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続 原発震災日誌⑬

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続 原発震災日誌

罪と罰の問題

3.11以前、キリスト教の説く罪と罰が受け入れ難かった、今もそれはあるが、3.11を経て、罪はある、犯した、免れないとの認識は持つ、生きものに対し、未来に対し、アダムとイブの原罪ではなく、私が犯した罪として、核の汚染、罪ではなく、失敗、必要悪、リスク、連帯責任と捉えるのか、私の罪とみるのか、文学が、哲学が、生き方を問うとき、エゴ、利己、欲望を問題としてきた、罪はこの私の生存のうちに付随している、生存それ自体が罪なのだから、原発、核など、自業自得、もはや、何も問う必要も、悩むこともないのだと、私の罪が、今ほど無化されて、やはりあらゆる人の営為が意味を失ったと思える、私の罪が、この未来に対する現在の罪が、瑣末にさせた、核一発で、原発事故一回で、顕在化する罪、
堂々巡りの思索、何度繰り返していることだろう、もう、はっきりと私を無の上に据えているのだから、そこからの思索だけで良いのだが、何故に全くの無関心が取れないのか、「エミコが七十までは生きてもらいたいと、何かの折に言った、エッ、七十でいいの、あと五年だよ、五十位で居なくなるんじゃないかと思ってきたから、あれからもう二十五年も生きたのだから、と」おつりで生きているのだった、この私が考えていく、絶望と無とは、回想、記憶、現在という時の実存化、

お宮参り

春の長雨がやっとあがって、蒸した土や花の匂いが庭一面に立ち昇る長閑な妻の田舎であった、その日も私は物憂げに縁側の陽だまりに座り、丹精に育てられた庭の躑躅を見るとはなしに見ていた、
「あなた、後悔してるんでしょう」
妻が知らぬ間に来ていた、
「何を?」
私は躑躅から目を離すと妻の顔を見上げた、
「仕事のことよ」
妻は瞳を凝らして私を見据えていた、
私は妻がお産で田舎に帰っている間に、無断で仕事を辞めた、

「いや、別に」
私は咄嗟に語気を強めて言った、
「でも毎日憂鬱そうじゃない」
「あなたには解らないことだよ」
「―――」
私はまた庭先に目を落とした、
蜜蜂が一匹うるさく花間を飛び交っていた、
妻は私の突然の行動にある種の危機感を持っていた、さほど貯えがあるわけではないし、
まして子どもが生まれたときにあたって無責任だと責めた、
「きょうは、お宮参りに行くからね」
しばらくしてから、妻は私の物憂げさを穿鑿することなく言い置いた、

反抗的、直感的、実存的、を探ること、汚染の地球にナウシカのような、否、男の、絶望の中でも、生命ある限りは、種が絶滅しない限りは、ロマンを持った人間像を、私のツァラトゥストラの不条理を条理とする、矛盾を存在とする、理性と感性の統一、科学と文学の統一的人間像の創出、人は愛のもとに、連帯のもとに死ねる、優しく死ねる、託して死ねる姿を、

人類消滅後にも地球は存在する、このことは万人が認めるが故に、地球は存在するのであった、神の存在とは、人類全てが確認しているものではない、存在を感じている者に於いて存在しているもの、よって人類消滅後には神が存在すると確認できないのであった、神とは観念の証明であって、実在するものの証明ではないのだった、1+1=2とは存在という物ではなく、数学という観念でしかないのだった、人が居なくなれば消えるものであるのだった、人類消滅が信じられれば、神は消滅する、原発とは、神はもとより、人類、多くの生物をも消滅させるものであるのだった、

何でもないようなことが輝いて見えた、あの新婚の時の、結婚したことの、好かれ、信頼されることの、そして子どもができ、間もなく産まれてくることの、

予定日も過ぎ、間もなく産まれるのではないかと、仕事を何とか勤め上げ、辞めることを決めて、妻の実家に行ったのだった、政治活動を求めて、入った団体の仕事だった、それを子どもの誕生を機に辞めることにしたのだった、子どもとの、家庭というものの、味わいが、政治活動というものより上まわっていた、働いた後にある家庭というものの味わい、養護施設で育ち、味わいの少なかった家庭の喜びというものが、裏切り者との後ろめたさ、思想の変節という敗北感、エゴイズムという意識、労働者となることの不安、etc、etcの感情を、乗りこえさせてくれる気がしていた、何より妻や、妻の実家の家族、兄弟が、私の行動を口にすることなく、何事もないことのように見守ってくれた、これから、どんな仕事に就くのか、これからの生き方、考え方をどう作っていくのか、何も見えなかったが、自由になった、政治活動から、何になってもいい、文学はどんな状況においても追求していく、十六才から二十六才の十年間の活動人生だった、今新たなスタートにたったのだと、私は後悔したり、悩んだり、青年の日の、あの憂鬱が又戻りはしないかとの不安を抱えながらも、癒されていたのだった、

小春日和の、長閑な午後、

なかなか陣痛が起きない妻に、私は時間をもて余していた、近くの観音さまへ散歩に行くことにした、
「叔母さんたちどこに行くの?」
幼稚園から帰って来た姪が聞いてきた、
「小山の観音様」
リッツちゃんも来る?」
二人の中に入ることが何か恥ずかしいことのように、リツコは一瞬ためらったが、頷いていた、妻は私と二人だけで、時に気が重くなったりすることを嫌がっていたのだった、道々、盛んにリツコとおしゃべりに興じていた、私はそんな二人を見ていて心がほころんだ、桜は未だだったが、早い草木は新芽を出し始め、この季節の中へ私と妻の子が誕生してくるのだ、数年もすれば 、リツコのような子どもに、私の二人を見つめる穏やかな表情を見て、妻が「リッツちゃん歌うたおうか」と、結婚するまで、歌声活動をしていた妻は、歌うことに何の屈託もなかった、
「何唄う?」
「おじいさんの古時計」
「いくよ、サン、ハイ」
「オジイサンノ、----」
実家での、家族に見守られての出産、妻の安心し切った、喜びに満ちた心が、歌う声に表れているのか、美しい響きを持って雑木林の中にこだました、

世界は依存関係で成立

植物、動物たちの共存とは、人間世界に置き換えたなら、協力会社、共存共栄のように、また一人一人の人間関係においても、親子のように、地域の商店街のように、文学、芸術においても、作者と出版社、画商のように、依存、競争、支配と、エゴイズム、人のあらゆる側面がそこにはあるのだが、大きな関係、構造は、国家、社会構造に似る、網の目のような、上から下、縦横と、依存の構造、資本主義と表さなくとも、社会主義と言わなくとも、そこにあるのは依存、共存の構造、宗教、文化、芸術の神、真理、善、悪の追究といえど、アイディンティテーという心の依存の関係、この依存の関係は、生物の宿命、原発に依存している個人とは、原発会社で働いている者、原発以外産業がないとして、原発依存の地方自治体のような、奴隷社会の鎖と同じ、資本のシステム、
かつて、十六歳の心に、共産党宣言、猿が人間になるについての労働の役割、空想から科学へ、なにをなすべきか、民族自決権について、弁証法的唯物論、賃労働と資本、国家と革命、家族、私有財産および国家の起源、資本論、実践論矛盾論と、世界の仕組みを知りたかった、そして変えたかった、夢中で読んだその頃の記憶が新鮮によみがえる、文学、芸術も、近代、自我の確立をと、基本的には世界の構造は変わっていない、そして変える方法も、しかし、決定的に変わってしまったことが、種の絶滅という、核の出現であった、人間が、システム、技術、科学、進歩という近代というものに、価値と幻想を持つがために発生している問題であった、



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