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和琴(わごん

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和琴(わごん)

寛治7年(1093年)、白河院の春日社御幸。正面奥で和琴、横笛、笏拍子、篳篥を奏しているのが見える。—『春日権現験記絵 巻二』延慶2年(1309年) 高階隆兼
和琴(わごん)は、雅楽の国風歌舞でもちいられる日本固有の弦楽器で、日本最古の楽器。大和琴(やまとごと)、東琴(あずまごと)とも。

現在日本でよく知られる箏は大陸からの渡来楽器が基となっており、和琴とは起源や系統が異なる。 なお、和琴の起源は神代紀の「天沼琴」(あめのぬごと)である。「天石窟(あめのいわや)前で天香弓六張をならべ弦を叩いて音を調べた」とある[1]。

概要

藤原緒嗣(宝亀5年(774年)-承和10年(843年))—『前賢故実 巻之3』明治元年(1868年)上梓 菊池容斎編・画
宮中の祭祀にて奉仕される国風歌舞(「神楽歌」「久米歌」「東遊」など)のみに用いられる。雅楽の楽器のなかではもっとも格が高く、古くは位の高い者のみ奏することができた。現在でも、宮内庁楽部ではおもに楽長が奏する。

弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から、和琴の祖形とみられる木製の琴や、琴を弾く埴輪が出土している。

構造

本体はおもに桐で作られ、なかは空洞。柱(じ)は楓の枝の叉をそのままもちいる。長さは約190cmで、横は頭が約16cm、尾が約24cm。

絃は六本の絹糸。尾の部分で、葦津緒(あしづお)という絹の編み紐で絃を留める。箏と違い、手前から一、二、三、四、五、六絃と数える。

奏法

演奏には、鼈甲または水牛の角で作られた琴軋(ことさぎ、ことさき)と呼ばれる長さ約7〜8cm、幅約1cm、厚さ約3mmほどの、笏に似た形の撥をもちいる。 琴軋を右手に持って絃をかき鳴らしたり、素手の左手の指で弾いたりする。

座って奏するが、「東遊」では琴持(こともち)をともない立奏する。

神社では降昇神・開閉扉の際、和琴を以て菅掻(すががき)を奏する[2]。

外部リンク













箏(そう)

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箏(そう)

箏(そう)は、日本の伝統楽器。十三本の糸を有するが、十七絃箏など種々の多絃箏がある。箏は一面、二面(いちめん、にめん)と数える。弦楽器のツィター属に分類される。

一般的に、「箏(こと)」と呼ばれ、「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」と「琴」は別の楽器である。最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で音程を決める。ただし、箏の柱(箏の駒)は「琴柱」とするのが一般的で(商品名も琴柱)、箏の台は琴台(きんだい)と必ず琴の字を使う。

歴史

古代

日本古来からある「こと」は和琴(わごん、やまとごと)と呼ばれ、6本の弦を持つ(まれに5本)。弥生時代から奈良時代の遺跡などに発掘例があり、現在も雅楽に含まれる「国風歌舞」(御神楽など)で演奏される。また、平安時代にはやはり雅楽の楽曲種類の一つである「催馬楽(さいばら)」(在来の民謡などを当時の渡来音楽である雅楽の編成に編曲した管絃伴奏付き歌曲)の伴奏楽器として、和琴が加わることがあった(現在では普通、催馬楽に和琴が加わることはない)。

また、日本の古代音楽を最も古い形のまま現在まで伝承しているとされる恐山などのイタコが、交霊の際に演奏する楽器の一つとしても用いられる(ただし和琴を使うのはごく一部で、一般にイタコが用いる楽器は梓弓が多い)。

アイヌの伝統楽器の箏であるトンコリ(カーとも言う)は、和琴と類似した構造を持つ(ただし弦は5本)。

一方、後述の奈良時代に唐より伝わることになるシナの箏の起こりは、秦の時代(紀元前3世紀頃)に蒙恬(もうてん)という人物が作ったのが始まりとされるが、伝説に過ぎない。

奈良・平安時代

現在日本で広く知られている形の箏は、13本の弦を持ち、奈良時代に唐より伝わり、奈良および平安時代に雅楽の中で用いられた。龍の象徴とされ、現在でも箏の部分の名称として龍頭や龍尾などの名残がある。雅楽で用いられる箏を「楽箏(「がくごと」または「がくそう」)」と呼ぶ。

また奈良・平安時代より独奏楽器(および弾き歌いの伴奏)としても用いられた。これらは『源氏物語』などいくつかの平安文学の中に描写されている。ただし具体的な楽曲は現在残っていない(伝わっていない)。

また龍と対を成していた鳳凰を象徴したハープ型の楽器「箜篌(くご)」は、伝統としては廃絶した。正倉院に断片が宝物として保管され、現代においては復元された複製楽器が演奏されている。また箏と同じツィター属の大型楽器である瑟(「しつ」、まれに「ひつ」とも読む)は正倉院の宝物が24本、シナの古代楽器では25本の弦を持つ。伝説では神がこの瑟を二つに割って、13弦の箏と12弦の箏(別の名がある)が作られたと言われている。これも現在日本の伝統では廃絶したが、現代になって復元された。

中世

平安時代末期から室町時代までにおいては、歴史的な記録が明らかでない。安土・桃山時代には北九州で僧侶の賢順(1574年 - 1636年)により、シナ、在来の独奏箏曲、雅楽の箏曲をまとめて「筑紫箏(つくしごと)」が起こった。

江戸時代

雅楽の「楽箏」に対し、近世の箏曲は「俗箏(「ぞくそう」または「ぞくごと」)」と呼ぶ。

前述の筑紫箏を基本として、楽器としての箏および箏曲の基礎を大成させたのが、江戸時代初期に活躍した八橋検校(やつはし・けんぎょう、1614年 - 1685年)であり、特に重要なのは、箏の調弦をそれまでの律音階から、当時民間で一般的になりつつあった都節音階にもとづくものに変えたことである。また多数の作曲をして、ここで現在の箏曲の基本形が整った(一説には、箏曲の基本形の一つである「段もの」と呼ばれるいわゆる変奏曲に類似した形式は、八橋検校が何らかの形で西洋音楽、特にチェンバロの変奏曲に接触したことによって生まれたという)。独奏曲としての箏という楽器を代表する楽曲「六段」(の調べ)は、この八橋検校の作曲によると伝えられる。ちなみに「検校(けんぎょう)」という言葉は当時の盲人音楽家が作る組合制度「当道座」の中で与えられる最高位の名前である。八橋検校の没年となった1685年は、西洋音楽における大きな存在であるバッハや、ヘンデル、ドメニコ・スカルラッティの生年でもある。八橋検校の名は京都の菓子「八ツ橋」の名としても残っており、(生ではなく焼いた、本来の)八ツ橋の形は箏を模している。

八橋検校以降、江戸時代中期の特に重要な箏曲家としては、生田検校と山田検校が挙げられる。まず京都の生田検校が元禄頃、箏の楽器法(調弦および奏法や爪の改良)や楽曲を大きく発展させたといわれる。この流れが現在の生田流系諸派であるが、実際には当時上方にはいくつもの新流派が生まれ、それぞれ独自に爪の改良や楽曲の作曲を行なっていた。現在ではこれらをひっくるめて「生田流」と呼んでいる。生田検校は三味線(地歌)と箏を合奏させた功績が大きいと言われて来たが、これも実際には諸流派でも行なわれたらしい。それからしばらくの間、箏曲は上方を中心に栄えていたが、18世紀後半に山田検校が江戸で浄瑠璃風の歌ものを中心とした楽曲の作曲や楽器の改良を行い、山田流の始祖となった。山田流は江戸を中心に東日本に広まった。こうして幕末までには、西日本では生田流系が、東日本では山田流が盛んに行なわれていた。その他、八橋検校の直接の流れである八橋流が一部に伝えられていた。その他江戸時代の重要な箏曲家として、初期では八橋検校の弟子で生田検校の師匠である北島検校、中期では組歌の作曲で有名な三橋検校、安村検校、後期では京流手事物の地歌曲に複音楽的な箏の手付をした浦崎検校、八重崎検校、光崎検校、また幕末の吉沢検校らがいる。

また江戸時代において、箏は当道制度、つまり盲人音楽家の専売特許であったため、一般人がプロの職業として箏の演奏家になることは認められなかった。このため地歌以外の三味線音楽が歌舞伎や人形浄瑠璃などの視覚的要素を伴う伴奏音楽として発展したのに対し、箏曲は劇場とは関係のない純音楽として発展した。その中心となるものは箏の伴奏付き歌曲である「組歌」と、器楽独奏曲である「段物」であった。そして地歌に合奏することで、多くの地歌曲、ことに手事物をレパートリーとして、大いに発展した。また三味線音楽が遊里との結びつきも持っていて、どちらかといえば三味線が庶民の楽器として普及したのに対し、箏曲は王朝文学に取材したものが多いなど高雅な精神性を持ち、このため武家では「高尚な音楽」として、箏は武家の娘のたしなみ(アマチュア)としてもてはやされた。

近代

明治時代以降は当道制度が廃止され、盲人以外の一般にも箏の演奏が職業として認められた。この頃作曲された作品を「明治新曲」と呼ぶが、西洋音楽の影響はまだ少なく、また当時流行していた明清楽の影響も見られる。ただし国民思潮全般が維新による革新的思想であふれていた時代であり、また盲人以外にも広く箏曲が解放され多数の人間が箏曲界へ参入したこともあって、多くの曲がこの頃作られた。特に大阪において非常に盛んであり、これらを「明治新曲」と総称している。しかしこの頃のレパートリーは現在の奏者にとって満足できるレベルで作曲された楽曲は少ないとされる。ただこの時期独特の清新な雰囲気もあり、西山徳茂都(とくもいち)の『秋の言の葉』、松坂春栄の『楓の花』、菊末検校の『嵯峨の秋』、菊塚与一の『明治松竹梅』などは現在でも良く演奏される。また寺島花野の作品『白菊』など、現在では忘れられかけている佳曲も少なくない。山田流においても『都の春』などの曲が作られている。

大正時代および昭和初期の箏曲には、宮城道雄の名がまずもって挙げられる。西洋音楽の要素を導入した新日本音楽の中心的存在に立ち、箏のみならず邦楽全般の活性化につとめた。特に代表作「春の海」は、尺八(正確には一尺六寸という、尺八より小さい同属楽器)との合奏において、それまでのヘテロフォニックな邦楽の合奏には見られなかった和声的伴奏を駆使し、さらに尺八と交代して主旋律も奏でるといった、邦楽の語法として新しく楽器の性能も十分に駆使した書法により、現在でも箏という楽器を代表する曲の位置を占める。尺八の代わりにヴァイオリンやフルートなどでも演奏される。特にヴァイオリンとの演奏はフランスの女性ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーにより広く演奏され、作品はもちろん宮城道雄の名と箏という楽器を世界的に紹介した。また楽器改良や作品の開拓だけでなく、古典作品の復刻や教育活動にも力を注ぎ、それまで主に口承に拠る稽古が主な伝承であったのに対し、楽譜(五線譜、および弦名譜=タブラチュア譜の一種)の普及にもつとめた。宮城道雄は生田流に属する。

この流れは宮城に留まらず三曲界全体の主潮流となり、中村双葉や山田流系の久本玄智、中能島欣一をはじめ、多くの箏曲家が宮城の影響を受けた作品を多数残し、また箏曲家以外でも町田佳聲や高森高山らによって、多くの和楽器を合奏させる作品が多数作られた。

現代

現代の箏は伝統的な流派の伝承(草の根の稽古も含む)はもちろん、クラシック音楽との交流も行われている。具体的には1964年ごろより現代音楽の作曲家の間での「邦楽器ブーム」により、現代音楽に箏を含む邦楽器が広く用いられるようになった。これらの多くは邦楽本来の楽器および演奏法の特色の長所をなるべく活かす形で使われており、このブーム以前の西洋音楽における邦楽器の使われ方として多かった「別に箏でなくてもピアノやハープでも代用できる西洋音楽の書法」とは一線を画する。それに先立って1957年に結成された邦楽四人の会、邦楽器ブーム初期の1964年より活動を続けている日本音楽集団の活動も、現代音楽における重要な邦楽活動として挙げられる。ただし大正・昭和初期の新日本音楽における邦楽界の西洋音楽受容が、和声的な書法で作曲しやすい箏を中心としたのに対し、1960年代の現代音楽界の邦楽受容においては箏は必ずしも主役ではなく、むしろノイズ的書法で作曲しやすい尺八が中心となった。また、吉崎克彦、水野利彦、沢井比河流と言ったような、箏曲演奏家出身の作曲家も人気が高い。

現代音楽における箏の作品

箏とオーケストラのための作品
湯浅譲二 「(八面の)箏とオーケストラのためのプロジェクション・花鳥風月」(1967)
三木稔 「鳳凰三連・破の曲」「春琴抄・序曲と春鶯囀(しゅんおうでん)」「松の協奏曲」「箏協奏曲第五番」(以上は洋楽器オーケストラとの協奏曲)「コンチェルト・レクイエム」(邦楽器オーケストラとの協奏曲)
伊福部昭 「二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ」(1982)
ソフィア・グバイドゥーリナ In the shadow of the tree 一人の奏者の三面の箏とオーケストラのための(1999)
西村朗「樹海-二十絃箏とオーケストラのための協奏曲」(2002)
坂本龍一「箏とオーケストラのための協奏曲」(2010)
箏独奏のための作品
下総皖一 「箏独奏のためのソナタ」(1938)西洋音楽系作曲家初の箏独奏曲
三木稔 「天如」(1969)二十絃箏初の独奏曲
細川俊夫 「箏歌(ことうた)」
望月京 Intermezzi II
箏と室内楽(邦楽器および洋楽器)のための作品
榎戸二幸 「天の恵~あまのめぐみ~」(2011) salzburgでの演奏会(2012)
その他
Kagrra,:日本のロックバンド。和の世界観を基調にしており、メンバーの一人が箏を演奏している。箏を取り入れた楽曲が複数ある。
沢井比河流:上昇の彼方(2003)
和楽器バンド、華風月、蓮-REN:筝奏者のいぶくろ聖志が所属している。

流派

椅子に座って演奏する現代的な箏の演奏様式
主に生田流(いくたりゅう)と山田流(やまだりゅう)がある。外見上の目立った違いは爪の形および楽器を構える姿勢であり、生田流は角爪を用い、この角を有効に使うため楽器に対し左斜め約45度に構える。山田流は丸爪を用い正面に構える。

レパートリーについては、双方の流派が双方のレパートリーを広く扱うため、あまり差異は無い。相対的な比較としては山田流が生田流よりも「歌もの」を多く扱い、生田流は独奏曲において技巧が発達している。楽器の形状(長さ、楽器の膨らみ、音穴、細部の装飾など)は生田流の箏は楽箏(雅楽の箏)の形をかなり残していて、俗箏として改良を加えられた山田流式の方が音量が大きく豊かな音色である為、現在製作されている箏は一部を除いてほとんどが山田流式の箏である。 ただ沖縄、または沖縄の文化を伝えている地域では、八橋流の流れをくむ独自の琉球箏曲が発展・継承されていて、そちらは現在でも生田流式の箏を使っている。それ以外は生田流の奏者でもほとんど山田流式の箏を使用している。調子(調弦)において、一部の調子の名が双方の流派で異なるため注意を要する。(例:生田流の中空調子=山田流の曙調子、生田流の曙調子=山田流の二重中空調子、など) その他ごく少数ではあるが、八橋検校の当時の演奏様式を伝える八橋流、筑紫箏の様式を伝える筑紫流がある。

楽器解説

箏は、前後にアーチのかかった横に細長い板状で内部が中空の胴に、13本の絃を渡して柱(じ)を用いて張り音程を調節し、奏者の右手に嵌めた爪(義甲)によって絃をはじいて音を出し演奏する楽器である。

長さは生田流の本間(ほんげん)と呼ばれる高級なものが6尺3寸(約190cm)、山田流が約6尺(約182cm)である。その他これに前後する長さのものが多数あったが、現在では学校教育用の箏を除けば大部分が山田流の箏である。

正倉院にも箏の残欠が保存されているが、現在のものと造りが異なっており、四枚の板を箱状に張り合わせて作られており、各板はかなり薄い。現代の箏は上面と両側面は一つの材をくり抜いて作り、下面だけ別材を張り合わせる構造であり、このような方法になったのは平安時代と思われる。その後山田検校により改良されたのが、基本的に現在の主流を成す「山田箏」である。本体は桐で作るが、製法により「ベタ」と「刳甲(くりこう)」とがあり、後者が高級品である。かつては富裕層のステイタスとして蒔絵や木画などで美しく装飾されるものが多かったが、やはり山田検校以来、装飾は最低限に抑え、音色を重視するシンプルなものが次第に多くなった。ただし良い音の出る楽器と木目の美しさにはかなり密接な関係がある。

楽器の各部分には、「龍角」「劉眼」「龍手」など、箏を竜に見立てた名称がつけられている。これを題材に書かれた推理小説が島田荘司の龍臥亭事件である。


龍尾と糸

絃(糸)

和楽器では普通絃とは呼ばず「糸」と称する。通常の箏は十三本の糸を有し、奈良時代より変わらないが、江戸時代には更に多絃の箏が作られたこともある。また明治時代以降、十七絃箏をはじめ、種々の多絃箏が作られている。十三本の糸には名称があり、演奏する側の反対側から一、二、三、四と数え、十以降の糸は斗(と)、為(い)、巾(きん)と呼ぶが、筑紫箏では別の呼び方もある。太さには色々なサイズがあり、以前は黄色く染色したものが普通で、稀に青や赤に染めることもあったが、現在では生成りの白が好まれている。糸の構造は他の多くの和楽器糸と同じく、単糸を更に四本撚り合わせ、糊で固めたもの。材質は本来は絹製であるが、俗箏では現在はテトロン製が主流になっている。テトロンは張力が強く、強く張ると余韻が長く、いい音色がでるからである。また、演奏中に切れる心配が無いこと、絹製に比較するとかなり安価であることも普及している要因である。しかし、絹糸の独特の響きを気に入っている奏者も多く、特に擦り爪におけるシュッという音色ははるかに絹の方が良い。楽箏では今でも絹糸が主流である。


爪(義甲)は右手の親指、人差し指、中指の3本の指の腹側に嵌める(人間の手の爪の側ではないことに注意)。雅楽の爪は丸くて小さい。生田流は角爪と呼ばれ、先が広く四角い形をしている。山田流は丸爪と呼ばれ、尖頭の丸形である。この形状の差異により音色が微妙に異なる。この他歴史的に、先の広がった四角形など多少の差異がある。厚みは戦後に移るにしたがって徐々に薄くなってきている。材質は(雅楽を除き)象牙でつくられているが、最近は絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)により象牙の入手が困難のため高騰してはいるが、代用樹脂は学校教育用などに限られている。

柱(じ)


柱(じ)は他の弦楽器でいう駒、ブリッジで、糸を支え音高を定め、振動を胴に伝える部品である。楽箏のものは小さく低いが、大音量を求める近代のものは大型になっている。補助的に小型の柱や、最高音弦用の脚部に変化を加えた柱、その他倒れにくくしたりするために工夫が施された特殊な柱なども種々使用される。材質は古くは唐木が多かったが、現在では象牙製が最高とされる。しかし大変に高価であるので、現在は合成樹脂製のものが広く用いられている。その他、以前は鯨骨製のものもしばしば使用された。古いものでは美しい蒔絵が施されたものもある。

近代以降に改良された楽器

単に「新箏」と言った場合、二十絃箏を指す場合が多いが、近年において開発された箏全般を新箏と言う。

宮城道雄の開発した十七絃箏がもっとも有名であり、既に一般化している。合奏で用いられるように特に低音部が良く鳴るように拡張されており、宮城以降の楽曲では広く用いられる。宮城道雄が開発した楽器はほかにも教育用普及楽器の短箏(たんごと)、試験的に作られた超大型楽器八十絃がある。

このほか、現代において作られた箏として1969年に作曲家三木稔と箏曲家野坂恵子が共同開発した二十絃箏(実際は21本の絃がある)、それから二十五絃箏、三十絃箏、三十二絃箏などがある。それぞれ現代の(邦楽系の「現代邦楽」および西洋音楽系の「現代音楽」双方の分野の)作曲家によって新しい音楽作品を作る試みが行われている。特に二十絃箏は多く用いられ、徐々に一般化しつつある。

ちなみに大正琴は発音原理が琴(きん)に属する楽器のため、ここで扱う箏とは基本的分類において異なる。

主要産地

福山市(全国生産量の7割を生産)

日本国以外の類似楽器

中国の撥弦楽器のうちツィター属のものだけでも時代、地方、様式により多くの種類がある。一般的には(zhēngチェン)と呼ばれる楽器が箏を指す。(字は同じ「箏」の字,但し、簡体字では、「筝」) 現在、伝統音楽に広く使用される物は、古箏(古筝グーチェン)とよばれる。また、琴柱のない古琴(gŭqínグーチン)という楽器も広くつかわれている。

朝鮮には伽耶琴(カヤグム)と呼ばれる12弦の箏があり、前部を膝に乗せ指頭で弾奏する。正倉院に伝わる「新羅琴」はその初期の頃のものと言われる。また、6本の弦と固定フレットを持ち棒(匙)で弾奏する玄琴(コムンゴ)がある。他にレンギョウの枝で擦って奏する7弦の牙箏(アジェン)がある。

箏は楽器分類上ツィター属に含まれることもあり、ヨーロッパでの類似楽器としてはツィターが挙げられる。ツィターはヨーロッパの楽器としては一般的なほうではなく、アルプス地方の民俗楽器(特にオーストリア)として扱われている。他に、フィンランドの民俗楽器カンテレも類似楽器の一つに挙げられる。

外部リンク















カーヌーン(Qanún, Kanun)

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カーヌーン(Qanún, Kanun)

トルコの79弦カーヌーン

カーヌーン(アラビア語:قانون、Qanún, Kanun)はアラブ音楽で伝統的に使われる撥弦楽器。台形の箱に多数の弦が張り巡らされており、それを日本の琴(厳密には箏)の様につまびいて演奏する。ウード・カーヌーン・ナーイはアラブ古典音楽で使われる代表的な楽器。

ペグを用いて九分の一音を出せることで有名な楽器。特殊な倍音成分がある割には音量は小さく、200席のホールの後ろではほとんど聞こえない。

名前はギリシア語の「カノン」に由来する。

関連項目

サントゥール イランで使われている楽器。カーヌーンと異なり、鋼鉄製の弦を木の棒で叩いて演奏する
ダルシマー
ツィター

外部リンク
















カンテレ(kantele)

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カンテレ(kantele)

カンテレ (kantele) はフィンランドの民族楽器の一つで、ツィター属に属する撥弦楽器の一種である。フィンランドの国民的叙事詩であるカレワラの中で、老賢者ワイナミョイネンがカンテレを開発したことになっているため、フィンランドでは民族意識の象徴として扱われることも多い。5弦から40弦まで、用途に応じ、異なる数の弦が張られた楽器を使い分ける。なお、カンテレの外見は様々であるが、一部範疇の弦数の場合の形状は他の諸外国の楽器に近似する場合(持ち運び出来る大きさで弦数の多い物は例えば日本の琴に似る場合がある等)がある。

成立の過程

神話的

ワイナミョイネンがカンテレを創造したのは、北方の地ポホヨラに遠征したときで、その模様はカレワラ第40章に語られている。ポホヨラに向けてワイナミョイネンが船を進めていると、舟が大カマスの背に乗り上げ、動かなくなってしまう。ワイナミョイネンは直ちにこの大カマスを一刀両断にすると、近くの漁村に立ち寄り、これを料理するように村人に申し付ける。料理をする村人たちが捨てる骨を見ていたワイナミョイネンは、その骨を使って楽器を作ることを思い立つ。

大カマスの顎骨を枠にして、ヒイシ(Hiisi)の去勢馬の毛を張られ、最初のカンテレが完成した。しかしこのカンテレは、第43章で語られる「サンポ戦争」の際に湖に沈められ、永遠に失われてしまう。サンポとは、穀物と塩と銭を絶えず引き出す魔法の碾き臼のことで、サンポの所有者であったポホヨラの女主人から、ワイナミョイネンたちカレワラ軍がこれを奪取した事でサンポ戦争は始まる。しかしその最中、カンテレは失われてしまうのである。ワイナミョイネンは鍛冶イルマリネンに大熊手を作らせ、それで湖中を探すものの、ついに見つかる事はなかった。

ワイナミョイネンは悲嘆にくれ、国中を歩き回る。ある森の辺りにたどり着いたとき、彼はそこで一本の樺の木が泣いているところに出会った。樺は、四季を通してきこりたちに枝を切られ、皮をはがれる自分の運命を嘆いていた。ワイナミョイネンはこれを哀れに思い、楽器にして慰めることを思い立つ。かくして、新しいカンテレの枠は出来上がった。次にワイナミョイネンは、弦を結わえ付けるネジ(ペグ)を探し回る。ある庭の木の枝で、鳴くたびに口から金銀を流すカッコウに出会った。ワイナミョイネンは、この金銀を拾い上げ、ネジの材料にした。

次に絃を求め、荒野をさ迷ったワイナミョイネンは、そこで恋人を待って歌う一人の乙女に出会う。ワイナミョイネンは乙女に髪を5本所望し、無事に手に入れることが出来た。

新しいカンテレが完成した。ワイナミョイネンがこれを抱えて岩の上にすわり、爪弾くと、妙なる調べが近隣に響き渡った。これを耳にした人も動物も植物も、天地すらも、ワイナミョイネンのカンテレに聞き惚れ、喜びに満たされていった。

以上が、カレワラで語られるカンテレの成立過程である。

歴史的

三角形の板に5本の弦を張った楽器であるカンテレは、学問上はツィターの仲間に分類されているが、ツィターの成立以前、2000年前にはすでに最古のカンテレが存在したという説もあれば、その歴史は1000年もないと主張する説もあり、今のところ定説はない。

現存する5弦カンテレのうち、製造年が判別できる最古のものは、1698年に作られたものである(フィンランド国立博物館(National Museum of Finland)収蔵:Kurkkijoki村で採集)。カンテレは、曲だけを演奏するために用いられることもあれば、歌やダンスの伴奏として用いられることもあった。歌は、叙事詩や叙情詩、伝説などを歌う歌から、遊び歌などが主なレパートリーで、カレワラはこうした古い歌を編纂して作られたものである。

長く民俗音楽を演奏するための楽器として主役の座にあったカンテレは、徐々にフィドルにその地位を奪われることになる。カレリア地方、ラドガ湖周辺から中央、および北オストロボスニア地方にかけては、1830年代頃までカンテレを作っての演奏は珍しいものではなかったが、その他の地域では、17世紀にはすでに一般的なものではなくなっていた。

しかし、中央オストロボスニア地方出身のカンテレ奏者クレータ・ハーパサロ(Kreeta Haapasalo)らが、ヘルシンキなどでコンサートを行うことで、カンテレは再び多くの人々の目に止まった。アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi)などは、自筆の詩Anjanpellon markkivatの中で、彼女について言及してもいる。クレータは、「カンテレ・クレータ」の愛称で親しまれ、1893年に没すると、切手の図柄としてその姿を遺された。

クレータの後に幾人もの演奏家達が続いたこともあって、各地のマイナーなスタイルが再発見された。また、楽器自体の改良も試みられ、1920年、パウリ・サルミネンによって、音程を変化させる切替機構を持ったコンサートカンテレが開発されると、カンテレは、大きな芸術的可能性を秘めた楽器として遇されるようになった。この後も楽器の改良は積極的かつ盛んに行われ、アンプにつなぐことで、音質を変化させることが出来る電気カンテレ(エレキカンテレ)なども開発された。

折からの民俗音楽復興運動も手伝って、5弦カンテレはリコーダーのように、情操教育に適したものとして、各地の小学校、幼稚園、保育園などで音楽教育に組み込まれることになった。音楽学校やフィンランド唯一の音楽大学であるシベリウス音楽院では、演奏法の研究も行われ、伝統的な演奏法を調査、研究、再興させることに力が注がれる一方、新しい演奏法の開発も行われている。同学には伝統音楽、西洋クラシック音楽、電子音楽の領域での博士課程もある。

構造

最古のカンテレは一本の木を刳り貫き、表面に5本の弦を張った楽器であった。現在の演奏会用カンテレは39絃にも及び、その本体は何枚もの板材から作られている。カンテレの材料となるのは、ポプラや松、ハンノキ、唐檜などで、神話のように白樺で作るものはまれである。弦を止めるペグは樺材で作られていたが、現在の演奏会用カンテレでは、金属製のものが使われている。

伝統的な手法において、5弦カンテレは五音音階に調律されるが、演奏会用のものは全音階に調律され、半音操作のための切り替え機構をもっているものもある。 

奏法

カンテレは一般的に両膝または小卓に置いて演奏する。指先でつま弾く奏法、音を鳴らさない弦を指で押さえることによりミュートして(時としてマッチ棒やピックで)かき鳴らすコード奏法、その両方をとりいれたミックススタイル奏法といった演奏スタイルがある。

また、独特の演奏スタイルを築いていった地域もあり、代表的なものがサーリヤルヴィ、ハーパヴェシ、ペルホンヨキラークソである。 フィンランド中部にあるサーリヤルヴィでは、小さな棒状の木を用いて演奏する「スティックカンテレ」が発展し、北部ポホヤンマー地方のハーパヴェシでは、音を出さない弦を押さえ、周囲の弦すべてをかき鳴らすように演奏するミュート奏法が生み出された。 ペルホンヨキラークソ地域では、他地域の楽器構造が箱型に変化していく中、伝統的な木片をくり抜いて作る彫型のカンテレが長く作られていたことから、高い音(短い弦)が演奏者側になるようにして弾く形が主流となった。

日本での受容

1980年代後半にフィンランドに留学していた北海道大学学生が持ち込む。その後愛好する人が徐々に増えてきている。フィンランドからカンテレ奏者を招いてワークショップを開催。日本各地(主に東京と札幌)でカンテレの講座が開かれ始めた。2008年5月には日本カンテレ友の会が発足。カンテレ愛好者にとって書籍やCDに関する貴重な情報源となっている。2008年から札幌創成高等学校でも音楽の授業の中で取り上げられ始めた。2009年6月28日に発行された少年写真新聞『図書館教育ニュース』に取り上げられ全国の小中高等学校の図書館に掲示されている。

また、アニメ映画『ガールズ&パンツァー劇場版』の作中において継続高校の生徒ミカの愛用楽器として登場し[1]、あらひろこの演奏による「Sakkijarven polkka」が作中BGMとして使用された。なお、カンテレをBGMに取り入れるよう提案・指示したのは監督の水島努であり、音楽を担当した浜口史郎はこの楽器についてはよく知らなかったという[1]。

主な演奏者
個人
フィンランド

マルッティ・ポケラ 
ティモ・ヴァーナネン
ミンナ・ラスキネン
エヴァ・アルクラ
日本

はざた雅子
あらひろこ
おおいえのりこ

グループ

ロイツマ - フォークソングと少し前の時代のポップソングのテイストを盛り込んだ、カンテレとヴォーカル、フィドルの4人グループ。メンバーのうち、ティモ・ヴァーナネンとサリ・カウラネンがカンテレ奏者。
メムノン - 上記エヴァ・アルクラの弾くエレクトリックカンテレとサウンドデザイナーのデュオ
カルデミンミット - 女性フォークソングバンド。メンバー4人全員、ボーカリストでカンテレ奏者。

外部リンク





















2018 03 07 春の散歩道 1

2018 03 07 春の散歩道 2

2018 03 07 春の散歩道 3

トンコリ(Tonkori)

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トンコリ(Tonkori)

トンコリはアイヌに伝わる伝統的な弦楽器でカラフトアイヌが用いていた五弦琴(三弦や六弦の物もある)。

江戸時代には北海道の宗谷地方やオホーツク沿岸地域でもほぼ同じ楽器が存在し「カー」と呼ばれ演奏されていた文献記録[1]があるが、近代までに伝承は途絶えた。現在判明している製作法や演奏法は、すべて樺太アイヌのものである。

解説

ギターとは違い、胴体部は細長く平べったく直線的な作りで先端は尖っている。胴部には意匠が施されている事もある。各部はアイヌ民族の他の民具同様に人体になぞらえて呼ばれる。ギターヘッドやネックに相当する部分は同様に頭、首と呼ぶ。弦を巻き付ける部位を耳(性感帯のツボがある[要出典])、胴体先端の尖った部位は足、足にある弦の付け根はそれを覆うように動物の毛皮を貼り付け、これを陰毛と呼ぶ。

その裏側は尻等と呼ぶ(※弦楽器は、よく女性器に例えられる[要出典])。胴部中央にはへそと呼ぶ穴があいていて、そこにラマトゥフ(魂)と呼ぶガラス玉を入れる。

ギター等と異なりフレットがないだけでなく、弦を指板におしつけて音を変えることもない。したがってハープ等と同じく基本的には弦の数(つまり五音)しか音が出ない。

素材はエゾマツやホオノキ、弦にはかつては動物の腱やイラクサの繊維をより合わせた物が用いられていた。 現在は、三味線の弦を使うことが多い。

樺太アイヌの伝承者からただ一人1960年代に直接指導を受けた邦楽家の富田友子(歌萌)が講演・演奏活動を続けている。彼女以外に伝承者から直接指導を受けた演奏家はおらず、彼女の弟子筋でなければ録音からの独自の復元演奏もしくは想像による演奏である。

1990年代以降、北海道や関東のアイヌの団体や個人によって演奏されることも多くなっており、演奏者が増えつつある。有名なトンコリ奏者としてはOKIが居る。

また、最近では北海道出身の兄弟ユニットK.D earthがトンコリを演奏活動に取り入れ、アイヌの伝統曲やオリジナル曲などを演奏している。ツイン・トンコリ、トンコリ+ムックリなどで表現の幅を広げている。 札幌のプログレッシヴ・ロック・バンドのカムイは、トンコリやムックリなどのアイヌ民族楽器を導入して、アイヌ民謡を引用したロックを演奏している。

外部リンク















2018 03 07 春の散歩道 4

コムンゴ(거문고)

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コムンゴ(거문고)
 
コムンゴ(거문고)は、朝鮮の伝統楽器で、玄琴ともいう。琴の一種で、弦は6本ある。左手で弦を押え、右手で持ったスルテ(술대)という棒で弦を弾いて演奏する。「三国史記」によると、高句麗時代に王山岳が、中国の琴を改造して発明したという。

琴は低く重厚な音から高い音まで幅広いオクターブの音を出す韓国の伝統弦楽器である。 ヒョンハクグム (玄鶴琴)、 現金 (玄琴)とも呼ばれている、増補文献備考による楽器分類法の中でサブ(絲部)に属する。

丸太筒に絹糸六をつなぎ房通り食む楽器で、ジュルプンリュをはじめ歌曲伴奏・三条に使われる。 音は深く屈せずして荘重て男性的なので、昔から白亜指数(百樂之首)として士が音楽の道を磨く器に大切にしてきた。

名称と由来

本来4県17掛だった今は6弦16グェロ変わった。 三国史記によれば、 王山 (王山岳)が、中国の楽器であるチルヒョングム (七絃琴)を改造して琴を作った。 チルヒョングムはあるが、演奏することができる人が誰もいないことを王が悲しんと、王山がその奏法を変え、100曲余りを作曲して捧げ王の前で演奏するので、やがて黒い学が飛び込んできたのである。 これを「ヒョンハクグム(玄鶴琴)」と呼ぶが、「黒い(学)と '、'琴」と呼ばれるとする。

秦以前高句麗古墳壁画に琴円形に見える楽器がありますので、琴はそれ以前から原型が高句麗にあったようだという説もある。 琴は新羅に伝えられ新ラインオクボゴ(玉寶高)が智異山で50年の間に修練した末、30曲を建て通称得(續明得)に伝え通称得は貴金属先生に、貴金属先生はサドル(安長)と庁長(長)に、サドルは極上(克相)とグクジョン(克宗)に教えたという。 グクジョンは7曲を作って、グクジョン後の世界で琴をする人が多かったという。 王山が作ったバック曲余りは曲名も伝わらず、オクボゴが建てたサンウォンゴク(上院曲)・中原曲(中院曲)・ハウォンゴク(下院曲)・南海曲(南海曲)など30曲は名前だけ伝える。

琴名称がヒョンハクグムで出てきたが、「三国史記」の記録とは別に、「琴」は「黒と」で高句麗金(高句麗琴)と解釈する説もある。 高句麗の昔の名前である「剣」、「熊」とストリングスを意味する」と」が合わさって作られた言葉で「高句麗の弦楽器」という意味で呼ばれたのである。 [1]

栗(裏板)を、ナツメの木(掛)付けて作成されたウルリムトン上絹糸を松(直径約10センチほど丸くした棒状)に巻いてツァー署内作ら6行(絃 - ムンヒョン、幽玄、大賢、グェサン青、掛下請け、ムヒョン)を結ぶ
琴筒の前面は、桐板、裏は栗版になった。 筒の長さは5文字程度、広さは5値(寸)8分(分)程度となる。 琴の頭側をリューズ(龍頭、龍の頭)、尾側をボンミ(鳳尾、鳳凰の尾)、リューズの上面を左端(坐團)とする。 通上タンタンハンフェモク(會木)にされた16個の掛が順番に熱建て建っている。 リューズ左端と通じ間にはヒョンチム(絃枕)が飽きている。 [1]

通前面上には、6つの行がリューズとボンミにつなぎ留めているが、リューズの方には行が裏面ジングェに毎回っている。 行は近い側からムンヒョン(文絃)・幽玄(遊絃)・テヒョン(大絃)・グェサン青・期グェチョン・ムヒョン(武絃)と呼ぶ。 幽玄・テヒョン・グェサン庁は掛上乗っていて、ムンヒョン・期グェチョン・ムヒョンはアンジョク(雁足)に支えられている。 テヒョンが最も太くムンヒョン・ムヒョン次でグェサン庁次に、ギグェ庁次細く幽玄が最も細い。 [1]

右手に固体ヘジュク(海竹)にされたスルデ(匙)を握ってヒョンチム近くの行を、私のリッチたり遡っ余裕術通り前面筒が上下ことを防ぐため柔らかい革でできた名付け親(玳瑁)を容器に覆う。 [1]

演奏と指

左手は指で弦を押し掛をジプオソ音を出す指(運指法)は、次のとおりである。 所持(小指、小指)はムンヒョン位につけて、ムミョンジは幽玄を、中指は大賢を、冷め(食指)と親指は幽玄とテヒョンをあまねく押す。 琴口音法(口音法)は、行と押す指に沿って定められており掛は変わっても口音は変わらない。 テヒョンを中指で押すと、「小」テヒョンを冷ますに押すと、「柱」テヒョンを親指で押して」など「幽玄をムミョンジに押すと、「党」幽玄を冷ますに押すと、「同」幽玄を親指で押すと、「ジン」ムンヒョンを経幽玄のいずれ音を2泊にわたって乗るとき「サルゲン」ムンヒョンを経て幽玄のいずれか音をした朴中高速続い脱テネは「サレン」ムンヒョンを経て大賢者の決められた音まで乗るとき中指についた音は、スルギトウ」、人差し指で脈音は「スルギヅン」、親指で脈音は「スルギなど」と呼ぶ。 [1]

琴演奏法
術通り(ヘジュクで作った長さ約16センチ、直径0.6-0.8センチ)か、またはトゥトオソ音を出す。

(正楽な姿勢)

まず、左の足を内側に曲げ、右の足の左の足先に店の机の脚をして座っている。
次の名付け親半月型の部分を右膝の上に置いて、左ひざには琴の裏面をまっすぐ斜めに貯まる。
(民俗楽な姿勢)

まず、右の足を左ひざの上の中曲げ、左の足右の足先に出てくるよう机の脚をして座っている。
次の名付け親半月型の部分を左の足の上に置き、左ひざには琴の裏面をまっすぐ斜めに貯まる。
演奏時の顔は常に左手を見ながら演奏する。
右手ではスルデをそっと握って使用して音を出して、左手は掛上で音をキャッチして装飾音(導電性、トゥェソン、チュ)などを入れてくれる。 スルデを書くとき、手首だけ動かず、腕全体を自然に動かなければならない。 左手の指は、ムミョンジ指は幽玄を、中指は大賢を、冷めと親指は幽玄とテヒョンを音に基づいて押す。

琴口音法

楽器の音をまねた口音法は、行と指に応じて決まるが、現行琴の口音の約束は、以下の通りである。

(棵が変わっても口音は変わらない)

テヒョンを中指で押すと、小
テヒョンを冷ますに押すとか
テヒョンを親指で押すなど
幽玄をムミョンジに押すごとに
幽玄を冷ますに押すと、 同
幽玄を親指で押すと、 ジン
ムンヒョンを経て幽玄の音を経て音出すときサルケン 、 サダン 、 サドン 、 サジン 、 サルダン 、 サルドン 、 サルジン等..
ムンヒョンを経て大賢者の決められた音まで続い乗るとき中指についた音はスルギ小 、 スルギヅン 、 スルギなど 、 購入キドン 、 購入キヅン サルキなどなど
ムンヒョンは購入 、 スルーなどと呼ぶ。
開放弦(グェサン青、掛下請け、ムヒョン)は青 、 青 、 青と呼ぶ。

琴とカヤグム

共通

琴、伽両方弦楽器である。
あぐらで座って演奏する。
楽器の材質は、バックパネルは栗の木、トップは桐の行は絹糸をねじって作る。
楽器通の上部(リューズ下)にヒョンチム(絃枕:行を支える役割をする)と呼ばれる木を当ててヒョンチム上の穴を開けて行を入れた次のドルグェ(バックパネルに行が解けないようにホールドしてくれる役割と楽器の音の調整をする)に縛ってくれる。 ボンミ上部に行を支えて編んでくれるハクスルとガマがある。
民俗楽や正楽は右手で行を強要演奏し、左手では音を持ってノンヒョンと装飾音などをする。

違い

楽器与える

カヤグムに比べ琴の行がはるかに厚い。 カヤグムは12列、琴は6列で。

奏法

カヤグムは手で弦をはがすのに反して琴はスルデを利用して演奏する。 左手ノンヒョン時カヤグムはアンジョクから10〜15cm離れたところでの行をクリックして押したことを聞いて演奏したり、琴は行を前に押すか、またはミンジュルを後ろに引いて演奏する。
また、演奏時の楽器のなるこが違う。 カヤグムは演奏者の視野にまっすぐおくが(観客が見るとカヤグムの側面が見える)、琴は前を向いて少し(約15度の角度)立て演奏する。(観客が見る時の楽器の前面がはっきり見える。)

構造

カヤグムはアンジョク(左右に動かして音の高さを調節する)が12個、琴は​​掛(左手でジプオソピッチを調節する)が16個、アンジョクが3つである。

演奏者

カヤグムは音が細く、カラフルな音色を帯び、昔おおむね女性がたくさん演奏した。 琴は太く、深く壮大な音色を帯び、ソンビがたくさん演奏した。 だからカヤグムは、女性的な楽器として琴は、男性的な楽器と呼ばれる。

関連文化財

ヤングム新報 (梁琴新譜) -慶尚南道の文化財資料第308号、光海君2年(1610)に楽士ヤンドクス(梁壽)が綴った琴楽譜ある。













伽耶琴(가야금)

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伽耶琴(가야금;)

伽耶琴(かやきん、カヤグム、朝鮮語: 가야금)は朝鮮半島の伝統的な撥弦楽器。カヤッコ(朝鮮語: 가얏고)とも呼ぶ。

歴史

伽耶国の嘉実王のもとで楽師于勒により開発・演奏され、後に伽耶国が新羅に統合されたことに伴い、于勒とその弟子たちによって改良・完成され受け継がれたとする伝説が伝えられる[1]。韓国を代表する絃楽器のひとつである。

日本にも奈良時代に新羅から伝わり、新羅琴と呼ばれて平安時代まで貴族の間で演奏されたと言われ、現在も奈良県の正倉院に保存されている。

古式の加耶琴は宮廷の正楽に使われ、風流加耶琴・正楽加耶琴・法琴などと呼ばれる。これに対して民間では新しい形式の加耶琴が発展し、これを散調加耶琴と呼ぶ。見た目の差として風流加耶琴は左端に羊耳頭と呼ばれる部品がついているのに対し、散調加耶琴では羊耳頭を欠く[2]。

構造

青桐の胴体に絹の絃を張ったもので、長さは5尺(152センチメートル)、幅6寸8文(21センチメートル)で、尾はへの字形で、尾に絃を巻き付ける。基本は十二絃で、柱を有し、柱は岐稞ともいい、高さは1寸5分ないし1寸1分で、脚の幅は2寸ないし1寸4分である。 十二絃は1年の12ヶ月を表し、5尺は韓国の古典音階の5音を示し、裏面にあけられた紋様の穴は、それぞれ太陽、月、地球を意味し、宇宙を象徴していると言われる。 柱があり、右手の爪で弾じ、左手で押手あるいは各種の色(いろ。ゆり、突きなど)をこまかくおこなう。 調律法は楽時調(平調と界面調の2つ)、羽調(平調と界面調の2つ)、河臨調(清風体とも)の3つある(事実上5つ)。

関連項目

古筝

コムンゴ
ファン・ジニ (テレビドラマ)











ユルマズ・ギュネイ(Yilmaz Güney)

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ユルマズ・ギュネイ(Yilmaz Güney)

ユルマズ・ギュネイ (Yılmaz Güney, 1937年4月1日 - 1984年9月9日) は、トルコの映画監督・脚本家・小説家・俳優である。

来歴

1937年4月1日、アダナ近郊でザザ人の父とクルド人の母の間に生まれる。両親は綿畑の労働者としてトルコに移住してきたため、ギュネイは労働者階級として育つ。アンカラとイスタンブールの大学で法律と経済学を学んでいたが、大学在学中の1958年に俳優・脚本家として映画業界で働き始める。初めはアートゥフ・ユルマズ(トルコ語版)監督のアシスタントであったが、すぐに二枚目俳優として人気となり、1975年までの17年間で100本以上の作品に出演した。脚本家としても1983年までの25年間で50本以上の脚本を執筆している。

1960年に国内でクーデターが起こると、執筆した小説が共産主義的であるとされ、1960年から1962年までの2年間、ギュネイは刑務所に投獄される。出所後、1966年に『At avrat silah』で映画監督としてデビュー。1968年には映画制作会社「ギュネイ・フィルム」を立ち上げ、『希望』(1970年)や『エレジー』(1972年)など、4年間で13本の作品を監督するが、多くはトルコ政府から上映禁止処分を受ける。

1972年、アナーキストの学生を匿った罪で再び投獄されると、ギュネイは獄中から指示を出し、助手のシェリフ・ギョレンが現場で演出を行うという形式で映画製作を行い、同年、恩赦を受けて出所し、『アルカダシュ』を撮影したが、『エンディシェ』(1974年に完成)の撮影中にユムルタルク(英語版)郡のカジノで口論相手の郡判事セファー・ムトゥルを射殺したかどで逮捕され、10月25日にアンカラ重刑罰裁判所で開始された裁判の結果、1976年7月13日に19年の禁固刑を言い渡された。ギュネイは再び獄中から指示を出し、ゼキ・オクテンが演出を行った『群れ』(1979年)や『敵』(1980年)といった作品を製作し、前者はロカルノ国際映画祭特別表彰や英国映画協会サザーランド杯、後者は第30回ベルリン国際映画祭で特別表彰を受賞するなどいずれも高く評価された。また、1977年と1981年には業績を称えられ、ベルリン国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を2度受賞している。

1981年に刑務所を脱獄し、フランスに亡命。獄中のギュネイの指示を元にシェリフ・ギョレンが演出を行った『路』の編集作業を行い、翌1982年に完成させる。刑務所から仮出所を許された5人の男の姿を描いた本作は第35回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞する。1984年、亡命先のパリで胃癌により47歳で死去した。

監督作品

パリのペール・ラシェーズ墓地にあるギュネイの墓
























外部リンク








ドン・アスカリアン(Don Askarian)

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ドン・アスカリアン(Don Askarian)

ドン・アスカリアン(Don Askarian, 1949年 - )は、ナゴルノ・カラバフ出身の映画監督・脚本家。1967年よりモスクワで歴史と芸術を学ぶ。1978年に西ドイツに移住し、30年以上の間ドイツで製作活動を行う。

略歴

ソビエト連邦内アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国、ナゴルノ・カラバフ自治州のステパナケルトに生まれるが、祖父母や両親はそれぞれ違う村の出身であった。少年時代は森など自然に親しんで過した。1967年モスクワ大学でマルクス主義とレーニン主義を学ぶ。歴史学の学位と歴史の教員免許を取得する。

その後、大卒者のための監督コースをとり、映画の勉強をしながら映画批評を書きはじめるものの、正式には映画学校で映画制作を学んではいない。この時にシネクラブで多くのフィルムを見たが、ミケランジェロ・アントニオーニ、また彼の構築した映像言語や手法を評価してヨーロッパの偉大な監督として挙げている。1973年頃から助監督としてウズベキスタンの監督ルスタム・ハムダモフの『愛の奴隷』の撮影に加わる。また、映画評論執筆などの映画に関わった仕事を始め、セルゲイ・パラジャーノフについて書いた評論が本人の目に留まり仕事の誘いを受けるが、パラジャノフが1974年に突然逮捕されてしまい、その後ついには仕事をすることはなかった。

1975年、赤軍への兵役拒否のため、アルメニアの刑務所に2年間投獄される。この兵役拒否は反体制や政治的なものではなく、自分自身であるための結果であったとしている。1978年、旧ソ連から旧西ベルリンへ。もともとはアメリカに亡命し、ニューヨークに行く予定であったが、悪質なブローカーのせいでベルリンへと、現在では妻でありプロデューサーであるマルガリータ・ヴォスカニアンとともに亡命する。

1983年、チェーホフの『熊』を自費制作し映画化する。脚本、監督、装置、衣装を全て担当する。制作にあたっては制作費はスタインウェイ社のマニュアルを読み取得して中古のピアノやクラヴィーアなどを購入・修理して、それをまた売りに出すことでまかなった。この作品は幸いにもすぐにテレビ局に売ることが出来たので、その結果次の『コミタス』の制作につながる。

1985年、『コミタス』を監督。アルメニアの19世紀末から20世紀前半まで存命した修道士で作曲家であったコミタスの生涯を描いたものであったが、アルメニアで撮影することはかなわず、ギリシャなどヨーロッパ各地で撮影された。『コミタス』は各地の国際映画祭で受賞する。

1988年ドキュメンタリー「ナゴルノ・カラバフ:アルメニアの歴史、第三部および第四部」を監督。ドイツ第一放送で放映される。

1992年『アヴェティック』完成する。1995年、アスカリアンは自分の制作・配給会社であるDon filmをアルメニアに、1998年にはAskarian Filmをドイツに設立する。1998年にはパラジャーノフのドキュメンタリー映画『Paradzhanov』を制作。2001年には『On the Old Roman Road』を制作。


主な作品








外部リンク























アルメニアの音楽(Music_of_Armenia)

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アルメニアの音楽(Music_of_Armenia)

アルメニアの音楽はアルメニア 高原で起きており、人々は伝統的に人気のある民謡を歌っていました。 アルメニアは19世紀後半と20世紀初頭に著名な司祭と音楽学者Komitasによって主に収集され、開発された長い音楽的伝統を持っています。 アルメニア音楽は作曲家Aram Khachaturian 、 Alexander Arutiunian 、 Arno Babadjanian 、 Karen Kavaleryan 、 Duduk Djivan Gasparyan 、 Ara Gevorgyan 、歌手Sirusho 、 Eva Rivasなどのポップミュージシャンとパフォーマーによって国際的に発表されました。

メロディーベース

伝統的なアルメニア民族音楽やアルメニア教会音楽は、ヨーロッパの音色システムに基づいているのではなく、 テトラコーズのシステムに基づいています。 1つのテトラコードの最後の音符は、理論的に無限のスケールに基づいて多かれ少なかれアルメニアの民俗音楽をたくさん作り出す次のテトラコードの最初の音としても役立ちます。

フォーク音楽

アルメニア人は古代からの伝統的な民俗音楽を持っています。 ソビエト支配の下で、アルメニアの民族音楽は国家主催のコンサバトリーで教えられました。 楽器には、 qamancha (ヴァイオリンに似ています)、 kanun ( dulcimer )、dhol( ダブール )、 oud ( リュート )、duduk、 zurna 、blul( ネイ )、 shviなどがあります。 バイオリンやクラリネットなど、他の楽器がよく使われます。 デュダックはアルメニアの全国楽器であり、有名な演奏家の中にはマルガル・マルガリアン、レヴォン・マドヤン、 サロ・ダニエリアン 、 ヴァチェ・ホーヴェ スピアン 、 ゲオルグ・ ダバギャン 、 イェフシ・ マノキアン 、アルメニアの最も有名なデュダク・プレイヤー、 ジバン・ガスパリャンがある 。 [2]


アルメニアの民俗音楽家

アルメニアの歴史のなかでは、 カマンチャのような楽器は、 有名な旅行者が歌っていました 。 Sayat Novaは、18世紀のAshoughであり、アルメニアで崇拝されています。 Armenak Shahmuradian、Vagharshak Sahakian、 Norayr Mnatsakanyan 、Hovhannes Badalyan、Hayrik Muradyan、Raffi Hovhannisyan、Papin Poghosian、Hamlet Gevorgyanなどのパフォーマーは、アルメニアでも有名であり、依然として評価されています。 アルメニア民族の最も注目すべき女性ヴォーカルは、Araksia Gyulzadyan、Ophelia Hambardzumyan、Varduhi Khachatrian、 Valya Samvelyan 、Rima Saribekyan、Susanna Safarian、Manik Grigoryan、Flora Martirosianです。

中東の他の地域から集まったアルメニア人移民は、特にカリフォルニアセントラルバレーで様々な国に集まり 、第二世代と第三世代は有名な貧乏人リチャード・ハゴピアンのような民族伝承を生かしてきました。 1960年代のジャズとロックを取り入れた伝統的な音楽の融合が特筆されています。 レバノンとシリアからは、 ジョージ・トゥトゥニャン 、 カルニグ ・サルシッシアンなどがアルメニアの革命歌を演奏し、 アルメニアのディアスポラ 、とりわけARFの支持者の間で急速に普及しました。 イランのテヘランでは、アルメニアの民族音楽は、 Nikol Galanderian (1881-1946)とゴッタン合唱団の作品が特徴です。

他のアルメニアのミュージシャンにはカナンで演奏するアラトポウジアンと、フォーク、子供と愛国的な歌を歌い、キーボードで演奏し、「他のゴミダス」、Grikor Mirzaianの音楽を促進するVANArmenya [3]などがあります。 [4]

アルメニアからは、1995年にイェレヴァンで設立されたShoghaken Folk Ensemble [5]が世界的に人気を博し、Arev Armenian Folk Ensembleなどの民族アンサンブルがいくつかあります。

ArtoTunçboyacıyanは、トルコと世界中で有名で、現在アルメニアのエレバンに独自のジャズクラブを持っている、よく知られているトルコのアルメニア系ミュージシャンです。 彼はアルメニア海軍バンドの創設者でした。

Ruben Hakobyan(Ruben Sasuntsi)は、アルメニア民族音楽と傑出した才能へのこだわりのために広く国家的な認知を得ている、よく知られているアルメニア民族民族民族民俗歌手です。

クラシック音楽
アルメニアの古典的な作曲家には、 オスマン帝国のクラシック音楽の最もよく知られた作曲家の1人であるKemani Tatyos Ekserciyanが含まれる。 アレクサンダー・スペンディアロフ (1871-1928)、 アルマン・ティグラーニャン (1879-1950)、ハロ・ステパニアンはアルメニアのオペラで最もよく知られています。 Sargis Barkhudaryan (1887-1973)とCaro Zakarian (1895-1967)は、旧ソ連アルメニア時代の代表作曲家である。 しかし、最も有名なのはAram Khatchaturian (1903-1978)で、国際的には様々なバレエのための音楽と、バレエGayaneのための彼の作曲からの不朽のセイバーダンスが特によく知られていました。 バーゼル・カナッチァン (1885-1967)、 エドワード・ミルゾヤン (1921-2012)、 ボリス・ パーサダニアン (1925-1997)、 アショウ・ゾラビヤン ( 1922-1997 )、 アヴァロン・ ツァイビヤン (1926-1999) 1945 - )、 Aram Satian (1947 - )は、他のソビエト時代のアルメニア作曲家を代表する。 イオシフ・アンドリアソフ ( Iosif Andriasov、 1933-2000)の音楽と倫理は、現代文化における最も重要な人物の1人として国際的に認められました。 Alexander Arutiunian ( 1920〜2012 )は、 フラット・メジャーのトランペット協奏曲として最もよく知られています。 Alexander Dolukhanian (1910-1968)は、よく知られている「スワロー」を含む数多くのアルメニアの歌を作曲/編曲した。 アレクサンダー・アゲミアン (1925-1987)、 アショウ・ サティアン (1906-1958)、 ヴァガルシュク・コトヤン (1921-1992)は、アルメニアの合唱と声楽に貢献したことで知られています。 Eduard Abramian (1923-1986)はアルヴェナの詩人Hovhannes TumanyanとAvetik Isahakianが現在標準レパートリーの一部となっている詩を書いた。 Artemi Ayvazyan (1902-1975)は、人気のある「東洋からの歯科医」をはじめ、ソビエトの最初の音楽コメディを書いた。 近年、 Avet Terterian (1929-1994)、 Tigran Mansurian (1939-)、 Vache Sharafyan (1966)、 Aram Petrosyan (1972-)は世界的な成功を収めました。 他の著名な、より最近の古典的な作曲家はKhachatur Avetissian (1926-1996)であり、その作曲の多くは伝統的な 民俗学のテーマに基づいている。 ウルグアイ・アルメニアの作曲家CoriúnAharonián (1940〜2017)は、著名なアヴァンギャルドな作曲家の他にも、幅広い音楽学的・政治的研究を行っている。 アルメニアの民族主義作家、 アレクサンダー・カロワン (1962-)は、マルケス、トーン・ポエム、交響曲などのミリタリー・バンドとオーケストラのための彼の明白な国家主義作品として知られています。 [7]

クラシック音楽では、ソプラノ・ゴハ・ガスパリャン、 ソーナ・ガザリアン 、アルパイン・ペフリヴァニア 、ルシン・アマラ 、 キャシー・ベルベリアン 、そして最近ではイザベル・ベイラクダリアンとアンナ・カシャン 、テノールのティグラン・レヴォニアン、 ゲガム・グリゴリアン 、 ヴァハン・ミラキヤンなど世界中のアルメニア歌手が世界的に認められている。 ベースAra Berberian 、Henrik Alaverdian、そしてバス・バリトンのBarsegh Toumanianが含まれます。

ディアスポラでは、ピアニスト、 シャハン・アルルーニ 、バイオリン主義者 、 レヴォン・チリンギアンなどの有名なアルメニアのミュージシャン、 アラン・ ホバネスなどの作曲家が国際的な名声を博しました。

スコット・ジャイルズ (1965-)は、彼の多くの交響曲や協奏曲で知られているアルメニア系アメリカ人です。 アルメニア - カナダの作曲家Vahram Sargsyan (1981-)は、アルメニア人の現代音楽作曲家の若い世代であり、主に彼の合唱作品で知られています。 [8]

宗教音楽

8つのモードのうちの1つで構成されたアルメニア聖歌は 、 アルメニアで最も一般的な種類の宗教音楽です。 それはkhazに書かれています。これは、固有の音楽表記の一形態です。 これらの聖歌の多くは、起源が古く、キリスト教の時代以前のものであるが、 アルメニアのアルファベットを再導入した聖 メスロップ・マシュートによって構成されたものもある。 これらの聖歌やシャラカンの最高のパフォーマーのいくつかは、 Etchmiadzinの聖堂にあり、後期ソプラノの Lusine Zakaryanを含んでいます。

アルメニアの宗教音楽は、 Komitas Vardapetが19世紀末に多音を導入するまで典礼にとどまった。 Komitasは、宗教音楽への貢献は別として、現代の古典的なアルメニア音楽の創始者と考えることができます。 1899年から1910年まで、彼はアルメニアの高地を旅し、3,000以上のフォークチューンを集めました。その多くは調和してリディアに変身しました。

アメリカの作曲家、 ダニエル・デッカーはアルメニアの作曲家、 アラー・ジョヴァーリアンとのコラボレーションで絶賛を博しています。 「ノアの祈り」(もともとは「マッシュ」と題されています)は、ノアのアララット山への旅を記したものです。 「ノアの祈り」は、2002年にアルマニアのSardarapatでデビューし、 アルメニア 人の独立記念日、 ロベルト・コチャリアン大統領と聖職者Karekin II、最高総主教とカトリック教徒全アルメニア人( アルメニアの使徒教会の頭)の存在で祝われました。 「アダナ(Adana)」と呼ばれる第2のコラボレーションは、 オスマン帝国の兵士が150万人のアルメニア人に飢餓、拷問、駆除を強いるアルメニア人虐殺の話を伝えている。 彼らの最初のコラボレーションと同様に、DeckerはAra Gevorgianの音楽風景を補完する歌の壮大な歌詞を書いた。 Cross Rhythmsは 、ヨーロッパの一流の宗教誌とウェブポータルで、「アダナ」は「壮絶な芸術作品を作ったことを忘れて惨めな災難を起こすことはめったにない」と語った。

ジャズ

主な記事: アルメニアのジャズ
イェレヴァンの最初のジャズバンドは1936年に設立されました。ソ連ジャズは1938年にアルメニア州エストラダオーケストラを設立したアルテミ・アヴァジヤンのようなアルメニア人が開発しました。声ジャンルの慣習的なパフォーマーはGeorgi Minasian、Artashes Avetyan、 Levon Sevan。 アラモのようなアルメニアで人気の歌手に影響を受けた歌手がいます。

人気のある音楽

ポップミュージック

アルメニアの伝統的な曲は、 Rouben Matevosian 、 Ophelia Hambardzumyan 、 Varduhi Khachatrian 、 Papin Poghosianなどの有名なパフォーマーと関連付けることができます。 ポップ音楽では、 Suzan YakarとUdi Hrant Kenkulianは、1920年代と1930年代にトルコの有名なキャバレー歌手でした。 現代のアルメニアのポップ・ミュージックの他の女性代表者には、Bella Darbinyan、Raisa Mkrtchyan、Elvina Makaryan、Erna Yuzbashian、Nadezhda Sargsian、Zara Tonikyan、Suzan Margaryan、Tatevik Hovhannisyanなど現代声優が含まれます。 アルメニアの男性ポップパフォーマーにはRouben Hakhverdian 、ディアスポラにはアディス・ハーマンディアン 、 ポール・バグダッドリアン 、フォルシュが含まれます。

ラビズ音楽

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主な記事: Rabiz(音楽ジャンル)
Rabizは、アルメニアのポピュラー音楽のジャンルを指す用語としてよく使われる用語です。 ラビーズの音楽は、アルメニア民謡の要素を持つ歌詞と音楽によって区別されます。

幅広い使用にもかかわらず、ラビーズという用語は明確に定義されていません。 いくつかの情報源によると、それは文字通り "労働の芸術"を意味するソビエト時代に使われたロシア語の "рабочееисскуство"(raboche'is iskustvo)に由来しています。 しかし、この場合でさえ、それは最初の意味を失った。 大勢の歌手とそのリスナーがRabizを音楽ジャンルと呼んでいますが、この言葉はライフスタイルにも広く使われています。 ラビッツは音楽の味だけでなく、ファッションやライフスタイルも指します。 この使用の意味は、話者の個人的な好みおよび/または音楽的好みに大きく依存するが、

それはロサンゼルス、アルメニア、ロシアのアルメニア人の青少年に広く知られており、ラビーズと呼ばれています。 Rabizの音楽はTatoul AvoyanやHayko Ghevondyanのようなミュージシャンが主に演奏する音楽です。 それは、そのキャッチーなビートとダンスタイプの音楽のためにアルメニアの音楽の顔を取った。 ラビーズの音楽は、主に「ケフ」と呼ばれる愛やパーティーだけでなく、家族やアルメニアへの愛についても言及しています。

狂詩曲の音楽的言語は、いくつかの音楽的な伝統(主にアルメニア人の国家、宗教的なスタイル、マカム(古典的な宮廷音楽のスタイル)の東部)をブレンドしたものであり、繊細な東洋の調和と豊かさによって特徴付けられるミュージシャンが純粋に音楽的手段によって所望の効果を達成することを可能にするメリシナスの使用。 [10]

ラビーズの音楽は、最近、トルコで予期せぬ成功を収めました.Super SakoとHayko Ghevondyan(「Spitakci Hayko」とも呼ばれます)のヒット「Mi Gna」は、Shazam Top 100のリストで1位を獲得し、YouTubeでの120 M以上の視聴回数を記録しています9月14日、2017年。 [11] [12]この成功はアルメニアとトルコのリズムとメロディの間の類似性の結果であると考えられている。

ロック

主な記事: アルメニアの岩

旧世代のロックバンドの中にはArthur Meschianの "Apostles"、 " Vostan Hayots "、 "Ayas" 、Arevatsaqがあります。 Sard 、 Bambir 2などの若手ロックバンドへの関心が高まっています。特に、新しい曲のビデオが地元のテレビで公開された後に増加しています。 ロードムービー 、 ドグマのようなグループでは地下にいて、ロッククラブでコンサートを演奏しています。

米国で最も人気のあるオルタナティブメタルバンドの1つは、Daron Malakian、Serj Tankian、Shavo Odadjian、John Dolmayanによって構成された、すべてがアルメニア系であるSystem of a Downです。 Serj Tankianは、政治的、社会的意識の高いコンテンツを含むいくつかのソロアルバムをリリースしました。 加えて、 アルメニアから世界で最も人気のあるオルタナティブ・ロック・バンドはThe Beautified Projectです。 その形成以来、バンドはアルメニア 、 米国 、 モスクワで数々の賞を受賞し、 MTV 、 BBC 、 PMC 、 KCALなどの国際チャンネルで放映されています。 [14]バンドはアルメニア 、 英国 、 オーストリア 、 ドイツ 、 フランス 、 ロシア 、 ジョージア 。 [15]

ヒップホップ

アルメニアのヒップホップの音楽は、若者の間で徐々に評判が悪くなっています。 注目すべきバンドの1つは、2001年に設立されたHay Tgheq( Հայտղեք ) でした。後のバンドメンバーのMishoとHT Haykoは、自身のソロキャリアを開始しました。 米国の注目すべきラッパーの1つは、 カリフォルニア州 グレンデールの R-Meanです。 R-Meanはアルメニア人コミュニティの人気を得て、Armenian Genocideを記念してOpen Wounds 1915の運動を開始したOpen Woundsという曲を歌いました。 この曲は最近、新しいビデオでリリースされ、YouTubeだけで260,000以上の視聴者を獲得しました。 R-Meanはまた、マルチプレイ・ラッパーGame and SlaughterhouseのメンバーであるCrooked IとJoe Buddenの曲を作った。 他のHip-HopグループはドイツでA-Shot、ArmoX&15Volt、および米国の Super Sakoによってドイツで設立されたArmeniosなどのグループに属していました。

ディアスポラのアルメニア人ミュージシャン

アルメニア出身の音楽家が多数いるが、アルメニアの外に住んでいる(または生まれている)。 それらのいくつかは世界中で有名です。 フランスでは、アルメニアの降下芸術家、 チャールズ・アズナヴール ( Aznavourian生まれ)は、何十年にもわたって有名なショーや歌手です。 2009年、アルメニア系アメリカ人シンガーソングライターSerj Tankianと彼の父Khatchadour Tankianは、アルメニア系チャリティTelethonで "Bari Arakel"の演奏を歌いました。 アルメニア系アメリカ人のポップアーティストには、 Cher (実名はCherylin Sarkissian)と人気のあるヘヴィメタルバンドSystem of a Downのメンバーが含まれます。 キーボードのデレク・シェリシアンは、 アリス・クーパー 、 キス 、 ドリーム・シアターと他の多くのアーティストと一緒に遊んだ世界的なロック・キーボードの伝説です。 アンディ・マディアンはアルメニア・イラン人の伝説のアーティストであり、ヴィーゲン・デルデリアンはアルメニア・イランの伝説のジャズ・ポップ・アーティストです。 ヴァイエ・マルディロシアンはギタリストとして知られており、アルメニア系の作曲家であり、手作りのフラメンコギターでフラメンコスタイルの音楽を演奏しています。 Armik 、アルメニア - イランのフラメンコギタリスト、作曲家。 ギタリストとして、彼は2004年、2005年、2006年、そして2008年にBillboard Magazineのトップテンニューエイジアーティストに登場したNuevo Flamencoのジャンルの最も名高い巨匠の一人です。アルメニア系アメリカ人ピアニスト/キーボード/作曲家/ヴォーカリストDanny Bedrosian 2003年よりロックンロール・フォー・フェイム・インテンダード・バンド、ジョージ・クリントン、パーリアンス・ファンクデリック(P-Funkとしても知られています)の主要キーボード奏者として活躍しています。8つのショーとカウントで、6つのすべての大陸と世界中の35の国以上。 Bedrosianは、人口が50万人に達する前に遊んでいました。 彼は同様に、P-Funkでの彼の誕生以来、グループによっていくつかのライブとスタジオのアルバムに登場した。 Bedrosianの祖先はKharpert州出身で、彼の家族はKharpert市とHabousi Villageの虐殺生存者から下っています。 アルメニアのミュージシャン、ジョージ・Mgrdichianは、ジャズのジャンルでいくつかの楽器を演奏しました。 彼はクラリネットを好んだだけでなく、アメリカのバンドと一緒になっている間に耳を学んだ。 彼は2006年に71歳で死去した[17]。

サンプル

カリフォルニア大学ゴールド: 30世紀コレクションからの北カリフォルニアのフォーク・ミュージックの "Erivan bachem arer"(アルゼンチン・アメリカ民謡)の録音 。 1939年4月16日にカリフォルニア州フレズノで Ruben J. Baboyanによってアカペラを演奏した


アルメニア文化






外部リンク




アルメリア民族音楽



















テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)

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テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)

テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)ことテオドロス・アンゲロプロス(ギリシャ語:Θόδωρος Αγγελόπουλος、Theodoros Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)は、ギリシャ・アテネ出身の映画監督。

略歴

1935年、アテネで生まれ、子どもの頃に第二次世界大戦や1940年代後半の国内の政情不安を体験。アテネ大学法学部を卒業後、兵役を経てフランスのソルボンヌ大学、高等映画学院に留学。帰国後は映画雑誌で批評活動を4年間展開した後、1968年に短編ドキュメンタリー映画『放送』を自主製作して映画監督としてデビュー。

1970年に初の長編作品『再現』を監督した後、ギリシャの現代史を題材にした3部作『1936年の日々』(1972年)、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)を発表し、世界的な名声を獲得する。1980年に『アレクサンダー大王』でベネチア国際映画祭金獅子賞を、1988年に『霧の中の風景』でベネチア国際映画祭銀獅子賞を、1995年に『ユリシーズの瞳』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を、1998年に『永遠と一日』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞[1]。

「20世紀三部作」の第1部『エレニの旅』(2004年)においては、舞台をバルカン半島以外にも広げ、新たなる展開を示した。20世紀三部作は、当初『トリロジア』という題名の1本の長編となる予定であったが、上映時間が膨大になりすぎるため、三部作として製作されることとなったという[2]。2009年に第2部『エレニの帰郷』を発表。第3部『THE OTHER SEA(もう一つの海)』の撮影中だった2012年1月24日、アテネ郊外のトンネル内でオートバイにはねられて頭を強打し、運ばれた先の病院で死亡した[3]。享年76歳。

監督作品




























エレニ・カラインドルー( Ελένη Καραΐνδρου )

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エレニ・カラインドルー( Ελένη Καραΐνδρου )

エレニ・カラインドルー[1](ギリシア語: Ελένη Καραΐνδρου、1939年11月25日[2] - )は、ギリシャの女性作曲家。

経歴

ティヒオ(Τείχιο)に生まれ、アテネで成長[2]。エリニコ・オディオ(Ελληνικό Ωδείο)でピアノと音楽理論を学び、1969年から1974年にかけてパリで民族音楽を研究し、ギリシャに戻った。

映画音楽や劇場用音楽の作曲など、多方面で活躍している。多くの映画監督との協力関係があるが、1982年以来、テオ・アンゲロプロスの多くの映画作品(『霧の中の風景』『永遠と一日』『エレニの旅』など)で作曲をしている。

ディスコグラフィー

アルバム

Music for Film(1991年)
Ulysses' Gaze(1995年)
Elegy of the Uprooting(2006年)
Concert in Athens(2013年)
Medea(2014年)

フィルモグラフィー

映画

霧の中の風景(1988年)
ユリシーズの瞳(1995年)
永遠と一日(1998年)
エレニの旅(2004年)
エレニの帰郷(2008年)


外部リンク








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[ L'Africana (Margarethe von Trotta's Original Motion Picture Soundtrack)]














ヤトガ(モンゴル箏)

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ヤトガ(モンゴル箏)

ヤトガは、モンゴルの伝統的なツィター属の撥弦楽器である。 おもにモンゴル国および内モンゴル自治区で演奏される。

概要

ヤトガはその目的に応じて、サイズ、調弦、ブリッジと弦の数が大きく異なる。ボディは長い木製の箱で、片方の端は下へ向かって傾斜がついている。演奏者は、右手の爪で弦をはじく。右手は弦に圧力を与え、音色をつくるのに使う。これは、日本の箏や朝鮮の伽耶琴の奏法に酷似している。

現代においてもっとも一般的なヤトガは、13本の金属弦を使用するタイプである。しかし、歴史的には、12弦の絹糸を使用するものが宮廷で使われた。これには象徴的な理由がある。12本の弦は12の宮殿の階層に相当していたのである。

モンゴルの伝統的な叙事詩である『ジャンガル』には、82のブリッジと800本の弦をもつヤトガを演奏する王女の話が含まれている。実際には、彼女は7本以下のブリッジで演奏していたといわれている。

ヤトガは、トゥヴァのyat-khaにとてもよく似ている。

関連項目

モリンホール - 馬頭琴とも呼ばれるモンゴルの擦弦楽器

外部リンク















サハラ砂漠西部のトゥアレグ族 ティナリウェン(Tinariwen)

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サハラ砂漠西部のトゥアレグ族 ティナリウェン(Tinariwen)

公式サイト

ティナリウェン(Tinariwen)は、サハラ砂漠西部のトゥアレグ族が結成したバンド。1979年よりマリ共和国北東部のキダルを拠点に活動している。

概要・来歴

1979年に、リビアの革命戦士キャンプで知り合ったメンバーを中心に結成された。

トゥアレグ人が自治権を求めて、マリ共和国政府と武装闘争を繰り広げる中、マリ北東部のキダルを拠点に活動し、カセット・テープでアルバムを発表。

2001年に初めてのCDにして、アフリカ以外でリリースされる初作品『ザ・レイディオ・ティスダス・セッションズ』を発表。

フランス語とトゥアレグ語による歌詞を用い、“砂漠のブルース”とも称されるサウンドは、ブルースのみならず、民俗的な要素も多分に反映した独自のものであり、その目新しさから称賛を浴び、2012年には第54回グラミー賞ベストワールドミュージックアルバム賞を受賞した。[1]

主なメンバー

Ibrahim Ag Alhabib - ギター,ヴォーカル
Alhassane Ag Touhami - ギター,ヴォーカル
Abdallah Ag Alhousseyni - ギター,ヴォーカル
Eyadou Ag Leche - ベース, ギター, カバサ, ヴォーカル
Said Ag Ayad - パーカッション, ヴォーカル
Elaga Ag Hamid - ギター,ヴォーカル
Abdallah Ag Lamida ("Intidao") - ギター,ヴォーカル
Mohammed Ag Tahada - パーカッション
Yad Abderrahmane - - ギター,ヴォーカル

作品
アルバム
The Radio Tisdas Sessions (2001年)
Amassakoul (2004年)
Aman Iman: Water is Life (2007年)
Imidiwan: Companions (2009年)
Tassili (2011年)
Emmaar (2014年)
Live In Paris (2015年)


























ハープ(harp)

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ハープ(harp)

ハープ(英: harp)は、西洋音楽で用いられる弦鳴楽器。

概要

弦鳴楽器の5分類の内ハープ属に属する。楽器用法としては弦楽器に属し、弓を使わずにもっぱらはじいて音を出すため、撥弦楽器に分類される。なお、オーケストラにおいては、弦楽器の主体となるヴァイオリン属の楽器と、音色も奏法も大きく異なるため、弦楽器群の楽器のひとつとしてではなく、挿入楽器として扱われる。日本語では竪琴(たてごと)と呼ばれる楽器群に含まれる。

共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結ぶ。棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に平行に弦を並べて張る。弦の数は数十本に及ぶ。この弦を指で弾いて演奏する。最も古い楽器の一つで、同種の楽器は世界各地に分布している。アイリッシュ・ハープ、アルパがその例である。ワーグナー作曲、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」において、ベックメッサー・ハープが使われる。これは小型のハープであり、古楽器に近い。なお、ブルースハープは、ハーモニカの俗称でハープとの直接の関連はない。

ハープの起源

ハープの起源は狩人の弓ではないかと考えられている。最も古いハープの記録は紀元前4000年のエジプトと紀元前3000年のメソポタミアのものではないかと言われている。シュメール王朝時代の遺跡からはほぼハープの原型と思われる楽器が発見されており、壁画の記録からも奏法もハープと同じものと見られる。古代の叙事詩やエジプトの壁画に現れ、世界中の多くの音楽文化で発展し独自の展開を遂げた。聖書にもハープは登場し、ダビデ王が最も著名なミュージシャンであるが、実際にはその「ハープ」はkinnorと呼ばれる、十弦の一種のリラであった。レバーハープ lever harpは演奏中にキーチェンジを可能にするもので、17世紀の後半に生まれた。これが発展し、近代的なコンサートハープが生まれた。

ダブル・アクション・ペダル・ハープ

現代の西洋音楽の独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているハープは、ダブル・アクション・ペダル・ハープである。これは、主に47本の弦を変ハ長調全音階で張り(半音低く調律された白鍵のみのピアノのイメージ)、7本のペダル(それぞれ3段階の位置があり、上から順にフラット、ナチュラル、シャープ)を足で操作することにより、各オクターブのハ、ニ、ホ、ヘ、ト、イ、ロそれぞれの弦を同時に半音上げたり、全音上げたりできるようになっているハープである。全音階ハープを転調などに対応できるようにするため、楽器職人セバスチャン・エラール等により作られた。この仕組みにより、様々な調を演奏することができるが(調によっては異名同音的に)、どんなに熟練してもペダルの操作を全くの瞬時に行うことは不可能であるため、オーケストラなどでは2人で演奏することによって、ペダル操作の不完全さを補うことがある。また、ダブル・アクション・ペダル・ハープに代わる楽器として、半音ごとに弦が張られたクロマティック・ハープというものも19世紀に作られたが、結局は廃れてしまった。

音域は6オクターブ半を持ち、最高音は中央ハの3オクターブ半上の変ト(ペダルで嬰トになる)、最低音は中央ハの3オクターブ下の変ハである。いちばん高音から0オクターブ(2音のみ)、1オクターブ・・・7オクターブ(3弦のみ)と数える。弦には識別のために色が付けられており、各オクターブのハ(C)の音が赤、へ(F)の音が青(黒)となっている。

最低音の2弦(C1, D1)はペダルアクション機構を持っていない。演奏の途中にフラット、ナチュラル、シャープの調律を切り替えることは出来ず、いずれかの調律に固定しておく必要がある。

著名なハープの楽曲・ハープの特徴的な楽曲
ハープ単独による楽曲
C・P・E・バッハ - ハープソナタ ト長調
ボクサ - モーツァルトの主題による変奏曲
サン=サーンス - 幻想曲 Op.95
フォーレ - 即興曲 変ニ長調 Op.86、塔の中の王妃 Op.110
カプレ - 2つの嬉遊曲
タイユフェール - ハープ・ソナタ
ヒンデミット - ハープ・ソナタ
ブリテン - ハープのための組曲 Op.83
ダマーズ - 2台のハープのためのソナチネ
室内楽曲(ハープと他の楽器による)
サン=サーンス - 幻想曲 Op.124(ヴァイオリンとハープ)
ドビュッシー - フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
ラヴェル - 序奏とアレグロ
ヴィラ=ロボス - 神秘的な六重奏曲
イベール - ヴァイオリン、チェロ、ハープのための三重奏曲
協奏曲
ハープ協奏曲の項目も参照。

ヘンデル - ハープ協奏曲 変ロ長調 Op.4-6
ディッタースドルフ - ハープ協奏曲 イ長調
クルムフォルツ - ハープ協奏曲(全6曲)
モーツァルト - フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (297c)
ボアエルデュー - ハープ協奏曲 ハ長調
ボクサ - ハープ協奏曲
ライネッケ - ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182
ブルッフ - スコットランド幻想曲 変ホ長調 Op.46(ハープに第2の独奏者に等しい役割が与えられている)
ドビュッシー - 神聖な舞曲と世俗的な舞曲(クロマチック・ハープのための作品)
ピエルネ - ハープと管弦楽のためのコンチェルトシュテュック Op.39
グリエール - ハープ協奏曲 変ホ長調 Op.74
ピツェッティ - ハープ協奏曲 変ホ長調
ヴィラ=ロボス - ハープ協奏曲
タイユフェール - コンチェルティーノ
ロドリーゴ - セレナータ協奏曲
ジョリヴェ - ハープと室内管弦楽のための協奏曲
フランセ - 2台のハープと弦楽のための協奏曲
声楽曲
ブリテン - キャロルの祭典 Op.28
音楽祭
国際ハープフェスティバル(草加市)
現代の著名なハープメーカー
イタリアの旗 サルヴィ・ハープ(Salvi Harps)
アメリカ合衆国の旗 ライオン&ヒーリー・ハープ(Lyon&Healy Harps)
アメリカ合衆国の旗 ヴィーナス・ハープ(Venus Harps)- W&W MUSICAL INSTRUMENT社の登録商標
フランスの旗 カマック・ハープ(Camac Harps)
ドイツの旗 ホルンガッハ・ハープ(Horngacher Harps)
日本の旗 青山ハープ(Aoyama Harps)
イギリスの旗 ピルグリム・ハープ(Pilgrim Harps)
現代の著名なハープ奏者

五十音順に並んでいる。クラシック音楽の演奏家一覧#ハープ奏者も参照。

セミヨン・クリコフ
朝川朋之
池田千鶴子
ニカノール・サバレタ
篠崎和子
アニー・シャラン
ヘルガ・シュトルク
竹松舞
長澤真澄
西山まりえ
フィア・ベルクハウト
松岡みやび
山宮るり子
吉野直子
アンナ=マリア・ラヴノポルスカ=ディーン
リリー・ラスキーヌ
アンリエット・ルニエ
マリサ・ロブレス
松岡莉子

外部リンク















ハイライフ(Highlife)

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ハイライフ(Highlife)

ハイライフ(Highlife)は19世紀からガーナ、シエラレオネ、ナイジェリア、リベリア等西アフリカの英語圏に広まったギター、ジャズ、ブラスバンドなど、ポピュラー音楽の総称。

概要

ハイライフは西アフリカの音楽と西欧の音楽が融合して成立した音楽を指した言葉であり、主に次の3つのジャンルの音楽をまとめてハイライフと呼んでいる[1]。

パームワイン・ハイライフ

船乗りが椰子酒を飲みながら演奏したとされる、ギターまたはバンジョーの音楽。リベリアで誕生し、海伝いにシエラレオネに渡り19世紀前半にジャンルとして成立した。その後ガーナから中央アフリカにまで影響を与えた。

ハイライフ・ブラスバンド

19世紀後半に西インド諸島からガーナに派遣されたイギリス軍のブラスバンドを基礎に、アフリカの音楽要素を取り入れた吹奏楽。

ハイライフ

「ハイライフ」の語源ともなった、もっとも狭義のハイライフ。第二次大戦後にガーナやシエラレオネで発展した、黒人の上流階級(ハイライフ)のためのダンスホールなどで演奏されるビッグバンドスタイルの音楽。
1950年代以降はエレキギターが現れ、近年はギター・バンド・スタイルと、ダンス・バンド・スタイルの2系統が主流となっている[2]。また、レゲエやゴスペルなど、様々なスタイルが生まれている。

著名なミュージシャン

w:Dr. Sir Warrior
w:S. E. Rogie
w:Koola Lobitos
w:The African Brothers Band
w:A.B. Crentsil
w:George Darko
w:Charles Amoah (singer)
w:Solomon Ilori
w:Rex Lawson
w:Prince Nico Mbarga
w:E.T. Mensah
オシビサ
w:The Sweet Talks
w:The Tempos
Pat Thomas
w:Daddy Lumba
w:Bolga Zohdoomah

参考文献

塚田健一「ハイライフとフォントムフロム:ンクルマの文化政策とガーナ宮廷音楽の変容」、『アフリカ研究』第60号、日本アフリカ学会、2002年、 NAID 130000730599。
北中正和 監修 『世界は音楽でできている:中南米・北米・アフリカ編』 音楽出版社、2007年。ISBN 9784861710261。

関連項目

アフロビート
ジュジュ
ワールドミュージック
















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