大岡昇平「野火」の問題 飢えの極限状態にあって、人を喰べるか否か、人を喰べて生き残ることの、武田泰淳の「ひかりごけ」野上弥生子の「海神丸」、etc、人肉喰いの小説は多々ある、人肉喰いの罪を、人を殺すこと、人の肉を食うこと、同類に対しての、人間の尊厳、人間という私へ罪と罰への、生理的に嫌悪されるものとは何か、同類を食うという、飢えに対して抗えないという、生理と理性、死と生、生のためには死を拒む、そのためには生理が優先されると、人肉を喰って生をつなぎ、生還した私の手記として、神を問う形で終えている、多くの兵隊が人肉を喰ったであろうことを、罪の感情でもって、戦後を生きた者と、人の生理としてやり過ごし生きた者と、戦争への反省のないまま、今に至っている日本にあっては問われ続ける問題であろう、それらを大岡は、問おうとしたのだが、描けてはいない、「もし彼がキリストの変わり身であるならば」と神に負わせてしまっている、こうした人倫問題が、核世界の時代にあって、世界を手玉にとれる兵器、毒物によってどう変化していくのか、文学、哲学は何を問うのか、 唯一者は、人肉喰いも、核、テロも、肯定も、否定も随意であろう、世界と一体の個の地点であり、世界の最大悪を愚劣を知り抜いている存在だから、神が劫罰をくだすように、世界を俯瞰している存在で有るのだから、罪と罰、ヒューマニズム、デモクラシー、国家、民族、善悪、etcを、個で、私で超えていく、絶望しても死なない、核時代の新しき人の、唯一者とその世界を描かねば、ムルソーの世界の無関心から、世界の一体へ、 道元と私 只管打坐、自らの中に仏性を見いだす、身心脱落、その後世界との一体へ、生と死、肉体と心の対立ではない、一体への、体験、感情と、キリストの絶対神と、ギリシャ哲学に始まった科学への道と、現代の絶望に対しての禅と、キリスト、科学の心、現代の絶望は、禅、キリストを超えて、科学の想定と感情からの、1000年、2000年前の人間の思索と、現代の人間の頂点における、科学と感情心理、自らの仏性を見るとは、2000年の人間の歴史をつないでいる存在の私であることの自覚、 ●身心脱落とは、自己の仏性の下に生きた人生であったこと、 ●長い短いではない、仏性を生きたという満足で、 ●生死、色即是空とは、宇宙、存在の無限、無限なのだから私も無限、質量普遍と常住不変不滅、 ●生きることを生きるとは、癌生還からの、おつりの人生で十分、 ●その上での、私の原発震災日誌、残された時間を絶望主義の確立へ 想像の絶望と現実の絶望 核、戦争、病気等の絶望状況があるから想像されるのだが、現実にそれらが起きた時には、文学、哲学、宗教の、哲学におけるイデアにアプリオリなものとなるだろう、絶望の認識にあって、時間、空間、存在と同じように、私において感じられる、核というアプリオリなもの、それは私において形作られているからこそ、想像ではない、核汚染地の、家庭の、個人の絶望から発せられているのだから、 これが世界を変えないわけはない、今や世界は想像の絶望ではない、核を通して、絶望を通して、人類は変わっていかざるを得ない、新しき人はそこから誕生していく、 人生で何をしたかったのか 結局は小説を書いていたかった、思索をしていたかった、ということになる、オーディオ、植木、カメラ、パソコン、etcの趣味はあるが、無くても構わないものではある、が、文筆、思索は、生きることの目的になっている、途中政治や、家庭、生活、労働がウエィトを占めることもあったが、全ては書く、考えるためにあり、政治や、人のためにではなかった、私の、私による、私のための文学、発表も、評価も必要とするものではなかった、それは今でも変わらず、譬え原発、絶望の思索であっても、私においての事、私対私の人生という、 ユダヤ、タルムード タルムードの格言を読んだ、そこに書かれている選民思想と、自民族以外の蔑視、非人思想、差別と虐待の歴史の中からの思想だろうが、抵抗の極みが語られている、全20巻、12000ページ、教育、労働、食事、死生観、性、婚姻、商法、聖書の倫理的なものではなく、実利的、戒律、若き日、モンテニューのエセーを読んだ、曖昧で良く呑み込めなかった、が、タルムードは具体的で考えさせるものとなっている、こうした格言で人生を生きたなら、エリートにもなるだろうと、世界のユダヤ教徒の著名人たち、非ユダヤ人にとっては、息苦しいものに、が、立身出世の、人生達人の書のような、金にまつわる、人間関係の、知識への、成功への説得力、マニュアルがある、かくてユダヤ教徒が財を成せば、支配者、リーダーとなることに、ホロコースト産業、最も富裕なアメリカ人40人のうち16人はユダヤ人、アメリカのノーベル賞受賞者の40%はユダヤ人、主要な大学教授の20%はユダヤ人、一流法律事務所の共同経営者の40%はユダヤ人と、ロスチャイルドに象徴される、世界の陰謀、謀略の仕掛け人との、タルムードは、聖書、コーラン、仏典とは違う、ユダヤ人による、ユダヤ人のための実用書となっている、 五木の青春の門 映画しか見ていないが、本日自立編を見て、途中で止めた、その話作りが、人情賛歌で作られていることへの嫌気であった、五木の中にある、通俗、演歌性からなのだろうが、ここから始まって、大河の一滴、親鸞、蓮如へと、その知足礼賛が、人への卑屈、無思想へと誘い、6、70年代のノンポリ、愚民へと、昨日の道元も同じだが、悟りを真善とし、人の百人百様の生への否定となっている、仏性を生きずとも、生きる百様が、人であることの視座が無い、仏教が輪廻転生、因果、空、無常、苦、無我、これ等の肯定が悟りとするなら、何とつまらないものかと、 電車、バス、家で 人が、スマホ、パソコン、TVと、全員がである、昔一億総白痴化と、今や完全にコントロールされている、過去を持たない、過去を振り返らない、自らで考えない、自らを持たない、一日を持たない、人はみな有機ロボットに、家、車、物、教育、レジャー、etcに縛られ、その為に働き、ロボットとしての人生、振り返る過去を持たないのだから、現在しかない、与えてもらう、指令を待つ、暇をつぶす、インターネットが情報ツール、コミニケーションツールに過ぎないのだが、コントロールするものにとっては、格好の支配の道具、フェイクニュースが垂れ流され、が、ニュースなど見ていない、ゲーム、音楽、メール、政治など無関心、サイレントマジョリティー、陰謀、不正選挙、絶望世界にあって、自然な姿、 映画、オートマタ AIがプログラムに基づかない、自立型ロボットであり、それが2045年には、人間を超えるとする中で、オートマタというロボットの誕生、CPUチップが人間の1万倍となり、様々な予知判断が、人間より正確なものとなり、自らを再生、創造していき、「核による環境破壊」、「人工知能の特異点超え」、「太陽異変より地球環境の変化」、人間はロボットに労働を依存し、そのロボットが人間社会をコントロールし、という映画ばやり、一緒に見たAIも、子供型ロボットと母の物語、ロボットが人間の感情を持ち、母を求めてと、人間社会の崩壊がシュチエーション、人間の愛の再生がテーマ、が、この進歩と言うものは、有機体、生命にとっては、核という絶対の前には、無効なものであり、生命がバンアレン帯を超えられないように、何をもってしても限界に至っているということ、SF、デストピアの映画に欠けているものが、核に対する視点、デストピアを規定している、根本のところが考察されていない、譬え打つ手なしの、絶望未来であっても、この絶望とは何かと、今を問う視点が欠けている、 ダウン症、自閉症、不妊、アルツハイマー 数日来のTV、これらを盛んに放映、世界がこれらの問題に当面していることの、優生学的、ホロコースト的に語る事と、ヒューマニズム、宗教的に語ることと、全ての根底にあるのは、人の絶滅への、その中での個としての、唯一者の視点の欠除、絶望の共有が無いがために、価値で判断しようとしている、絶望においては、どちらでも良い事、生きる事を生きるだけ、その日まで、助け合って生きた方が、楽しいに決まっている、分け合って生きた方が良いに決まっている、人肉を喰って生きても、いずれ死ぬのだから、帰る国、希望の国はないのだから、共に飢えて死ぬのが人間という動物の姿、 絶望を通して、すべて許すへ 愛や、真実、正義、実存と、存在に様々な意味づけと、理由をつけてきた、存在とはそうしたものと、しかし今、悪も欺瞞も、不実も、全て許す、全て肯定へと、世界の権力者が、世界の哲人、偉人がであってさえ無力な、成す術もない、核汚染の星に、その絶望、この星への所有意識、支配意識が強ければ強いほど、絶望意識は強まるはず、その取り返しの付かないことへの、全てが無の、子や孫の世代ではない、100年、200年後の核汚染の蔓延、 絶望+希望=愛ということ 現代とは、人に絶望意識が欠除しているということ、親鸞の悪人なをもって往生すのような、悪への寛容、キリストの恩寵、では生ある者が、絶望を体験してきた者が、愛と希望に至っているのか、アウシュビッツの生存者が、第二次大戦を生き延びた者が、癌の生存者が、絶望に対して、愛と希望は有効なのか、 希望は人の主観を超えて存在するものでいいだろう、愛は恩寵のような、存在への喜びでいいだろう、絶望であっても希望が感じられるなら愛が、愛から希望をとるなら絶望が、希望とは愛から絶望を取り除いたもの、現代において、絶望の認識が無いがために、愛も希望も存在できない、世界の絶望を愛と希望で、
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大岡昇平「野火」の問題
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