続 原発震災日誌55
グルニエ 読書メモ 歴史に方向性があるか~歴史によっては何ものも決定的に解決されることはない、もし今死ぬのなら、発電所の開設など私にとってどうでも良いことである、 いかにして戦争に反対するか~作家は書くことが禁じられたなら、愛国主義者は祖国が攻撃されたら、と、戦争をする理由は常にある、 バルザック「村の司祭」 哲学は哲学者なしに済ます事ができるか、~私は壁に遮られることが嬉しい、思想はもはや何んの価値もなく、存在がすべてとなった、財宝が後に重たいと知ったなら、売り払って花を買いなさい、 ニーチェ~「未来に対する無知を愛する」 宗教は哲学なしに済ます事ができるのか 聖トマスと聖アウグスティヌス、 キリスト教的ユマニスム 東洋的宗派の危険性~理性による悟り パスカル「サシ氏との対話」~逆説による幸福と平安への内的葛藤がキリスト教である、 フーシェとの対話~私が<神>の名を口にしないのは、あまりにも神を崇敬しているから、 エピクロス者には不幸の嫉妬が 懐疑派には感情の穏やかさ 仏教者には欲求の放棄 キリスト者には超自然を信じ行動を愛する 「用語集」「小石の浜」~グルニエの肖像画 「地中海の瞑想」~人間の喜びは行為の中にあらず 「孤島」~ムールーの思想 「一匹の犬の死」~省察録 木への絶望感を持つグルニエ 犬を自然との仲介者とする、 ハイ・ギュー「黒い血」~ケルト人 ジュール・ルキエ、フランス実存哲学の先駆者~キリスト教を悲劇として、 観念を悲観的に捉え~自由の根源的感情を考察 パスカルの懐疑心と信仰心 「存在の不幸」~悪についての懐疑 信仰も神も、個人においての在るものと考える カミュが反抗へ~希望を持つが故に反抗、 グルニエは恩寵へ~絶望の中の希望、人間的なものを接点として個と社会の考察 進歩に対し、正統性に対し、反時代精神、放心、独白、 「孤島」~カミュ推奨の作品 カミュ~この世界の外見は、なるほど美しい、だが、それはやがて消え去るべきものだ、だから、いまのうちに、ひたむきに愛さなくてはならない、 カミュの師であるグルニエ、翻訳の不統一もあるのだが、比喩文が多いことと、冗漫さも感じ、感興が削がれる、藤村の「千曲川スケッチ」、吉田玄二郎のもの等から比べると、存在や、死をテーマとしている点が少々違うと感じられるが、回りを俯瞰して描き、テーマを際立たせると言っているが、そこには作者の嫌味が伴い、リルケや森有正のような異世界への立ち上がりはなく、期待はずれ、 核における絶望主義 核が善か悪か、絶望なのかを、哲学がする神の実存のように、すべて私において定義することにおいて突破しようとしているのだった、それが私の核における絶望であるのだから、核を善悪で見るのではない、核を科学による解決で見るのではない、宗教的救済で見るのではない、人間の生死を、自然、必然、受容で見るのではない、それらすべて無化するところの、絶対的方向性による絶望の定義、指向であるのだった、東洋も西洋も芸術文化も、私の前にはただの存在であるのだとの実証を私は探って来たのだった、私の実存とは、文化芸術宗教で実証するものではないとの、それは死と同じように、私の生身の生にしくものはないという感情の確信であるのだった、そこに今、絶望が本質、実体、不可分なものであることが、末期の光のように、世界の絶望が位置付けられたのであった、この絶望とは、覚悟、待つ、了解の意識、世界に対し、運命、未来に、絶望はしても、私に、現在に絶望はしないといった、 絶望とは、人間の新しい、自由、解放、本来性への姿であるのだった、ただの否定思想、ペシミズムではない、理性や知性を通すものでもない、宗教に似るかも知れない、天国を信じる、神の存在を信じるというような、核汚染の世界にあって、人間の破滅を信じる、絶望の日の訪れを信じること、が故に今を、私において生きるのだとの、 二律背反や存在論のオプチュミズムを超えた、人間の自由への道であるのだという、私は死をも絶望主義で超えたいとしているのだった、癌の転移者が死をどのように、そこには受容という形ではあるが、絶望の確実性、実感によった死への了解があるのだった、絶望の了解さえあれば超えられるのだった、一体も、自由も、愛も、すべて可能となることの、 絶望こそが人のイデオロギー、国家、宗教を超えさせる、絶望こそ神が与えた恩寵であるとの、 続 グルニエ読書メモ 「先見的正義」 正義の以前に、核は絶対的悪であろう 「人間的なものについて」 善と悪は相関物であることを、様々な考え方を提出し言っているのだが、人においてその概念を払拭する根源については語られていない、ただ無への、相対への視点はあるものの、絶望を見据えてではない、 私の幸福体験~一度死んで、生き返ったということ、失って得るものと同じ、生の喪失が根源的、根本である、 「存在の不幸」 グルニエが神の絶対性を説けば説くほど、西洋が神との対決の中で成立してきた事実を知れば知るほど、絶望が遠のき、隠されてしまう、神を知らない、持たないが故に絶望が生まれない日本、絶望の中から神を生んだとする西洋との違いを思う、 「グルニエとカミュ往復書簡」1932-1960 39歳と19歳から グルニエ(1898-1971)69歳 カミュ(1913-1960)47歳 サルトル(1905-1980)75歳 マルセル(1889-1973)87歳 15才の年の差を越えた友情とも、同伴者ともいえる二人に羨望も覚えたが、私には彼ら程の謙虚さと誠実さは持てないだろうと思い、羨望は失せた、二人が神、悪、真、不条理、無関心、虚無をテーマとして深め合おうとするエネルギーが友情の源であるのだが、いずれ私にあっては私で解決する以外に方法はないのだからと、 3.11以前、自然や事物への美や新鮮な驚きの描写に接すると、存在することの喜びを味わったが、今、グルニエ、カミュのそうしたものも余所余所しさを感じ、存在の賛歌など他所事にさえ、いまや存在は汚されてしまっているのだった、小泉や、細川までが持続可能社会、反原発を唱えているが、たとえ核廃絶、自然との共生社会が実現されたとしても、汚された存在の絶望は払拭されず、すべては絶望を見据え、絶望から世界を捉える以外にないとの、人間への、存在への絶望感は癌の転移後の生のように、意味の喪失であるのだった、 死について ソクラテスの死生観が、無知ゆえに自分の死は解らないとして、死を受容したが、絶望感も無知ゆえに解らないで済ませられるのか、否、癌と同じように、奇形、生命の変形は、無知ではいられないのだった、衰弱、苦痛と、存在していることへの無意味、不安が襲ってくるのだった、 絶望の子 「どうせ放射能で死んじゃうんだから、勉強なんかしない」 「私たちはもう結婚は出来ない」 「将来子供を生めるのでしょうか」 「いずれまた世界のどこかで、原発事故は起きるに決まってる」 「どうせ死ぬんだろう、どうせ病気になるんだろう、どうせ国に捨てられたんだ、好きにさせて、友達や大事なものを置いていけないんだ」、 「兄ちゃんが避難しないなら、諦める、病気になってもいいよ」 「私たち結婚なんてできねえんだべな、もし運よく結婚できても、子どもなんか産めね、どんな子ども産まれるか、わかんねえもの」 「私たちってさ、子ども産めないよね」 「だよね、産めないっていうより、妊娠できなくね?」 「それに、結婚も県内の人としかできないんでしょ」、 「私はもう奇形児しか産めないんですか?」 「いいよ先生、窓開けて、どうせ私たち子供産めないし、」 「いっそのこと原発なんて全部爆発しちまえばいいんだ!」 「なんで俺ばかりこんな目に遭わなくちゃなんねえんだ、どうせなら日本全部が潰れてしまえばいい!」 「彼との対話」 ほんとにひどいなあ------テレビに映し出された歴史の事実に、呟くような声------吸い寄せられていた目がしゃべったみたい------こういうの見るの嫌、怖くなってくる------明るみにされる歴史、現実の数々の惨劇、毎日のように襲っているのに------恐怖と嫌悪の顔------こうして見てくると、人間にとって正義や理想というものほど怖いものはない------ほんと、正義の名のもとに行われる犯罪ほど------国家なんて、権力者のなわばりのようなものなのに------戦争はそのなわばり争い?------人間はいったい何に向かって進んでいるのだろうか?------ あの頃、まだ私は世界を絶望では見ていなかった、 世界を絶望で見据えた時、価値は喪失する、核の汚染は、誰彼関係なく襲い、苛んでくる、この絶望は、彼らを差別、隔てなく世界を見させる、絶望は全肯定させる、核が人種、国境を越えてある問題であるように、そこから誕生してくる絶望は世界のあらゆる問題を捉えさせる、絶望には希望や幻想はない、希望は泡の様にたちまちに消される、それが絶望というものであるのだった、