続 原発震災日誌
万物は己にとって無だ、-ゲーテ- 或るものからの自由とは、逃れ免れての自由である、自由は所有しなければ、何者も失われてはならない、 岩波のシュティルなー訳はすばらしい、-草間平作-大原社会問題研の「シュティルナーの無政府主義とマルクスの国家観」 シュティルナーの自我的交響楽―序曲、言葉のリフレイン、反復が無数に、唯一無二の文体、アフオリズム、 久津見蕨村(けっそん)「無政府主義」、相馬御風「個人主義の思想」、大杉栄「近代思想」辻潤「科学と文芸」 釈迦も、キリストも、老子も、立派なアナーキストだ、「汝は汝の汝であれ」「汝は汝の汝を生きよ」私は、無教養の教養を奉ずる者、シュティルナーであると、権力に対して告げ、私は意地のない弱き者であると、自我のままに生きている者である、自己完成のために努力するのではなく、自分を仮想し、消費する者、 或る思想の奴隷であった時代、「何を信じているのか?」ではなく「自分は自分自身を信じている」何をではなく誰をにと、1896年 ハルトマン「無意識哲学」エゴイズムが国家を崩壊させ、自由人の結合体となる、ジョージ・オウエン「経済的哲学」シュティルナーは権力に対する欲はなかった、民主主義は彼にとって虚偽の自由であった、自我主義こそが自由であった、ニィチェの貴族主義的、権力的なものは旧い体質、ニィチェは暴君を相愛、シュティルナーは暴君を否定、全人類への全幅の愛で貫かれている、支配とは虚栄であると、誇りの耽溺であると、曖昧さと気障なところがない、偏見が無い、誠実、生き生きとした議論、独立精神、明瞭さ、 私はシュティルナーがこの核時代にどう対処するかと、考えているのだった、神のものは神のもの、人間のものは人間のもの、私の「未踏」は私のもの、自由でも、正義でも、真実でも、愛でも、普遍なるものでもなく、ただ一人私のものであったのだ、ただ私が唯一であることの証であったのだ、 この核、原発という邪悪、これに対し唯一者の私が、無の上に据えた私が、全て私の事柄ではないと、六ヶ所村が全人類を消滅させるとしても、私のことではないと、 人の、死というものへの傲慢、不遜、ただの事実だとか、生在るものは死すとか、死の自明化によって死の忘却を計り、私の死、想像的無に至る方法で、 青年の時、何故、哲学や思想を必要としたのか、何故猿の尻は赤いのか、何故空は青いのかと、少年の日の不思議の延長であった、何故人は死ぬのか、何故人は不幸なのかと、 その私が何故、今シュティルナーに共鳴するのか、かつて共産主義革命を目指していた時の苦渋があるからだった、自由、解放のためには、エゴとの闘い、自己犠牲が求められ、エゴは損なわれ、自由は抑圧され、シュティルナーは、このエゴこそ人の自由と解放を肯定しているからに他ならなかった、 この個人のエゴのエネルギーを、組織はレッテルを貼ることで警戒してきた、トロッキスト、修正主義、反革命分子、何々主義と、しかし、そのどのレッテルにも組織においては組織の中の、個人のように、エゴイズムというエネルギー、必然であるのだった、組織が生きているという、力によって革命がなされても、エゴが損なわれ、働きアリであるなら、何ら革命などではなく、心身もろ共の奴隷であるのだった、何故にギリシャにおいてあれ程の哲学、芸術が生まれたのか、社会の発展によるのではない、心身共の奴隷ではない人間が誕生していたということ、人はそのように育てば容易に哲人、芸術家に成り得るのだった、 国家はいつも親父さま、教会はいつも母親と呼ばれ、世界、歴史、常に国家や権力やでなくとも、私に対する集団の支配が貫かれ、このことを種の依存と、反映の法則とするなら、結果として、核の汚染も止むなしと、 エゴイズムと精神の喜びの関係、 作られたストイシズムと精神の喜びとの関係、 エゴイズムが真に充たされた姿の呈示、 怠惰、自己嫌悪、孤立、虚無との関係、 世界の享受と一体の感情とエゴイズム、 他者とエゴイズムの関係、 私を真の出発点にすること、私が目標点であること、 普遍的真理とは考えられるところのものにすぎない、希望もやはり考えられるところのものであって、現実ではない、全ては可能性としてのもので、万人のものであって、私のものではない、可知論的な発想の、人の予断と偏見、 人は理性的たりうる、キリスト者たりうる、芸術家たりうる、が、これを実行させようとすると逃避する、自由からの逃避、 正義の名のもとに行われる人の愚行の構図、どんな犬でも、正しい犬になろうなどとしない、彼らは、これを生きつくすことにおいて、己を実現する、 人はもう充分に人間であるのだ、犬が充分犬であるように、 罪人でもなく、弱い葦でもなく、 教養、この人間信仰は、理性、精神、民族、国家、自由、人間性となり、神と入れ替わった、主人となった、 疲れた人間に対し、絶対、崇高なるものへ導かんと、神に、ヒューマニティーに引き渡す、 エゴイズム、我欲、利己心、非人間的等々によって、自らを罪人としている、ヨーロッパのキリストイズムは、網の目のように、人間を規定し、束縛し、人間そのものを歪めてきていることを、シュティルナーはじめ、多くの実存者、芸術家は味わって来ているのだった、 何故、神は無であると考えてはならないのか、人は支配を必要としているからだった、 価値観の崩壊がうれしい、かつて、意味や喜びを不信の思いで見ていた者が、今や完全に意味を失い、何でもないものに、この可知の喪失がうれしい、物に取り巻かれた生活のように、価値や意味に取り巻かれて暮らしていた生活が、意味を失い、実にシンプルに、今まで言ってきた、感じてきたことが、名実ともに、齟齬感なく、私のものとなり、原発、核の替え難い生身性、癌と同じような、 君は癌なんだよ、余命いくばくなんだよ、それらが解かっていて、この時を生き尽してみるべきだ、世界はどうなったっていいさ、君自身だよ、去る世界での、私と君だよ、私と人だよ、私と物だよ、 「唯一者とその所有」のその所有を示さねば、全世界を手中にすることの、全世界とは、私が世界を、善も悪も、幸不幸も、悲劇喜劇も、災害も、収穫も、神も宇宙も、すべて私が愛しているという、見ているという、所有している、私のものであるという、一つ残らず私は貰ったのだと、あの嘘の一瞬の、初体験の、初恋の、結婚のすべて所有した感情の再生が、今人間には必要であるのだった、価値の崩壊により、創造的無が発生し、この無とは、自己の全所有であるのだった、 権利、自由、人間性等、それらは言葉であって、事物ではない、思惟するための言葉のように、食べるための食物のように、真理とは、ただ言葉によってのみ存在するもの、自分の主人を探す人、支配してくれる思想を探す人、「人類最高の利害関心」「聖なる事柄」など、 童子のごとく在ればよい事、 万物の尺度は、人間的なるものなどではなく、私がその尺度である、 真理とは何ぞや、真理とは、自由思想であり、自由精神である、君から自由であるところのもの、真理を信じる限り、君は下僕である、君は一人真理なのだ、 真理とは私の食事する食材に過ぎず、雑草か野菜かは、私の判断にかかっている、あらゆるものは私の消費する素材に過ぎず、私が真理の基準である、 目覚めた人間、真の理想の人間との夢想が、人を貶め、キリスト者の罪人の発見のように、 がん患者への、奴隷者への、唯一的自我の形をこそ、