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続 原発震災日誌22

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続 原発震災日誌22

絶望+愛=希望の現象学的考察
絶望の定義、愛の定義、希望の定義
何故、絶望=希望-愛なのかを
何故、愛=希望-絶望かを
希望は絶望の中に、上にしか発生、定義、自覚されない、絶望は想像力ではなく、現実、生身、自身においてしか実感されない、愛はこれら希望と絶望とを知り得た者にしか感じられない、行われない、こうしたことが現実化した現代、これらを体現する新しき人が誕生するだろう、無数に生まれるだろう、核のおかげで、絶望のおかげで、絶望を通して希望に至る人が、ちゃんと絶望すること、すると天国が見えてくる、

新しき人の作品化への序章として、震災日誌を、新しき文化論の考察、音楽、美術、文学、
私は小説でもって、創造しなければならないが、私自身が新しき人を生きたいのだった、誰かが書くであろう、新しき人への手がかりを、書きたい小説の構想を、絶望の上に自分を置く人など、キルケゴールの言うように、いないのだった、無の上にさえ、アナーキストとしてはあるが、創造的無という無に私を置いて語るものなど、私は癌サバイバーとして、ニィチェの馬に答えて、ツァラトゥストラに答えて、私のプロセスを記さねば、癌の日、希望や意味や喜びが、私にはあった、が、刻々と絶望の淵に沈んでゆく経験などはないのだった、多くのサクリファイスな人にとって希望とは、
あの日、肺癌かも知れない、肺に転移、再発したのだと、今回は確実に絶望、肺に転移しているということは、全身にしているということ、手術では取りきれない、警戒していたのだが、現実のことに、二度目のこととはいえ、ひたすら覚悟へと、それが、再検査、誤診、肺癌ではないと、笑い転げ、再び生きられると、以前にも増した天国の出現だった、
これらのことが原発と、とりあえずの危機の回避、しかし汚染は取り返しがつかず、更に汚染は広がり続け、いつ破局が来るかも知れない状況は変わらず、私の癌はとりきれてはおらず、必ず再発が起きるとの覚悟の中の、愛しなおす、癌とは違う、再発後の私対世界の構築、今や癌は再発しているのだのだった、絶望を通して、希望に至るしかないのだった、絶望に愛が加われば希望となると、

結婚が山路で出会った二人のように、淋しさと喜びの、一生という道の中で出会った二人のような、被曝した者どうしの結婚、覚悟して結婚する形、障害児を生み育てることの決意があっての、汝、死を忘するべからずを共有し、支えあう、核という絶望の中から生み出された新たな結婚、恋愛観が、

音楽、楽器自体のもつ、音のもつ、演ずる者の、楽曲の人への作用と同じように、文化も絵も、本質的に、人の喜び、感性、作用、他者への、私を他者と想定した愛と呼ぶようなもので作られており、否、絶望に対して、人文化の歴史の総体は、いまだ有効である、全て失った者においては、人の幸福は、人の喜びの文化は、未だ損なわれずある、ことに音楽は絶望者にとって未だ失われていない喜びの源泉である、

私の死と世界の死

私の死は確定的、だが世界の死は未定、絶望も未定、それでも重なる、私の死と世界の絶望、文化、哲学がこの私の死を、世界の絶望の上に据えなければならなくなった世界の現実、ペストのように癌が世界に蔓延し、闘い続けることだけが絶望に抗する方法だと、今や、私の絶望と世界の絶望が一体となったということ、その上で世界は私は、QOLを求め生きている、笑って死を迎えられるように、世界の死を今や扱わねばならないのだった、存在を捉えるとは、この世界そのものを、誰のためにでもない、私の死と世界の死の、墓碑銘のために、そして生存中に世界の破局が訪れれば、世界もろともの私の死が、
アメリカが原爆を落としたことを正当性とする、罪の意識、落とせる意識と落とされた者の意識、ドイツのユダヤ人に対する、その昔のヨーロッパの南米に対する、日本のアジアへの、戦争する意識の中に原爆はあるのだが、原爆を落とされ、アウシュビッツで殺され、アメリカで、南米で、滅ぼされた民族の意識は、未だ原爆は、戦争は、人の根源的な絶滅へのプログラムであるのだった、神は死んだではなく、神は生き返ったが必要な世界の現実、ノアの箱船も役に立たない大気の汚染、神は人を何処に誘うかの、核シェルターで何年生きられるかの、汚染された食料を食べるしかない、核戦争後の、神が復活しても致し方ないのだった、この星の全歴史を反故にする核というもの、未だ想像されてはいない、未だ存在化されてはいない、
神々が課した刑罰は、放射能で汚染された大地を、田畑といわず、山川すべての表皮を深さ30センチ剥ぎ取るというものであった、除染という無益な、希望の無い、滑稽な、果ての無い労働を人は課せられているのだった、
ベラルーシュではいくら除染しても、数年すれば元に戻ってしまうと、除染は放棄された、福島は未だ原発から毎時1000万ベクレルの放射能が出ている、ひとたび地震に見舞われれば傾いている4号機は崩れ、北半球が絶滅すると言われている中での除染、年間100ミリシーベルトというのは、胸部レントゲンが0.05ミリだから、年2000回、毎日6回のレントゲンを受けていることになり、そこで暮らし続けることの異常さ、

原発の廃炉に何十年、事故を起こした原発は何百年罹るやら、チェルノブイリはマトリューシカのように覆いを重ねるしかなく、ロシア一国では出来ず、世界から資金を募り、日本に54基、世界に500基、ツァラトゥーストラで、シシュフォスで、絶望、不条理、サクリファイスな人として、神々に対しての侮蔑、憎悪、反逆の生き物として、生存を許された、その大地、空間を、生きものたち、束の間でも綺麗にしたいと、風が、雨が、水が、浄化をどれだけしようと、トリチュムのように水そのものが放射能となり、生きものの遺伝子にも構成物として組み込まれ、人の宿命、人の自明ではあったのだった、
梅原猛、~「文明そのものが問われている」草木国土悉皆成仏と、日本回帰、自然回帰へと、金子光晴~「絶望の精神史」絶望しない日本への絶望、吉本隆明、埴輪雄高~生き延びてしまったことの、人としての、屈辱、絶望を体験した者の戦後とは、何であったのかの検証が必要、癌からの、生還者がどのように生き始めたかの、本来の生が獲得された人の生とは、絶望に足をつけた者だけが、絶望しない日本は、絶望から学び、教訓を生かすことはない、絶望を知らないから、愛も希望も生まれてこない、そこには保守と回帰、忘却があるばかり、これが金子の絶望しない日本への絶望であった、どうして日本人は絶望しないのか、絶望に耐える精神史がないから、見ようとしない、蓋をするばかり、愛と希望を未だ知らない、見ず、味わったことがない、愛と希望は、絶望の中から誕生しているのだった、キルケゴール「死にいたる病」の絶望と罪の定義、その否定としての信仰、神の復活を願い、神の像を示さんと、キルケゴールが体現されているような現在、絶望は認識されないまま存在し、「死にいたる病」の破局がしのびより、キルケゴールの使命感のように、私の癌サバイバーとしての使命感が、世界が皆病んでいるとしたら、病んだ人間に希望はない、絶望とは世界が病んでしまったということ、あらゆる差別も、サクリファイスもない世界、国境も、宗教も、戦争も、何も必要としない世界、世界は今や巨大なガス室と化し、そこで喧嘩する者などいないのだ、ただ抱き合って、苦しさに耐え、死を願うばかりの人存在へと、人類が考えてきたことは全て存在し、全て消滅する世界、それがゆっくりとやって来るだけ、だが、確実にやって来ることが、今や知れわたっているのだった、この絶望を如何に、絶望の上にしっかりと足を据えること、とりあえずの希望、愛に、拠ることなく、絶望が私の人生であると、希望や愛は、日本にあっては幻想であったのだから、核の世界に今や世界の何処にも愛や希望が成立することはなく、死にゆく者にはあった、かつての愛や希望、が、今やこの世界にあっては、訪れるものは絶滅、絶望が想像されるばかり、死に行く者にさえ託す希望はなく、託す希望があっての天国であったのだった、これこそ、人存在の不条理、認識しようがしまいが在る疎外、現実からも天国からも疎外されている人存在、希望が、人の認識を超えて在るからこそ希望と言い、神をそのように捉えた、3.11までの世界であったが、3.11を通して、人はそれらを信じることはしなくなり、何も信じる足場が失われたのだった、神を迎えるその場所が失われてしまったのだから、被爆地の人の住めない地に、神殿を建て、神にそこで住んでもらおうか、奇形の世界に、かつての人の姿をした神がそこには祭られ、神だけが正常な姿で、自分たちは奇形で、誰もそんな神を信じないだろう、キルケゴールは世界に絶望したわけではない、絶望を知らない人間への告発なだけ、今や、人のやっていることではあるが、やったことではあるが、世界が絶望しているのだった、絶望など知らず、絶望など知ろうともしないで、世界が進んできたことの、そんなこととは知らなかったと、絶望に目覚めた世界の誕生が、3.11であるのだった、私の絶望と、世界の絶望は違うのだった、世界の絶望を明らかに、



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