続 原発震災日誌63
地球温暖化の嘘と人間の寓 炭鉱ストによって、サッチャーのエネルギー危機意識によって、ICRPへの資金提供によって、学者、政治家が群がることによって、原発推進の利権構造が生まれ、気温とは太陽の活動によって、太陽の風によって、地球の雲の出来方に変化が起き、温度変化が起きるとの実証があるのに無視し、温暖化するとCO2が増えるのに、CO2が増えると温暖化すると転倒を言い、銀河の4個のアームの通過によって太陽の地軸は気流変化するという、一億5千万年の時間、様々な分野の科学者のデータが一致する地球の温度の歴史があるのに、今太陽は黒点が消え、小氷河期に突入しているのに、原発と同じように20年、30年のスパンを今の人間は言わない、その頃は死んでいないのだから、今の利益が優先され、これらすべてが人間の絶望であるのだった、氷河期が来るから、原発はベース電源にしなければならないと、どちらにしても原発は必要なのだとシフトされる世界の絶望であるのだった、 絶望主義と死刑制度 死刑の賛否を、核汚染の世界を生きる人間で考えると、人間はみな死刑囚であること、誰もが余命を生きていること、いつ発病するかもしれない時を生きていること、何ら死刑囚と変わらぬ自分を知ることとなる、核世界に、死刑制度など意味を成さないのだった、善悪、強弱、貧富、どれも意味を成さないのだった、 生きていることの喜びホルモン ビデオに、写真、日記と、紐解いて、ふつと生きていることの喜びを、体の奥底から、また素直に感じていた記憶が、今の喜びの無さに対してコントラストを持って、思い出された、絶望してもなお、あの喜びは、肉体に、精神にホルモンとして記憶されているのだと、 Oの忘却 死に対して、女はOにとって死の忘却、死の受容の意味であったとも、歳若い生命の輝きは、希望になり、若き日を思い起こさせ、ファウスト的、生身の作用までも、死への反抗としての女であったのだとの、 何を追及してきたのか 癌以降は、特に絶望しても、生きる絶望を糧に、良く生きる、生きることの実感を求めてだろう、3.11以降は、世界の絶望の中でもこの実感をと、格闘しているのだった、私は忘却できない、核戦争、更なる原発事故、地震、地球寒冷化、世界恐慌と、待ち構え生きる絶望世界にあって、なお生きている実感、意味はなくとも喜びを求めているのだった、癌サバイバーの特権である、おつりの人生としての与えられた人生の喜びを、 つい昨日のように 青春の懊悩の日々が、日記を紐解くと激しい葛藤となって蘇る、あんなに学びたかった、あんなに人恋しかった、あんなに自由を求めた、あんなに表現をしたかった、今や語れる者は誰もいないのだった、 黒子のバスケ脅迫事件~「無敵の人」と称して、社会、政治への抗議、反抗する人間の登場、様々な事件は社会への反抗であろう、私においても原点は社会、世界への反抗であった、それがマルクス主義へと、が実存こそが問題となり、私対世界となったのだった、新しき人とは、超人でも、無敵でなく、世界がどのようであっても、自らに目覚めた人であるのだった、自らに目覚めるとは、私を生きる人間、 反抗的人間が自らを生きているなら新しき人であるのだと、ペストがなぜ役に立たないか、いずれ50パーセントが生き残り、日常が戻るから、世界の絶望とは戻らないということなのだから、核に汚染された世界は2万年戻らないということ、この絶望に対しての答え、考え方を私は問うているのだった、私の絶望ではない、世界の絶望、 原爆文学 永井隆の~科学の精華として原爆をとらえ、 徳永直~「妻よねむれ」アメリカ軍を解放軍ととらえ 小島豊文~「絶望の記録」アメリカが原爆を投下してくれたと、神の聖火、原子時代を原始時代と、 太田洋子~「無限抱擁」原爆を天災、日本軍部の責任を問うと、アメリカ軍ではなく、 原爆言説の日本的沈黙の話型は、強制収用所のそれに似る、原発立地の住民一人一人、東電、政官学、マスコミ、アメリカ軍需産業、 原爆文学を読み継ぐ 戦争~国民はどう扱われてきたか、 中原澄子~終戦迄の5年間の発令等の箇条書きだが、その背後にある人間の悲惨が、人間の感情が挟まれていない分、圧倒してくる、東京は何度空襲されたことだろう、逃げ惑う人間が眼に浮かぶ、 日本人の玉砕という意識 特攻、神風、八紘一宇、万世一系、国民徴用令、大詔奉載日、国家総動員法、治安維持法、等々、どの用語、法令も実態は少しも知らない、ネットで調べると、そこに国民がどのように戦争へと向かわせられ縛られていったかが、そのおびただしい法令名からだけでも判る、すべてが死の理由付け、絶望の意味づけであった、 誰かが始めた戦争に、やられたから、やられそうだからと、9条の真理は普遍的、たとえ支配されても、武力による解決は放棄する、が世界の現実は、反抗するか、絶望するかの選択になる、核という武力、直ちにではない殺人、絶望でしかなくなる、2000年の歴史を経ても、人間とはそうしたものとの考えでいいのでは、TV、新聞、文化といわれる情報の裏に、人の悲惨があり、隠されている世界がある、この現実を知るものには、この世界の情報は絶望のコントラスト、絶望がより鮮やかに意識されるのだった、世界は絶望の上に築かれていることの、 人間が野獣になっていく戦争という狂気、個人を喪失した社会、社会とはそうしたものだが、たとえ個人があったとしても、集団化される戦争という狂気、絶望主義によってしか、戦争の問題は解決しない、世界は核に汚染されているのだよという、 大西巨人「神聖喜劇」~原発賛同へと、人間にとっての必然の一局面足らざるを得ないと、 戦争をどこまでも社会、国家、善悪でとらえる過去の文学、戦争とは人間の絶望であることの、世界の絶望であることの、これは核があろうがなかろうが、個人の死という、人間が人間を殺すという、人間の否定であり、絶望であるのだとの思考の欠如からきている、人間への絶望の、「死に至る病」の欠如からきているのだった、 絶望を通して、時を刻んで生きている者にとって、すべてはOKであるのだった、すべて待ち構えていることであるのだった、私を絶望の上に据えるとはそういうこと、 いったい人間は希望などというもの持っているのだろうか、その日を生きることで精一杯で、常に時代に翻弄されて、人間こそ絶望主義に立って生きねばならなかったのに、死を知っている人間こそ、私の絶望と世界の絶望が、今や一致するのだった、 逃げるしかない、逃げてもいずれ、世界に核汚染は広がり、住み続けるとは、理想を忘れる、無視することへと、が絶望しつつ住み続けるとは、覚悟し今を生きることへと、 なぜ絶望し続けるのか、絶望していないからに過ぎないのか、死刑囚に、今日という希望があるように、70億の人間が生きている世界に、希望は存在するということを、否定し続けられるのか、絶望も希望も虚妄に過ぎないのか、ただの気分なのか、