続 原発震災日誌71
ギュンター アンダーソン 核とニヒリズム、~ニヒリズム症候群の現代人~ 結局ギュンターもどうする事も出来ないで、現代を批判し、ニヒリズムを否定しているだけ、絶望は出来ないのだった、絶望できない人類、癌からの生還者が核世界に絶望し、いかにその絶望から脱出したかを描かねば、先づ絶望が必要だった、核の中を、汚染の中を、生きる人間を、地球は人類は、早、癌になってしまった、パンドラの箱は開けられてしまったことの認識、いやそうではない、癌ではない、パンドラは開けられてはいないと考えているだけ、転移はない、あっても手術で又取れば良いと考えているだけ、2度も3度も癌に冒され、そのうえ世界も癌になって、人に犠牲、責任が、内的必然とはならなかったが、3.11以降、実際に行動しないにしても、義務、責任はあるのだということが自明とはなった、それが3.11である、 「ゴドーを待ちながら」のニヒリストにも成れないのが現代の人間の状態とするなら、まさにフクシマが、日本が、いつ廃炉が可能かわからないまま、待ち続け、住み続ける人々のような、 「ドゥイノ悲歌」の自ら崩壊していく人間の姿~人間は偶然的な存在である、経験的、機会原因の哲学、オプティズムを妄想と見ている、~デカルトの主体による支配を自負の哲学、プロメテウス落差~優劣の構造、自作の人間の自然哲学の欠落、疎外を自負で克服しようとする、現代の存在論への批判、体系には偏見がある~真正、意味、価値の定義の危機~機会原因の哲学へと、 ギュンターのエチカとはシュールリアリズムの現実性、物と人が逆転している世界、物をよく見ると言った先人たち、理想をあれこれ語った先人たち、しかし今となってはどれも時代遅れ、絶望を借定しないで語れるものは、すべて欺瞞であり、楽観、虚無、虚構である、現実こそが断睡魔の景色であり、現実こそが最後の現実である、ギュンターがつまらないのは塔からの眺めとしても、意図的でメタファーが手に取れてしまうこと、又、「時代遅れの人間」にしても、現代の状況の概念化であって、現実の放射能のような、直接具体ではない、パチンコを概念化することと、現代人を機械への復讐、ルサンチマンと捉えても、現実の核汚染には何の意味もないことである、私において、世界を敵に回すことは出来ないから、自ら絶望する他ないのだが、自らはこの絶望を糧に私対世界を生きるへ、いつ死んでもいいように生きていたあの頃のように、いつ絶滅、絶望が、この世界に訪れてもいいように、私で生きるで良いのでは、告知、絶望、抵抗、受容、極楽と、3.11からあと1年5ヶ月で5年、5年経てばとりあえず転移は無いと思えたように、受容、極楽に至るとの、いや、私の思考も、5年経てば何かが変わるのではと、 否、未だ何も解っていない、何も起きてはいない、10年、20年後のこと、その前に、私とは何であるのか、人間とは何であるのかを、状況や現象ではなく、実存に先立つ私の本質、在る私という本質、それが解けてはいない、これがすべての存在の前提であるのだった、これが私が私を問うという事、結局ギュンターは技術と人間という図式で、世界の破滅を説こうとしている、その通りではあるが、人間に最後迄、支配、被支配は残る、核への支配も、科学への信仰があってのこと、一般人に、何の信仰も必要ではないのだった、機械化した人間に、アイヒマンを象徴させ、世界の破滅を、その機械文明に見るのだが、人間が先ではなく、機械が先の、機械が人間を作っていく事の、機械は、文明は人間の属性だとするなら、しかし、機械、文明は、自然法則からすれば、有限の珍奇なもの、いづれ壊れ、消滅するもの、問題は核という物質にある、人間が目覚めても、目覚めなくても、終るという、この絶望にギュンターも答えはなく、 存在と無 無の位置づけを考えるなら、私は意味でもない、価値でもない、奇蹟でも、希望でもない、只、無に至るということ、 沈黙にも似る、この広大無辺の、存在ではあるが無という地点、沈黙の考察のように、私の無の考察をしなければ、Tの言う大自然、宇宙かも知れない、考え方、哲学としての無、有ではない、価値、意味、何ら影響しない、無という地点、形而上学の無のもつ、宇宙的震え、一体、世界が無に帰すことの到達、 ギュンター 「魔法使いの弟子」、ゲーテのパロディー、人間による絶滅への想定、技術、システムの止め方を知らないで、奴隷を任じている魔法使いそのものになっている、止めてくれる主人はいない世界、絶望へまっしぐらの、この絶望の星には無があるばかり、やはりさっぱりとして青空の広がる無であるのだった、絶望が証明されない限り、問うことを止めないこと、「方法は知らない」と、止めたいが、とめる方法は知らないと告白、止めたいとは思っているのだった、止めたいとは思わない人間が無数に発生している、テロリスト、ニヒリストの時代である今、ハクッスレー「すばらしい新世界」~管理社会のデストピア、ウオーホール~大衆文化のもつ大量消費、非人間性、ヴェルヌ「二十世紀のパリ」~、文明批評、風刺、人間の未来を見ている、 世界を私で生きているという感情、妻や子はいるが、私対世界という意識、これは失せることがない、私というものの所有、世界がどうであっても私を生きるという、 世界の異邦人、アウトロー、孤高の人間たち、主体をもって、私を生きる人と同じ、私を生きるとは、社会的有用性など知らぬこと、世界の破滅は私のことであって、他人のことではない、私の世界が、私の愛しているこの星が、生き物が破滅することである、時に愚かな人間も含めた私の世界ということ、すべては私における有用性に過ぎないのだった、癌患者には解る、この私対世界の感情、この感情において私は絶望を、世界への諦めとし、この絶望を愛していこうとするのだった、病む星、病む生きものを、私において愛しむことにおいて、私の使命は世界を絶望させることでなければ、人間はやはり驕っている、一度破滅したほうがいい、核戦争の映画の視点ではない、諸共に絶滅する視点、善悪ではないのだった、 ips細胞、3Dプリンター、LED、スマートホン、etc、etc、これら技術の進化を若き日、自分の成長のように喜び、世界を私と世界の一体の中で捉えていた、3.11以降それらが何ら喜びともならず、放射能の海でそれらが一体何に、時限爆弾の上でどうしてと、しかし世界は地震、噴火、災害は自然裡なこと、放射能も核も、それと同じ防ぎようが無いものと、無い事にして営んでいる人間群、新発見、新発明と、技術の進化で明日の破滅を忘れさせるように、技術の進化によっていずれ核もと、核以外の技術の進化によって、核だけはどうすることも出来ずに、 反抗的人間と絶望主義 絶望して反抗にいたる者、絶望して何もしない者、絶望もせず反抗もしない者、実存とは、反抗でも、絶望でもない、人間の私独自の生き方を言う、核に汚染された世界であっても、私を育くんだ世界だと、私が成立している、存在の器であると、リルケは憂鬱を描いているだけ、絶望はしていない、貶められた人間への、同情と憐憫、連続した感情の積み上げ、 ジャン・ジュネ 反社会、反抗を生き、それを描くことで、昇華、安寧を得、晩年はアガージュマンを生き、世界からの疎外を意味づけんとしたジュネ、カフカの不条理からの疎外定位ではない、疎外美ともいう、存在の無条件的肯定へ、人間の、人間性への追求をしたジュネ、絶望に対して、人間はそれでいい、それしかないのだと、連続した瞬間を生きることが、人間にとってもっとも人間らしく、それが生きるということと、無所有の、無価値の人間の自覚と、世界への他者意識、絶望など私のものではないのだった、世界は私のものなどではないのだった、 世界のどこかで核が使われたとしても、世界は自分の上に落ちたものでないなら忘却していき、原発爆発も、我が事でなければ同じように、日本だけではない、世界の悪行、歴史の抑圧、怒りをこめてふり返れ、生を、死と絶望から見つめる方法を、これだけが絶望に立ち向かう唯一の方法、生に執着することをやめる哲学、絶望と死をしっかり見つめる、虚無、厭世ではない、実存でもない、誰もやらないのだから私がやらねば、世界を解く鍵は、生や愛ではない、死と絶望の獲得であることの、仏教が生への執着を敵としたのは、死と絶望から生を見る中にある、無辺の自由にあるのだと、 アントニオ・ネグリ講演、 フェリックス・ガタリ~(Pierre-Felix Guattari, 1930年4月30日 - 1992年8月29日)フランスの哲学者、精神分析学者、遺著『カオスモーズ』、 マイケル・ハート~(Michael Hardt, 1960年 - )アメリカ哲学者、比較文学、ネグリと共著『〈帝国〉』、 アントニオ・ネグリ~(Antonio “Toni” Negri, 1933年8月1日 - )、イタリア哲学者、政治活動家、スピノザ、マルクス研究 マルチチュードの構築(下からの民主主義)、草の根の権力、コモン(共生の場)、文明の限界、カテコン(危機の臨界)~スピノザの善悪は、所有しようとする者に対して、されまいとする時に現れる、 帰属意識と内なる天皇制、又は内なる神ということ、マルチチュード、コモンと新しい名称づけだが、共生という、草の根という形体は違えど、生ずる人の帰属性と、所有意識、これらは少しも太古より変わっていないのだった、多数者の群れ意識、本来、又は未来の人意識とは、3.11以降の人意識は、それらを超えてしまっている、私対宇宙、又は私対世界という、私で繋がる、帰属も依存も無い意識、帰属、依存では、その絶望からは脱却できないのであった、ヒューマニズムや愛は、孤立した個人によって成され、生きられてきたもの、無限の個の誕生だけが、この世界を見つめられるのだった、私がマルチチュードもコモンも良いとは思うが、そこに幻想も期待も持たないのは、いずれそこにも依存とシステム、個の抑圧を生むことになるという、組織と個人の問題、この対立は私がマルキシズムで味わった事、この対立を解消したのが、私の癌体験であった、私は個人で世界に存在しているという事、今、核汚染という世界の絶望にあって、反核勢力に身を投じたとしても、世界は私の個で成立しているのだった、私が在るという事において、