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続 原発震災日誌76

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続 原発震災日誌76

世界への絶望の前に、癌宣告の時があった、あの、時の記憶と私対世界、

Yの、人生とは何だったのかに対して、これが私の人生だったと、それが幸福であっても、不幸であっても、私が所有した時であったということ、作家とは、人生とは何であるかを出発の動機としているのだから、人生とは何であったかは、問うてきた作品の中にあると、
若き日、人生とは何ぞやと、そして如何に生くべきかと、文学、哲学を選び生きて来たのだった、そして未だ生きて在る私に於いて、問う今こそが人生であるのだった、この問う今が在ることこそが意味、存在、そして絶望に対する希望、核に対して、この今を問う中に鍵がある、今を問う人生を、存在を、生命を問うその中に、絶望への希望がある、死の淵にあっても、問い続ける私の中に、全ては存在していく、

オリーブの木

銀の産毛をまとい、紺碧の海に生い茂っていた、瀬戸内の小島の異国、16の心にギリシャが訪れ、乙女らはスキップし、私の上にも自由をもたらし、人生とは、この乙女らへ向かう喜びの中にこそと、光散乱し、白浪の海、乾いた風を受け、家や社会や、将来への拘束を、解いて進む船のように、自由の心が降り注ぎ、オリーブの木陰に、乙女らが輝いて見えたのだった、

ブーバーの「我と汝」のような、かつての私の発見のような、世界を、存在を発見することが、新しき人には必要、私の使命として、この存在の発見を、生きていることを、存在することを、神秘、無上、恩寵を、奇跡を、

ツエランを読んでいたら、詩を書きたくなった、あの時の感情を、詩で、言葉で残しておかねばと、あの時こそ、リルケであり、ブーバーであり、ツエランであったのだ、

ガンなんだ、
私は死ぬんだ、時が、時以外は一切関係を無くし、喜びを求め歩んできた人生、満たしてきた様々なことが、あと何年かで終わる人生には、何ら必要なことではなくなり、残された時の意識だけとなり、思考は靄に包まれ、死を考えると、動悸が激しくなり、明日にでも死ぬような、無の恐怖に包まれ、

テロとレジスタンス
人民の側、反権力、民族解放、抵抗、反戦と、権力、抑圧に対する行動を、集団における権利、必然と見る、反抗は抑圧に対する、人間の自然権であろう、そこにはテロ、レジスタンス、戦争であっても同じである、その行為によって誰が利益を得るかだけ、
世界に起こされているテロと言われるものが、戦争をしたい者にとって、利益をもたらすものであるのなら、テロに反対したことが意味となり、かつて戦争とは、戦争によって利益を得る者らによって、仕組まれたものであるのだから、

絶望主義の希望がはじめて見えた

3.11より、3年10ケ月の今日、1.12、私の希望がおぼろげに、世界に絶望し、私の国ではない、世界は諸行無常だから良いのだと、未踏23号で原発震災日誌を書いたのだか、世界の解決にはなっていなかった、私対世界の視点は、ガン体験、個人体験からの私の覚悟なだけだった、世界が絶望してしまうことへの答えは用意していなかった、その私に対する世界の答えを探した3年10ケ月であった、それが今日、突然、答えが出たのだった、発端はYの年賀状の「人生とは何だったのか」と聞いてみたいとの一文だった、私は如何に生くべきか、人生とは何ぞやを問うことが作家の人生であり、未だ人生とは何かと、青年時代そのままに問い続けているのだと、未踏ではその人生とは何ぞやを理想主義風に語って来たが、それは3.11以降の私の絶望主義に対してなんら有効性は持っていなかった、

以降、この3年10ケ月、希望はなくとも、絶望に抗する形を探して、悶々として過ごしていたのだった、そこへ7日のパリ銃乱射事件、風刺漫画新聞、シャルリーへのイスラム過激派の銃乱射のニュース、真っ先にヤラセ、偽旗によるなりすましを思う、世界のTVは反イスラムの流れ、対立感情を煽り、9.11と同じ様相、翌日より、ネットで真相、裏側を調べる、早速明らかになるやらせの映像、殺害ビデオの嘘、犯人特定の嘘、撃たれた路上の人間、血が出ていない、犯人のパスポートが車から発見と、9.11と同じやり口、人気のない工場で犯人射殺、次々と嘘で仕立て上げられていることが明らかになる、こうして世界は、戦争を継続するために、陰謀、策略が張り巡ぐらされていくのだとの、手足となっていく者らへの人間喪失の暗澹、
その前にツエランを読んでいた「死のフーガ」、人間が人間を殺すことの、片や愛を、片や殺人を、チンパンジーのDNAとボノボのDNAを併せ持つホモサピエンスという動物の宿命、この両面が人間であることの、ツエランは言葉で表し、闘い自死していった、その詩全集の、言葉の一時一句の洞察、定着、絶望と無を一行で表すツエラン、敬服し、散文が無力に思え、否、ツエランの絶望と、3.11以降の世界の絶望は違うのだ、ツエランといえど、この絶望は詩にできないことなのだと、ツエランの詩に答えを探し、しかし、メタファー、抽象からは像を結ばず、補足の最後の詩の中にやっとツエランの世界への姿勢が感じられ、ツエランが世界に対して、叩きつけるように、センテンスの短い語句で投げつけ、世界に唾棄している姿に共感が沸き、私の絶望主義に欠けているものを感じ、人生とは何かの答えが、カフカであり、ニィチェであり、ツエランであるのだと、世界への唾棄、私の人生に欠けていたものがこれであるのだと、唾棄を通して初めて絶望主義が形を得、私のものとなるのだと、
個人の絶望の日、世界の不幸を、身近な者の不幸を、いつ来るのかと、構え待つことで、私を保っていたのだが、今世界に起きる不幸を心待ちにして待つことが希望となった、絶望主義とは、絶望が想定されるから、絶望にいたるのだった、芥川の絶望、時代の不幸と個の不幸が歯車のように噛み合って想定され、それらが次々と現実となり、不安が絶望へと、世界の絶望が間もなく、私の残りの人生の中で起きると想定されるから、絶望に至っているのだった、芥川は神経衰弱に陥ったのだろう、見る喜び、体験する喜び、想定が的中する喜び、それらを放棄、忘却してしまったのだろう、私は人生の意味は、人生の目的は、この私の想定を確かめることに当てたい、私のゴドーを待ちながらでありたい、想定される、絶望からの希望、
○5年後より、放射能による人体への影響が明瞭に現われ、
○汚染は濃度を増し、隠蔽は不可能となり、
○三度の原発事故が、世界で起き、
○反テロ戦争が核戦争を起こし、さらに大気の放射能汚染が進み、
○地球異常気象が覆い、小氷河、高温化が進み、
○世界経済が破綻し、
○大地震、火山の噴火が多発し、
○文明の破壊、
○絶望主義の共有、
○新しき人、システムの誕生、

こうして世界の絶望を個人の死と同じように、忘却、否定、受容ではなく、Hの言う、世界を虎視眈々と見ていく、
絶望を見つめ、世界の破滅を肯定、希望し、その時が来るのを、今か今かと待ち望む、かつて青年時代、世界の不幸を、事件を、刺激の喜びで待った、しかし、世界は少しも傷まなかった、傷はすばやく修復され、何事もなかったかのように、日常が営まれ、が、3.11以降は、観念や抽象ではなくなった、絶望が私の中に確信となったのだった、それが故に、天国が地獄に、意味が無意味に、理想が絶望になってしまったのだった、それが今、確定、真実、存在として、確信され、待つことが、確証が、絶望の具体、希望へと、人間は居なくていいよ、世界は自然だけなら天国だよと、自然の立場にたち、自らも否定し、人の絶望こそ希望であると、悪魔崇拝にも似る、メシアを待つのではなく、ノアの方舟を待つ、絶望主義、世界に唾棄する、究極の姿、絶望を通して希望に至る、歴史にどれだけの悪魔主義が、ハルマゲドンが唱えられたことか、今それらが現実に、私は待つ、世界が絶望する日を、それまでの見納め、見届けるために生きると、Hが戦後、死なないで生きたのは、昨日までの国粋主義者たちの行く末を見届けるためだったと、
ツエランの詩が、言葉を失った世界にあって、焦点を結ばないのだった、言葉に意味があった3.11以前、ツエランの言葉の何と華やかで、的確で、力にあふれたものだったか、が、今やそれらが瓦礫のような、言葉の断片にしか、メタファーではメタファーを超えた世界には、意味や、イメージを形作れないのだった、

誰か語れる者はいるのか、
このチェルノブイリの子等の、
この夥しい奇形の子等の、
原発、核の罪を、
一枚の写真は世界を変えない、
一匹のインパラの死と同じ、
ツエランがどれだけ、言葉を弄しても
世界が寄って集って告発したとしても、
チェルノブイリは、フクシマは自分自身が犯した罪の結果なだけ、

語れるものなどいないのだった、
頭は水頭症で二コブ駱駝のような、
顔はガンジスキーの絵のように三角形の、
手足はジャコメッティーの針金細工のように、
意味もわからず生まれ、意味もわからず死んでいく子等の、
カフカがどのように書いたとしても、
ハイデガーが時間をどのように解釈しても、この子等に時間は流れず、
語れる者などいないのだった、
出来ることは、
絶望の時を待つことなだけ、

が、この絶望を待つまでの、残された時の、絶望に抗する方法が、人類最後のスタイルということ、アウシュビッツを描くことは、軽蔑すべきことと、個と類を一体として捉え、近代の個人の対立軸ではなく、絶望に対しての、人類最後の方法、私最後のと、人類最後の生きのびる方法、パレスチナとイスラエルのような、ヨーロッパとイスラムのような、日本のアジアへの考えは、覚悟して生きる、楽しんで生きる、その人最後の仕事は、最後のスタイルへと、シングルイッシューの文学、核が仮に、科学的に無毒化が可能となったら、人類の絶望は消え、希望に変わるのかと、否、人が死を知ったように、絶望は変わらない、人は死ぬ定めなのだと、人の絶望を知った少年の日のように、もはや人類は何をしてもいいのだった、人がガン闘病記を読むのは、自分の死ではない他人の死を知りたくて、またそのときの人間というものを、人間の心というものと出会いたくて、非日常を味わいたくて読むのだ、

サイード〜晩年のスタイル

ジュネ「屏風」〜愛を通してアラブを、アラブを愛するジュネ、
「恋する虜―パレスチナへの旅」〜死のイメージが飽和する死の床で、パレスチナへの愛を
マン「ベニスに死す」〜末期とベニス

パレスチナ文学

ポンテコルヴォ「アルジェの戦い」
ファノン、
カテブ・ヤシーヌ
ハビビ
ダルウィーシュ
シャブラ
カナファーニー
トゥーカン
カッセム

21Cは、3.11以降は、ジュネも、サイードも、歯牙にかからない、核は強いなー、恐い者なし、オリエンタリズム、ナショナリズムも、パトス、パッションも、かつてなら心躍らせた、抵抗とロマンが、そこには静かな、静かな生命の終焉があるばかり、

マシュー・アドルノ「文学ノート」

ブロッホ「未来への痕跡」〜日常性の中の非日常、神学者、社会主義者、ルカーチェの友人、「ユートピアの精神」「希望の原理」、
客体的たらんとして表現主義的に語る、
ボードレールを〜個の苦悩に甘んじることなく、近代そのものを反叙情詩的なものとして、題材に選び詩の火花を散らしたと、
叙情的形象は、社会的抵抗の主観的表現である、
集合的主観「パリの風景」「小さい老妻たち」〜貧民詩
メーリケ〜擬古典主義
シュティファン・ゲオルグ〜高踏派
ルカーチェ〜「小説の原理」「魂の形式」
主観、個人、観念等の人間的減少の集団化、集合化をルカーチェは好む、
社会主義リアリズム〜ブルジョワ芸術のぶっ壊れた残りかすを供するものと、
芸術作品は判断を口にしない、作品全体がその判断である、作品全体を通して認識するもの、
アドルノの文学ノートもありきたりだ、既知のことで、西洋も東洋も、近代も、前近代も、アガージュマカも、自律芸術もすべて意味として捉える、絶望と無の地点、無の上から、私という無上から、かつてなら共感、同伴も持ったのだろうブロッホ、無に現実への蜜月はもはや無いのだから、原発、核以降に、何事かを表現することの欺瞞、無、しかし今私は、全能の、全否定の、自由を得たと、誰もが、全人類が等しく、全否定という現実を通して、手中にしているのだと、



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