過去、故郷、人間でさえも、嫌悪、拒否感となって現れている、この絶望の果ての、絶望を超えるには、愛着の喪失、放棄の感情が必要で、というより、それらがともない、私対世界が私の主体と選択において構成された世界であるということの、瞬間、瞬間の、毎時の私において構成されている世界であるのだった、過去を世界を今の私において照射する世界、これこそが超えるということであり、人が実存していくことであるのだった、日本というものへ、大地というものへ、日本人というものへの嫌悪、拒否を通して、私の今でもって再構成する世界、これが絶望の超え方であり、私対世界であるのだった、ノスタルジーなどではないのだった、嫌悪、拒否を通して自在に至る、絶望とはこの自在に至る前の強い執着感情との葛藤であり、その後に受容に至るではなく、自在に至るのだった、癌との共存でもない、自在、自由であるのだった、

癌の転移と同じように次々と癌が見つかり、いまや全身に回っている癌患者のような日本、この日本は世界の縮図で、いずれ地球はフクシマのようになり、チェルノブイリとなり、絶望に未来はないのだった、なぜ地球や人間の未来をそれほど問題にするのか、私のものでもない、70億の人間、そこに住む生き物のものである、私のものではない地球を、世界が謀略と陰謀で操られていることを確信するに付け、人は悪魔にも聖人にもなるが、操られる存在であることを確かめるのだった、個人においては反核が成り立つが、社会においては、今の支配勢力が持っているのだった、その組織、社会が個人を支配しているのだった、このことと哲学の関係はどうなのか、実存という問題も、この世界支配体制においてどういう立場をとるのか、個人とこの世界体制という問題に、

絶望主義で人は生きていけるのか

人は生きる喜びを積み重ねて成長していく、それが成長が喜びでもなく、意味も感じられない社会とは、私が癌で余命いくばくかであっても、日々の喜びなくして生きられはしない、絶望からの出発、絶望からの新たな喜びを見つけない限り、生きてはいけないのだった、それが一杯の掛けそばであっても、田んぼの畦道を歩くことであってもいいが、明日への希望というものがあって、日々を生きるのであった、では絶望など考えなくともよいのかと、否、絶望と否定、懐疑とをしっかりもって、徒らに希望や理想を追うのではなく、時の旅の楽しみ、出来事としての日々を、確かめ、味わい、明日は何が待っているのかなと、



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