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続 原発震災日誌74

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続 原発震災日誌74

NHKがアーカイブスでかつての抒情番組を次々と流している、70年代、失われた60年代の感情を探ることは心地良かった、80年代には70年代をと、しかし、今3.11以降、それらを見ると、恥ずかしくて見ていられない、何と平和なというより、私自身の思想哲学が、まるで少年時代のように、疑うことを知らぬ、受け入れ、未来を信じる姿が映し出されているようで、プルーストが今読めないように、美的、情緒的なものの何と空疎なことか、
核にまみれ、核終末の世界に在っても、存在の放つ美のような、それは決して抒情ではない、リアリズムの、現実、未来への透徹した視線にあるのだった、地獄からの、終末からの視線であるのだった、佐々木作品に流れている抒情、「川の流れはバイオリンの音」、私の新婚時代のよき思い出ではあるのだが、世界を信じていた気恥ずかしさが、今、見るに耐えないのだった、無条件で、生きるに値するとした世界が、今や、無条件で値しない世界に、世界はただ存在なのだが、消えゆく世界であるということが、癌の再発を生きるサバイバーのように、

異邦人として生まれ、犯罪者の子として育ち、家無し子、居候、施設っ子と、反逆、反抗は自然裡なこととして、絶望はこれらの同義語としてとらえ、母と子の絆の喪失があって、兄妹の断絶があって、親類、縁者との隔絶があって、友人、知人への不信があって、私対世界の、私の唯一性は作られてきているのだった、私の時へ、存在へと、
「追悼のざわめき」(松井良彦)にしても、残酷、嗜虐、暴力を描いても、そこにあるのは感傷と、演歌、日本的非合理への捉われであって、絶望との、絶望を見据えたものではないのだった、リアリズムの作品も押しなべて、絶望、暗部を描いているが、どれも世界を絶望の視点からみてはいないのだった、絶望と破滅、これは世界の現実であるが、かつて幾度も世界は警告してきたのだが、デストピアのSF映画群と、タルベーラ、ニーチェの馬、タルコフスキー、サクリファイスと、しかし、それらが一体何んであるのかと、

絶望の超え方があるとすれば、人間をあきらめること、ただ眠りを眠るだけ、癌宣告の日、エミコに希望を与えられなかった、今、3.11以降の世界に希望を与えられない、川端、芥川の、多くの作家の自殺は、私対世界を生きてきた者の自然、自らの命は自らで処するという、

井上光晴「地の群れ」熊井啓を見る

差別されているもの同士の諍い、それらの元凶が原爆であったり、米軍であったりと、図式的構図で、愚民的日本を描いている、この流れは藤村に始まり、自然主義、プロレタリア文学へと、日本の反封建の文学の中なるもの、既知のテーマで、前近代の個の未熟が故のものであるのだった、たとえ原爆といえど、実存の個の対置がないのなら、只の通俗に帰してしまう日本の前近代文学、「地の群れ」が日本文学を越えていない所、核を不条理を、個の、私の実存で越える視点、私対世界しかないのだった、世界はどのようであっても良い、私が私の尊厳において、実存において超えていく、世界が核にむしばまれ、核こそが人間のあらゆる形而上、下の問題を超えた存在となり、必要となるのは個の私、一人の実存であるのだった、石との対話のような、核と生命の対話、私が対話していくしかないのだった、癌宣告の日、今しばらく生きていたいとあの時願った世界が、死にいたる病の核汚染の世界となって、早く死んでしまいたいと思うようになってしまった個の世界の終末観、ただちにではなくとも、誰が考えても、予測できてしまう絶望の世界であるのだった、あの日、世界の醜悪を知らなかったから、考えに入れていなかったから、熱烈に愛そうとした、が、それらを知った今、愛せなくなった、この世界の醜悪を、この世界の絶望を、三度の核汚染の日本、どのようにして、

シベリア抑留

軍国少年、帝国主義侵略国家の兵士であったという点、北朝鮮拉致についても、南京虐殺、従軍慰安婦についても、戦争詩、小説についても、侵略という観点を忘れている、戦争を語り継ぐとは、他国を侵略した日本であるということを、その一員であったということの、正義のため、植民地独立のため、大東亜共栄と、どのような大儀を貼り付けても、他国を侵略し、人を殺したということ、

やはり原発震災日誌で書いた、有史以来の文化の総体をこそ希望とする、これが哲学することの意味であり、人の人たるゆえんであろう、人間の歴史、これが私の意識を形作っているのだから、有史以来、何と多くの人間が、この私の意識を生きてきたことであろう、私は彼らの子孫、子供であるのだから、人類消滅後を想定するなら、私と私に繋がる後の人類こそが新しき人であり、人間の歴史をこそ我が事とするだろう、この歴史の子としての自覚をもった人の喜怒哀楽を生き、絶望の中を再び生き始めるであろう、新しき人、無限の宇宙、消えては生まれ、幾度も繰り返されてきた、無限に存在するであろう地球のような星々、そこでの生きものたちと同じ、本来、私自身が、現在の人類こそが新しき人であるのだから、この宇宙と、世界消滅後を想像できるなら、今の私自身が新しき人であるのだと、あのどのような痛みの中であっても、いま少し生きていたいと思った、あの時の私の生命の感情、愛する、美しい、不思議、この星の記憶であった、も最早絶望はやめよう、無の上ではなく、有の上に、歴史の総体の上に私を置こう、放射能に耐えて生きている生き物たちへの共感をもって、彼らと共に、この絶望は私が引き起こしたものなのだから、自然の生きものたち、私と一体の、私自身として、花よ、木よ、生きものたちよと、

原発、核への答えを見出さない限り、すべては無に帰すという命題が、何をしていても圧し掛かってくる、忘却、隠蔽、共存、封じ込め、未来に託す、無視、必要悪、宿命、罰、自業自得、自己責任、実存、不条理、と、どんな言葉を弄しても、解決にならない、人類文化の価値の大転換が必要なのだった、その転換とは、絶望の共有と、その上での愛又は生きることを生きるとなる、この存在の前提が崩れたがために、誰もが支離滅裂、右往左往に陥っている、グーミンは不安を押し殺し、

絶望して人間のとれる行動は死ではあるが、死は必然であるから、どのような死を選ぶかとなる、死が日常性を貫き、何をしても、しなくても、死を生の中にとらえ、価値観の転換が、人間に起きているということ、これが核のもつ意味であり、効用であるのだった、どんな議論も、どんな状況も、核をもってすれば吹き飛ぶ問題であるという、核を通して絶望も吹き飛ばす、無としての核、そして絶望、サルトルの存在と無が今や絶望と無、核と無にとって変わったのだった、

原爆、核における言説を紹介しているブログ読むが、絶望を通さない、反核、反原発の言説は不快、Hさんが毎回コピーしてくる新聞の切り抜きも、考えは人間への共感、コモンということへのものだが、ネット人の共感は、世界の構造的認識と絶望感、絶望を通したコモン、人間、世界観である、3.11以前の延長では、再びの砂上の楼閣に、かつて、癌と生きた日、試練を通して生きようと、癌との共存を生きた、今核との共存を生きようとするが、癌のような忘却はないのだった、天災は忘れた頃にやってくるような、忘却の時がないのだった、脳内被爆したようなもの、被爆者は被爆を生きるしかないのだった、被爆者であるからこそ、世界の輝きを見ることが出来る、生きるとは、そうした、今までとは違った世界を見ることであるのだと、今年味わった紅葉のように、世界の終末のような、絶望を通して世界を見る哲学の構築こそ、

Tさんの個展、オープニング、誰もが3.11の絶望を伏し、大自然の雄大さを語り、私がTさんの絵に見ようとする、存在への信仰など語り得うはなく、私は一人黙するばかり、絵描きの宿命で、Tさんはリップサービスを続け、絵描きはやはり職人、営業マンの側面も必要と、私より10才以上年長の面々ばかり、10代を戦中でおくり、現実への強い一体をもつ、帰りMと喫茶で語るが、死を間近にに控え、生きられなかった半生を泣き、野坂の「蛍の墓」のような自分の少年時代を、泣きながら語り、私の絶望など語りようがなく、虚しさだけが宙を舞い、

大熊一夫の「ルポ精神病棟」

人間とは何かを、精神の野生としてとらえる視点を得た、精神病者といわれる者への、人間の共通した観念に、精神病を患った者は、人間として劣るという考え方があり、ヒットラーは10万人を殺害した、現代は病院に隔離することによって、ロボトニー、電気ショック、拘束衣、監禁、薬漬けと、精神の未知を無力化することによって、社会からの抹殺、
医療の放棄が行われ、この精神病というものをどうとらえるかが、人間とは何かを解く鍵、文化のバロメーターであることが問われ、出産前DNA検査、IPS、DNA組み換え等、人とは何者かが問われ、




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