ファニー・メンデルスゾーン
メンデルスゾーン - フェリクス・メンデルスゾーン (Jacob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy)15
演奏家として
メンデルスゾーンは生前には、ピアノ、オルガンをともにこなす鍵盤楽器奏者として名声を得ていた。彼の死亡記事の一つにはこうある。
我々は真っ先に彼の、驚くべきしなやかさを持ち、急速で、力強いピアノ演奏に敬意を表する。次にくるのが、分析的でたくましいオルガン演奏であり(中略)彼がこれらの楽器で示した偉業は、人びとの脳裏に鮮明に思い出されるのだ[104]。
メンデルスゾーンが演奏会で取り上げたのは、自作とドイツの先達たち、ウェーバー、ベートーヴェン、(オルガンでは)バッハの著名な作品などであった[105] 。彼は公私において、巧みな即興演奏によってもよく知られていた。ある時ロンドンでのこと、ソプラノのマリア・マリブランが自らのリサイタルの後にメンデルスゾーンに即興演奏を頼んだところ、彼は彼女がその日歌った全ての歌の旋律を組み込んだ曲を、その場で作り上げて披露したのであった。その場に居合わせた音楽出版者のヴィクトール・ノヴェロはこう述べている。「私は実際この耳で聴いたわけだが、それでも彼がやってのけたことは不可能なことだと思えた[106]。」1837年の別の演奏会では、メンデルスゾーンはある歌手の伴奏で登場したが、シューマンはそのソプラノ歌手をそっちのけにしてこう書いている。「メンデルスゾーンは神の如く寄り添っていた[107]。」
指揮者として
メンデルスゾーンは著名な指揮者として、自作や他の作品を演奏していた。1829年のロンドンデビュー公演において、彼が当時は非常に斬新だった指揮棒の使用を新しく始めたことは特筆に価する[108]。また、彼の先進性はこれに留まらず、テンポ、音の強弱、そしてオーケストラの団員に多大な注意を払ったことにある。彼は団員が反抗的な態度を取ればそれを叱り、反対に彼が満足する演奏が出来れば彼らを褒めた[109]。1836年にデュッセルドルフのライン音楽祭で指揮をした彼は、彼としては初めてプロの指揮者として賃金を得たことになった。メンデルスゾーンの指揮を称賛していた1人であるベルリオーズは、1843年に彼をライプツィヒに招いて互いに指揮棒を交換し、こう記した。「大いなる神秘が我らを魂の大地へ狩りに遣わす時、我らが戦士が閉ざされた部屋の前にてこのトマホークを並び手にせんことを[110]。」ライプツィヒでは、メンデルスゾーンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の水準を大いに引き上げた。彼は過去の巨匠たちの作品を集中的に取り上げながらも(すでに「古典」に位置づけられ始めていた)、同時代のシューマン、ベルリオーズ、ゲーゼや他の作曲家、そしてもちろん自作を紹介することも怠らなかった[111]。彼の指揮に感心しなかった批評家の1人がワーグナーであった。ワーグナーはメンデルスゾーンがベートーヴェンの交響曲を演奏するテンポがあまりに速すぎると非難していた[112]。
編集者として
メンデルスゾーンのバロック音楽への興味は、1829年に復活演奏を行ったバッハの「マタイ受難曲」のみにとどまることはなかった。彼はその時代の音楽の演奏のため、または出版のための校訂、編纂作業にも従事していたのである。その際、彼は作品が可能な限り意図に忠実なものとなるよう、それまでの版や手稿譜の研究など可能なことは何でも行った。これが出版社との間のいさかいを生むこともあった。例えば、彼が1845年にロンドンのヘンデル協会のために校訂したヘンデルの「エジプトのイスラエル人」においては、ヘンデル自身の指示でない強弱表記やトロンボーンパートの追加を彼が拒んだため、協会との間で議論を戦わせることとなった。また、メンデルスゾーンはバッハのオルガン作品の校訂も行っており、シューマンとはバッハ全集の刊行が可能かどうか検討していたことが明らかである[113]。
教育者として
メンデルスゾーンは音楽教育に重要な役割を果たし、ライプツィヒでの音楽院設立には大きな貢献を行っている。しかし、教えることにあまり楽しみを見出せず、私的にはわずかに、自分から見て顕著な才能、可能性が感じられる生徒を取ったのみだった[114]。その弟子の中には作曲家のウィリアム・スタンデール・ベネット、ピアニストのカミーユ=マリー・スタマティ、ヴァイオリニストで作曲家のユリウス・アイヒベルク、そして有名な詩人の孫であるヴァルター・フォン・ゲーテ(ドイツ語版)がいる[115]。ライプツィヒ音楽院でメンデルスゾーンが受け持ったのは、作曲とアンサンブルの講座であった[116]。
名声と遺産
メンデルスゾーンの死は突然のことだったため、ドイツとイングランドの両国で彼を悼む声がきかれた。しかしながら、同時代に活躍した仲間たちとは異なって彼が保守的態度を取っていたことで、必然的に彼の音楽には見下したような目が向けられることになった。メンデルスゾーンとベルリオーズ、リストら他との関係は、窮屈で一筋縄ではないものだった。メンデルスゾーンの才能に疑問を呈した聴衆の1人に詩人のハインリヒ・ハイネがおり、彼は1836年にオラトリオ「聖パウロ(英語版)」を鑑賞してこう記した。彼の作品を「特徴付けるのは、大いなる、厳格な、重々しい真面目さと、古典形式へ従おうとする決然とした、ほとんどしつこいまでの傾向、極めて賢明な最良の計算高さ、鋭い知的さ、そして素朴さを完全に欠いていることである。しかし、素朴さのない芸術に天才の独自性など存在するのだろうか[117][118]。」
メンデルスゾーンのこのような能力は否定的な位置付けをされることもあり得るものであり、彼に対してはワーグナーがさらに強い批判を浴びせることとなる。メンデルスゾーンの成功、人気とユダヤの出自にワーグナーは苛立っており、彼の死から3年後に反ユダヤ論文「音楽におけるユダヤ性」で彼を褒めちぎることで攻撃した。
「(メンデルスゾーンは)ユダヤ人でも特定の才能の膨大な蓄積、独自の最良かつ多様な文化、これ以上なく高く柔軟な栄誉の感覚を持ち得ることを示してくれている。しかし、このように傑出したものの助けが仮に一切なかったとしても、彼は我々が芸術に期待するような深く、自省的な効果を生み出すのである。(中略)現在の我々の淡白で浮ついた音楽様式は(中略)メンデルスゾーンが曖昧で、ほとんど取るに足らない内容を最大限に面白く活気を持って語ろうと努力する、この上ない意気込みの方へと押しやられている[119]。」
これを発端として、その後約1世紀にわたり、また現在もくすぶっているようなメンデルスゾーンを凡庸とみなし、彼の作曲家としての地位を貶める動きが開始された[注 25] 。ニーチェもまた、メンデルスゾーンはドイツ音楽における「愛すべき間奏」、つまりベートーヴェンとワーグナーの幕間である[120]と見下すコメントを残している。20世紀に入ると、ナチスの体制とその音楽機関である帝国音楽院が、メンデルスゾーンがユダヤの出身であることを理由にその音楽の演奏を禁じ、作曲家たちには付随音楽「夏の夜の夢」を書き直すことを推奨した(これを強いたのはカール・オルフであった)[121]。ナチス統治下では「メンデルスゾーンは音楽の歴史における危険な『事故』として出現したもので、彼が決定的に19世紀のドイツ音楽を『退廃的』にした張本人である。」とされた[122]。ライプツィヒ音楽院で支給されていたドイツ版のメンデルスゾーン奨学金は、1934年に中断されている(後の1963年に再開された)。1892年、ライプツィヒにメンデルスゾーンに捧げる記念碑が建てられたが、ナチスによって1936年に撤去された。代わりの像が2008年に建てられている[123]。
coloured photograph of a statue of a robed male figure on a stepped pedestal inscribed 'Felix Mendelssohn Bartholdy', with a seated female figure holding a lyre at its base, situated in an open space
2008年に再建されたライプツィヒ、聖トーマス教会近くのメンデルスゾーン記念碑[124]
coloured photograph of a statue of a robed male figure on a stepped pedestal inscribed 'Felix Mendelssohn Bartholdy', with a seated female figure holding a lyre at its base, situated in an open space
2008年に再建されたライプツィヒ、聖トーマス教会近くのメンデルスゾーン記念碑[124]
メンデルスゾーンのイングランドでの評価は、19世紀を通じて高いものだった。アルバート公は、1847年のオラトリオ「エリヤ」のリブレットにドイツ語でこう記した。
バアル信仰者の間違った芸術に囲まれていても、第2のエリヤのようにその才能と努力をもって真の芸術の真の僕であり続けることが出来た、高貴な芸術家のために[125]。
1851年に、10代のサラ・シェパード(Sarah Shepperd)の記した「チャールズ・オーチェスター Charles Auchester」なる賛美小説が出版された[126]。この本ではシェヴァリエール・セラファエル(Chevalier Seraphael)としてメンデルスゾーンを描いており、80年近く増刷を重ねていた。1854年に水晶宮が再建された際には、ヴィクトリア女王がメンデルスゾーンの彫像を添えるように命じている[注 27]。1858年のヴィクトリア女王の娘、ヴィクトリア妃とドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式典では、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」から『結婚行進曲』が演奏され、これが今日でも結婚式で人気の楽曲となっている[128]。イングランド国教会では、メンデルスゾーンの遺した宗教的合唱曲、特に小規模の作品が合唱の伝統の中で人気を保っている。しかし、バーナード・ショーをはじめとする多くの批評家が、メンデルスゾーンの音楽をヴィクトリア朝の文化的孤立と結びつけて批判し始めていた。ショーが特に槍玉にあげていたのは、メンデルスゾーンの「入念にお上品ぶった感じ、因習的な感傷性、そして見下げたオラトリオ屋であること」だった[129]。1950年代には、音楽学者のウィルフリッド・メラーズ(英語版)[注 28]がメンデルスゾーンの「我々の道徳観にある、気付かぬ偽善的要素を反映した偽者の宗教観」を非難した[130]。
ピアニスト、作曲家のフェルッチョ・ブゾーニは正反対の立場から意見を述べている。彼はメンデルスゾーンを「異論を待たぬ偉大さを備えた巨匠」そして「モーツァルトの後継者」とみていた[注 30]。ブゾーニをはじめ、アントン・ルビンシテイン[131]やシャルル=ヴァランタン・アルカン[132]などのピアニストは皆、普段からメンデルスゾーンの楽曲を自らのリサイタルで取り上げていた。
現在の評価
チャールズ・ローゼンは1995年の著書「ロマン派世代 The Romantic Generation」中のメンデルスゾーンの節で、彼を称賛し、また批判もしている。ローゼンは彼についてベートーヴェンを「深く」理解した「天才」で、「西洋音楽の歴史上知られている中で、最大の神童」と評している。ローゼンは後年のメンデルスゾーンに関して、技と才気は失わなかったものの「大胆さを(中略)放棄した」作曲家としながらも、比較的晩年の作である「ヴァイオリン協奏曲」は「古典的な協奏曲の伝統とロマン派的なヴィルトゥオーゾの様式を最もうまく融合させた作品」と呼んでいる。ローゼンは「フーガ ホ短調」(後でOp.35のピアノ曲もからめて)を「傑作」と評しつつも、同じ段落中でメンデルスゾーンが「音楽における宗教的キッチュの発明者」と呼んでいる[133]。
こういった意見が、この50年ほどでメンデルスゾーン作品の受容がより微妙な色合いを帯びてきたことを証明している。また、彼の実績を文脈に含む現代の伝記が数多く出版されてきたことにも、それは現れている[134]。マーサー=テイラー(Mercer-Taylor)は皮肉をこめてこう述べた。「多岐にわたるメンデルスゾーン作品の再評価が可能になったのは、ひとつにはメンデルスゾーンを音楽の基準にする考え方と切り離されることが普通になったからである。」基準というのは彼が「指揮者、ピアニスト、そして学者として」あまりにも多くのことを打ち立てたという見方を指している[135]。
約750のメンデルスゾーンの作品は1960年代までは出版されていなかったが、現在では大半が入手可能となっている[136]。メンデルスゾーンの作品と書簡の学術版全集が現時点(2010年現在)で準備中であるが、完成までには長い年月を要すると予想され、また150巻を超える規模となると思われる[137]。有名な「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調」や「イタリア交響曲」なども含めたメンデルスゾーンのあらゆる作品はより深く研究されており、オラトリオ「エリヤ」に隠されたヴィクトリア朝時代の習慣に関する重要な事実も解明されている[注 31]。激しく、劇的なことの多いメンデルスゾーンの室内楽作品についての認知度も高まっている。現在、メンデルスゾーンの出版された作品はほぼ全てをCDで手にすることができ、彼の作品は演奏会や放送でも頻繁に耳にすることが可能である。批評家のH.L.メンケン[注 32]はこう締めくくっている。もし、メンデルスゾーンが本当に真の偉大さに値しないところがあるとすれば、それは「髪の毛1本分くらいだ[138]。」
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