Quantcast
Channel: 個人誌 『未踏』全ページ
Viewing all 1732 articles
Browse latest View live

バーラ・ジーンオーガスト(BARRE, Jean-August)(1811-1896)Ⅱ

$
0
0

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 1

バーラ・ジーンオーガスト(BARRE, Jean-August) (1811-1896)

フランスの彫刻家、彫刻家の息子(通貨の一般的な彫刻家)(1811年9月25日にパリで生まれたが、1896年2月5日、パリで死去)バレは父親と一緒に最初に研究し、その後、ワークショップ入力されたジャン・ピエールコルトー。
彼は1826年に美術学校に入学し、1831年にサロンで始まりました。
帝国下では、ナポレオン三世の公式肖像画家であり、主権の特徴を再現する20の胸像を実行します。彼はまたリュエイユ、教会に建てるために天皇によって充電される女王オルタンスの墓。
認識され、それは帝国の人格の多数の肖像画の著者である:ルイーズ・アデレード・ド・ブルボン、ルイ2世、トレモワイユの種牡馬、ロレーヌのフランシス、ギーズ公爵、ブルゴーニュ、サヴォイのマリークロティルデのメアリー。
また、女優の多くの胸像を実行します。ミス火星、デルフィーヌ修正、オルタンスシュナイダー、ジャンヌHading、ファニーEsslerを。
ルーヴル美術館のために、彼はいくつかの注文を受けた:酒神バッカスの巫女たち、リシュリュー、ル・ノートル春、ポモナ、ラペ。
バレはで、1835年のサロンで第2の勝利彼の犬によって認識ユリシーズ(コンピエーニュ城美術館)、およびで1840年に初のメダルロレーヌのフランシス、ギーズ公爵。
彼は1852年に名誉の軍隊を授与されました。




バーラ・ジーンオーガスト(BARRE, Jean-August) (1811-1896)Ⅲ

$
0
0

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 1

バーラ・ジーンオーガスト(BARRE, Jean-August) (1811-1896)

芸術作品

体操。 1829。

大佐Amorosの(1770年から1848年)。パリモンパルナス墓地。1830。

リバティの勝利。1831サロン。

オルレアンファミリーの子供を表すメダリオン。オルレアン、ジロデ博物館があります。1832。

セリュラス。のバストブールクアンブレス(アイン)、Brouの博物館。1832。

ユリシーズは自分の犬によって認識します。コンピエーニュ城公園。1834年のサロン。

ダビデはゴリアテを殺す石のスリング。上のポーズ 1834サロン。

ドナマリア、ポルトガル。の統治 1834年のサロン。

ベルギー人の王。 1836年サロン。

ファニーEssler。装飾美術館。1837。

バレエラ・シルフィードでマリー・タリオーニ。装飾美術館。1837。

天使と子。 1837サロン。

アラゴンのイザベラ、フランス。の女王の城deVersailles。1837。

ビクトリア女王。ルーヴル美術館。1837。

ルイーズ・アデレード・ド・ブルボン。 1837サロン。

若い女の子。 1838サロン。

ルイ2世トレモワイユ、Thouarsのの子爵、タルモンのプリンス(1460年から1525年)。ベルサイユの城。1839。

ロレーヌのフランシス、ギーズ公爵(1519年から1563年)。ベルサイユの城。1840サロン。

フランス・アカデミーのアレクサンドル・デュバル、。パリモンパルナス墓地。

四季を擬人四人の子供。フォンテーヌ。パリ、シャンゼリゼ庭園。1840。

アキッレ・デ・Harlay、パリの議会の最初の大統領。ベルサイユ宮殿。1843サロン。

オルレアンの公爵。プティ・パレ

聖ルカ。パリ、セントビンセントデポール教会。1844。

洗礼者ヨハネ。1845年のサロン。

マチューモル。1845年のサロン。

ルエルギョームとピエール・ヴァリニョン。

パレルモのルイ・フィリップの結婚。

鷹狩りに出発マリー・ド・ブルゴーニュ。ルーブル。1840。

ルイーズヴェルネドラロッシュ(1814 - 1845)と彼の息子ホレス。ルーブル。1845。

ピエール・シモン(1749-1827)、侯爵ラプラス、天文学者。ベルサイユ宮殿。1847年のサロン。

ピウス9世。トゥール(アンドル=エ=ロワール県)、教会聖マルティン。1848サロン。

ミス火星。 1848サロン。

共和国。1849。

子供のバスト。1849サロン。

夫人レイチェル。ルーブル。1849サロン。

リバティ。1850サロン。

十二使徒。パリ、Egliseのサントクロティルデ。1851。

制服の王子ルイ・ナポレオン、共和国大統領、。1852

ナポレオン三世、フランス皇帝。ベルサイユ宮殿。1852。

ナポレオン1日。1853。

プリンスナポレオン(ジョセフ・チャールズ・ポール)1822から1891。ベルサイユ宮殿。1853。

ナポレオン三世。サンモーリス(ヴァル・ド・マルヌ)、1853年と1855年の世界博覧会のHôpitalサンモーリスサロン。

制服を着たナポレオン三世、。1853。

ナポレオン三世は、帝国のマントルをaveの。1854。

Bacchante。パレドゥルーブル、クールカレ。1854。

ミスデルフィーヌは、芸術家フランスの劇場。修正万博1855。

リシュリュー。ルーヴル宮殿、ウィングダル。1857。

ル・ノートル。 Plaisルーヴル美術館、アポロのロタンダ。1857。

春。ルーヴル宮殿、ウィングコルベール。1857。

J.ペルーズ。ルーヴシエンヌ(イヴリーヌ)、城Prunay。1857。

制服を着たナポレオン三世、。1857。

フランソワ・アラゴ。研究所の宮殿。1857。

。女王オルタンス、ナポレオン三世の母親の記念碑リュエイユ-マルメゾン(オードセーヌ)、Egliseのサン・ポール-サンピエール。1854から1857まで。

アルフレッド・ド・ミュッセ。研究所の宮殿。パリ、ペールラシェーズ墓地があります。1858。

ナポレオン三世。テン胸像。美術館。ドゥエミュゼドゥラシャルトリューズ。1857年から1858年。

アンティークのナポレオン三世。コンピエーニュ城美術館。1858。

ナポレオン三世。 1859年。

衣装ナポレオン三世。二つの胸像。1859。

プルーデンス。パリ、フォンテーヌ・サン・ミッシェル。1861。

ナポレオン三世。 1865年。

イジドール・ジョフロワ・サン=ティレール、動物学の教授。1861サロン。

皇后。 1861サロン。

サヴォイのマリークロティルデ、王子ジェロームナポレオンの妻。ベルサイユ(マーブル)。アジャクシオ(コルシカ島南部)、市庁舎(ブロンズ)。1861サロン。

デニス・オーギュストアッフル、パリの大司教。1864年のサロン。

フロール。シャトー・ド・セントクラウド公園。1865。

ポモナ。ルーヴル宮殿、パビリオントレモワイユ。1866。

美術監督、上院議員、Nieuwerkerkeをカウントします。 1868年サロン。

平和。ルーヴル宮殿、国のパビリオン。1868。

プリンセスマチルド。1869サロン。

法律。アジャン裁判所があります。 1869年。

プリンスナポレオン。コンピエーニュ城。1870。

ル・コントデNieuwerkerke。 1870。

Oの侯爵 ... 1873サロン。

ミス・オルタンスシュナイダー、劇的なアーティスト。 1874年サロン。

ピエール・アントワーヌBerryer、弁護士。マルセイユ(ブーシュ・デュ・ローヌ)、場所モンティヨン。1874サロン。

ピエールアントワーヌBerryerマンpolituque。ベルサイユ宮殿。1879サロン。

Bの伯爵... 1879。

アポロの頭。 1881サロン

ジャンヌHadingの肖像。1886。

プリンスジェロームナポレオン(1822-1891)、ヴェストファーレン。王ジェロームの息子アジャクシオ(南コルシカ島)、タウンホール。

カシミールペリエ。リールの美術館。



セーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)Ⅰ

$
0
0
イメージ 1

セーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)

生誕 1813年5月5日
デンマークの旗 デンマーク・コペンハーゲン
死没 1855年11月11日(満42歳没)
デンマークの旗 デンマーク・コペンハーゲン

セーレン・オービエ・キェルケゴール(デンマーク語: Søren Aabye Kierkegaard デンマーク語発音: [ˈsɶːɐn o:'by ˈkiɐ̯ɡəɡɒːˀ] ( 聞く)、1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家[1]。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。

キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。

表記と仮名

日本語では、「セーレン・オービエ・キルケゴール(キェルケゴール)」との表記が通用しているが、デンマーク語の原音に近いカタカナ表記は「セーアン・オービュー・キアゲゴー」である[2][3]。セーレンという表記もキェルケゴール(キルケゴール)という表記も、日本のキルケゴール受容が、主にドイツ語文献を経由してすすんだことによるところが大きいと考えられる。

キェルケゴールの初期の著作の多くはさまざまな仮名を使って書かれている。また、ある仮名の著者が、それ以前に書かれた作品の(これまた)仮名の著者に対してコメントすることもしばしばあった(最も顕著なのは『哲学的断片への結びとしての後書き』だろう)。もちろんすべての著作はキェルケゴールによって書かれたわけだが、そのさまざまな仮名使用のために彼の著作は一貫した解釈が難しいことがある。キェルケゴールはそのかたわらで本名での著作も発表しており、彼自身は再三、偽名の著者たちと自分を取り違えないでほしい、と主張していた。こちらは現在まであまり読まれていない。

また、彼の名字である「キルケゴール/キェルケゴール」(Kierkegaard)は、現代デンマーク語ではkirkegårdとつづられ、「墓地(英語 churchyard,cemetery)」を意味する。しかしながら、この言葉はより広く教会に隣接する敷地「教会の庭(英語 church garden)」、さらに隣接の土地も意味する。「教会の庭」という名字になった理由は以下の「生涯」に深く関係している。ちなみに、kierkegaard の名が「墓地」(kirke-gaard)を意味するので、iのあとに無意味なeを挿入したなどの説明をみかけるが、根拠のない俗説である。音価としてiに対応するのはまさにeであって、このeがしばしば拗音化するために発音に即して je / ie と綴られるケースと考えるべきである。(たとえば現在の kærlighed をキルケゴールは、Kjerlighed と綴るように)キルケゴールの父ミカエルの出身地であるユラン地域の方言では母音の拗音化がしばしばみられる。おそらく故郷の発音を想起しながらこのようにつづったのではないだろうか。

生涯

セーレン・キェルケゴールはコペンハーゲンの富裕な商人の家庭に、父ミカエル・ペザーセン・キェルケゴール、母アーネ・セェーヤンスダッター・ルンの七人の子供の末っ子として生まれた。父親のミカエルは熱心なクリスチャンであった。ミカエルは神の怒りを買ったと思い込み、彼のどの子供もキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと信じ込んでいたが、それは次の理由による。

元々、キェルケゴール家はユラン半島西部のセディングという村で教会の一部を借りて住んでいた貧しい農民であり、父のミカエルは幼いころ、その境遇を憂い、神を呪った。その後、ミカエルは首都コペンハーゲンにおいて、ビジネスで成功を収めた。ミカエルはこの成功こそが神を呪った代償であると信じていた。つまり、神を呪った罰が今の自分の世俗界での成功であると。もう一つの理由として、ミカエルがアーネと結婚する前に彼女を妊娠させたことであると考えられている。ミカエルは一度クリスティーネ・ニールスダッター・ロイエンという女性と結婚しているが、彼女は子供もできないうちに肺炎で死んでしまう。その直後に、ミカエルがアーネと暴力的な性的交渉を持ったと考えられている。

ミカエルはこれらが罰を必要とする(宗教的な意味合いでの)罪と考え、子供たちは若くして死ぬと思い込んだのだが、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっている。したがって、自分も34歳までに死ぬだろうと確信していた(セーレン・)キルケゴールは34歳の誕生日を迎えたとき、それを信じることができず、教会に自分の生年月日を確認しに行ったほどである。

1835年に父ミカエルの罪を知ったときのことをキルケゴール自ら「大地震」と呼んでいる。この事件ののち彼は放蕩生活を送ることになった。(「大地震」を1838年とする説もあり、その説ではもともと放蕩生活をしていたキルケゴールを、この事件が立ち直らせたとしている。)このように、父ミカエルのキリスト教への信仰心と彼自身の罪への恐れは、息子セーレンにも引き継がれ、彼の作品に多大な影響を与えている(特に、『おそれとおののき』においては顕著である)。

もう一つの、キェルケゴールの人生と作品に多大な影響力を及ぼしたものとしては、彼自らのレギーネ・オルセン(1823年 - 1904年)との婚約の破棄が挙げられるだろう。キェルケゴールは1840年に17歳のレギーネに求婚し、彼女はそれを受諾するのだが、その約一年後、彼は一方的に婚約を破棄している。この婚約破棄の理由については、研究の早い段階から重要な問題の一端を担っており(キェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っている)、初期の大作『あれか―これか』に収録されている大作『誘惑者の日記』や中期の『人生行路の諸段階』に収録されている『責めありや―責めなしや?』などは、レギーネにまつわる一連の事件との密接な関連が指摘されている。婚約破棄の原因について、真相は定かでない。今日の文献からは、キェルケゴール本人が呪われた生を自覚していたこと、うららかな乙女であったレギーネを「憂愁」の呪縛に引きずり込むまいとしたことなどを読み取ることができるが、性的身体的理由が原因となっていたのではないかと指摘する研究者もあり、真相はいまだ謎に包まれている。レギーネがキェルケゴールに婚約破棄の撤回を求める覚え書きをしたためたりなどしたため、彼は上記の著書などで意図してレギーネを自分から突き放そうと試みたりしている。

二人は、おそらくレギーネが1847年にフレゼリク・スレーゲル(1817年~1896年)と結婚したあとも愛し合っていたと考えられている。レギーネは夫にキェルケゴールの著作の購入を依頼したり、一緒にその著作を読んだりもしている。後年、1849年にレギーネの父が亡くなると、キェルケゴールはレギーネとの和解と友情の回復を求めた手紙を、夫フレゼリク宛ての手紙に同封して投函するが、その手紙は封をしたまま送り返されている。その後すぐに、シュレーゲル夫婦はフレゼリクが当時のデンマーク領西インド諸島の総督に任命されたため、デンマークを旅立っている。レギーネが戻るころには、キェルケゴールはすでに亡くなっていた。キェルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れ、その後病院で亡くなった。

キェルケゴールは兄宛の手紙の形による遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定していた。レギーネは遺産の相続は断ったが遺稿の引き取りには応じ、かつて封をしたまま送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っている。レギーネ及び彼女の親友でキェルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンらの努力によって、これらの遺稿は後世に伝えられることになる。

キェルケゴールの哲学

キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。

「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。

ヘーゲルに抗して

哲学史的には、キェルケゴールの哲学を特徴づけているのは、当時のデンマークにおいても絶大な影響力を誇っていたヘーゲル哲学との対立である。

ヘーゲルの学説においては、イマヌエル・カント以来の重要問題となっていた、純粋理性と実践理性、無限者と有限者、個々の人間と絶対真理の間の関係はどのようなものか、という問いが取り上げられる。ヘーゲルによれば、有限的存在は、まさにそれが有限であるがゆえに、現実の世界においてつねに自らの否定性の契機に直面するが、そのとき有限者はその否定性を弁証法的論理において止揚するという方法で、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことができるとされる。

これに対して、キェルケゴールにとっては、個々の有限的な人間存在が直面するさまざまな否定性、葛藤、矛盾は、ヘーゲル的な抽象論において解決されるものではない。そのような抽象的な議論は、歴史、現実における人間の活動の外側に立ってそれを記述するときにのみ有効なのであって、歴史の内部において自らの行く末を選択し決断しなければならない現実的な主体にとっては、それは意味をなさないものなのである。このような観点からキェルケゴールは、ヘーゲルの弁証法に対して、彼が逆説弁証法と呼ぶところのものを提示する。逆説弁証法とは、有限的主体が自らの否定性に直面したときに、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するための論理である。

キェルケゴールは自らの思想の特徴を具体的思考と呼び、これをヘーゲル的な抽象的思考に対置する。抽象的思考とは、そこにおいて個々の主体が消去されているような思考であるのに対し、具体的思考とは、主体が決定的であるような思考だとされる。

この延長において、キェルケゴールは「主体性は真理である」と定式化するが、逆説的なことに、彼は「主体性は非真理である」とも言う。ここにおいてキェルケゴールが意図しているのは、次のようなことである。すなわち、歴史的、現実的な選択の場面においては主体性以外に真理の源泉はありえない(主体性は真理である)が、このことは主体性がヘーゲル的な意味での絶対的真理の源泉であるということを意味しているのではなく、実際には、主体はつねに絶対的真理から隔てられている(主体性は非真理である)のである。

著述スタイルと日記(papirer)

キェルケゴールは著述家として生涯を駆け、急逝するまでに多量の著作を残した。その著作は大きく「美的著作」と「宗教的著作」とに分類することができる。あるいは「美的著作」を「詩的著作」と「哲学的著作」に再分類し、計3つに区分することもできる。「美的著作」はもっぱら偽名によって書かれ、「宗教的著作」は実名で書かれている。このことは注目してよい事実である。

日本ではもっぱら『誘惑者の日記』のような「美的著作」、『死にいたる病』『哲学的断片』などの「哲学的著作」がキェルケゴールの主著として紹介される傾向にあり、『野の百合と空の鳥』などの「宗教的著作」(宗教家キェルケゴールとしての著作)はあまり顧みられない。しかしキェルケゴールの本意が「宗教的著作」に向かっていたことは、本人も言明している疑いない事実である。

今日の思想に影響を与えた、いわゆる「キェルケゴール」の思想は、「美的(哲学的)著作」に因るところが多い。そのため哲学史的にも「宗教的著作」の存在は比較的軽い。ただし、キェルケゴールの思想を理解しようとするならば、すべての著作活動は根本的に「宗教的著作」のために書かれたものであるという前提を欠くことはできない。言うなれば、キェルケゴールの一連の著作はすべて教化のために著されたものであり、「美的著作」の一切は教化のための序奏である。『不安の概念』や『おそれとおののき』といった哲学史上重要な著作も、あくまで仮名で書かれた著作であるということに注意されたい。

また、キェルケゴールは幼少の頃より日記を綴る習慣をもっており、急逝するまでの生涯にわたって日記を書き留め続けた。この『日記』が最近の研究においては著作物と同等(か、もしかしたらそれ以上)の価値をもつ文献資料として扱われることは少なくない。『日記』には、著作物に対する意図の表明やレギーネ・オルセンへに寄せる想いが綴られている。キェルケゴール本人は、いずれこの『日記』も白日の下に晒されるだろうと予測してか、日記の各所に面体を繕うような修正・抹消を施している。

『日記』はHong夫妻による英語版のほか、未來社から橋本淳による邦訳抜粋が刊行されている。

翻訳・研究

キェルケゴールの日本語訳は戦後数多く出版されているが、下記の<ISBN>は有名な訳で、入手しやすい版本を選んでいる。日本語の題名は用いられたものを使っている。

主な日本語訳は『キルケゴール著作集』(白水社、全21巻別巻1)。一括復刊され、新装版でも一部再刊されている。また創言社から『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集』全15巻が刊行されている。

また桝田啓三郎(1904~90年)の訳注で『キルケゴール全集』(筑摩書房、4冊のみ)が、桝田訳は岩波文庫、ちくま学芸文庫で各2冊と、中公クラシックス『死にいたる病・現代の批判』がある。このほかにも未知谷から、飯島宗享訳『あれか、これか』全5巻が刊行されている。

日本における研究書としては、和辻哲郎の『ゼエレン・キエルケゴオル』(内田老鶴圃、1915、筑摩書房、1947)が最も早い。

一覧

あれか、これか(1843年、第二版1849年) 未知谷より完訳5分冊(飯島宗享訳 /『美しき人生観』『初恋』『誘惑者の日記』『結婚の美的権利』『美と倫理』) 第一部のみ:『誘惑者の日記』(浅井真男訳、白水社)
おそれとおののき(1843年)- 三土興三が論文『酔歌』で取り上げている。
反復(『受け取り直し』とも)(1843年) ISBN 4003363515、岩波文庫
不安の概念(1844年) ISBN 978-4003363522、岩波文庫 
哲学(的)断片(1844年)
哲学(的)断片への完結的、非学問的な後書き、演技的、情熱的、弁証法的雑集、実存的陳述(1845年)
人生における諸段階 (1845年) (『人生行路の諸段階』の訳名もある) 
愛の業(わざ)(1847年)
死に至る病(1849年)ISBN 978-4-560-72099-8 白水社
現代の批判 ISBN 400336354X(上記の白水社版では『死に至る病』と併収) 岩波文庫
キリスト教の修練(1850年)- 当初は『死に至る病』に連なる論文(『死に至る病』と合わせて一冊となる書籍の後半部分)として書かれたが、結局、別々に出版された。
野の百合、空の鳥(1849年)
わが著作活動の視点(1859年)
瞬間(1855年)
セーレン・キェルケゴールの日誌(橋本淳編訳、未來社)- 一巻のみ刊行。

参考文献

大屋憲一、細谷昌志(編)『キェルケゴールを学ぶ人のために』、世界思想社、1996年
パトリック・ガーディナー『キェルケゴール』、橋本淳・平林孝裕訳、教文館、1996
斎藤信治「解説」キェルケゴール著『死に至る病』所収、斎藤信治訳、岩波書店、1957年
ポール・ストラザーン『90分でわかるキルケゴール』ISBN 4900845671k
西部邁 「100 キルケゴール」『学問』 講談社、2004年、324-326頁。ISBN 4-06-212369-X。
西部邁 「大衆批判の原点 セーレン・キルケゴール」『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』 角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年、41-56頁。ISBN 978-4-7584-3629-8。
Cain, D. (1997) An Evolution of Kierkegaard tr. Butin, G. W. (København: C. A. Reitzel).
飯島宗享編・訳・解説『単独者と憂愁 キルケゴールの思想』、未知谷、2012年

外部リンク



セーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)Ⅱ

$
0
0
イメージ 1

セーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)

いとこニールス・クリスチャン・キルケゴール、C。 1840年。彼によるキルケゴールの未完成のスケッチ
彼の顔を強調し、彼の20代の若者、フル髪、オープンで前向きな目と笑顔のヒントのヘッド・アンド・肩の肖像画のスケッチ。 彼は正式なネクタイと襟を身に着けています。


うまれた 1813年5月5日コペンハーゲン、デンマーク王国
死亡しました 1855年11月11日(高齢者42)コペンハーゲン、デンマーク王国
国籍 デンマーク語
母校 コペンハーゲン大学 (博士号、1841年)
それでした 19世紀の哲学
領域 西洋哲学
学校

キリスト教の実存主義
実存心理[1] [2]
実存主義

イメージ 2

署名

主な利害

美学 キリスト教 認識論 倫理 形而上学 宗教哲学 詩 心理学

セーレンAabyeキルケゴール(/ sの ɔːr ən K ɪər K ᵻ ɡ ɑːr D /または/ kの ɪər K ᵻ ɡ ɔːr / ; デンマーク語: [sɶːɐnkʰiɐ̯ɡ̊əɡ̊ɒːˀ] (リスト) ; 1813年5月5日1855年11月~11)はデンマークでした哲学者、神学者、詩人、社会評論家や宗教著者のSOMえーudbredt 2は、最初にopfattelse 実存主義哲学者。[4] [5]彼は上の重要なテキストを書いた組織宗教、キリスト教、道徳、倫理、心理学、そして宗教の哲学、隠喩、皮肉とのための溺愛表示たとえ話を。どのように「一個人」として1生活、抽象的思考の優先順位2具体的な人間の現実を与え、betydning個人的な選択とコミットメントを強調する問題と彼の哲学の仕事のお得な情報の多くは。[6]彼は文芸評論家に反対したが定義されたSOM 理想主義を自分の時間の知識人や哲学者。スヴェーデンボリは、[7] ヘーゲル、[8] ゲーテは、[9] フィヒテ、シェリング、シュレーゲルとハンス・クリスチャン・アンデルセンは、すべてがあまりにも「学者」によってsnabbt「了解」だった。[10]

早い時期(1813-1836)

セーレン・キェルケゴールはで裕福な家族に生まれたコペンハーゲン。彼の母、姉Sørensdatterルンドキルケゴールは、彼の父、マイケル・ペダーセンキルケゴールと結婚する前に家庭でメイドを務めていました。「[ソレン・ピーター]はここに行くのbeskytteのように喜びで支柱を振るって保護雛。」、静かな平野、と正式に教育を受けていないが、ヘンリエッテルンド、ここ孫娘、フンで書いた:彼女は控えめな人物だった[21]彼の父「ドライと平凡なすべての外観に非常に厳しい1、が、彼 ​​の「素朴なマント」の態度の間に、彼は、過活動想像ソムないにも彼の偉大な年齢館の鈍を隠した。」であった[22]彼はの哲学読んクリスチャン・ウォルフを。[23 ]キルケゴールはの喜劇好適ルドヴィクホルベルクを、[24]の著作ゲオルク・ヨハン・ハーマン、[25] ゴットホルト・エフライム・レッシング、[26] エドワード・ヤング[27]やプラトン、ソクラテスを参照すると、特にデム。

1830年代と1840年代にコペンハーゲンは馬車はめったに行きません曲がった通りを持っていました。キルケゴールは、それらを歩くのが好きでした。何があった場合は、その; 1848年に、キルケゴールは、私は他のがない場合、すべての貧しい人は自由に呼び掛けるず、路上でと会話ができたコペンハーゲンで一人の男は間違いがあった、という考えの本当のクリスチャンの満足度を持っていた」、書きましたその他、そこに彼は最も一般的に頻繁にどのような社会、一人の男が悪いとの接触を避けるなかった、でしたが、彼 ​​は精通してすべての女奴隷、すべてのぼく、すべての一般的な労働者を迎えた。」[28] 聖母教会が 1でした街の終わり司教Mynsterは福音を説教。もう一方の端にあった王立劇場のFruハイバーグを行った。[29]
マイケル(ミカエル)キルケゴールは、1838年8月9日に死亡した場合にはセーレンは、後にデンマークの州ルーテル教会でオールボーの司教となったピーターを除いて彼の両親と彼のすべての兄弟姉妹の両方を失いました。

イメージ 3

マイケル(ミカエル)キルケゴールは、1838年8月9日に死亡した場合にはセーレンは、後にデンマークの州ルーテル教会でオールボーの司教となった彼の両親と彼のすべての兄弟、ピーター以外の姉妹の両方を失いました。


イメージ 4

「セーレン・キェルケゴールのジャーナルを「頭の本のタイトルページ、
最初の英語版のカバージャーナル 1938年にアレクサンダーDruのが編集し、
1938年にアレクサンダーDruのによって編集されたジャーナルの最初の英語版の表紙、

ジャーナル

よるとサミュエル・フーゴ・ベルクマン、「キルケゴールの雑誌が彼の哲学を理解するための最も重要な源の1つである。」[49]キルケゴールは、イベント、黙想、彼の作品や日常の発言についての考えに彼のジャーナルで7000ページ以上を書いた。[50 ]デンマークの雑誌(のコレクション全体Journalenは)編集し、インデックスを含む25の別々の束縛からなる13巻に掲載されました。雑誌の最初の英語版が1938年にアレクサンダーDruのが編集しました[51]スタイルが「文学と方法[中]詩的な。」である[52]

(セーレン・キェルケゴールのジャーナルや論文IA Gilleleie、1835年8月1日)

彼のジャーナルが彼の仕事と生活のいくつかの側面を明確にするが、キルケゴールはあまり明らかにしないように注意しました。思考の急激な変化、繰り返し書き込み、およびフレーズの異常なターンは彼がトラックから読者を投げるために使用される多くの戦術の中でいくつかです。その結果、彼の雑誌の多くの様々な解釈があります。キルケゴールは、彼のジャーナルが、将来的に持っているであろう重要性を疑うませんでした。1849年12月に、彼は書いた: "私は私の人生の効果は例外的であろう今死ぬことだった;私は単に雑誌に不用意に書き留めてきたものの多くは、非常に重要なのになって、大きな影響を与えるだろう。そして、人々が持っているであろうために私に和解成長していた、と、私の右であるものを私に与えることができるだろう。」[55]

イメージ 5

レギーネ・オルセン
黒い背景の上に若い女性の肖像​​画、。 彼女は黒いコートの上に、緑色のドレスを着ています。 彼女はやや笑顔、左に見ています。
レギーネ・オルセン、キルケゴールの著作ためのミューズ

レギーネ・オルセンと卒業(1837-1841)

一般的に彼の作品に大きな影響を与えたと考えられて- -キルケゴールの人生の重要な側面は、彼の壊れて婚約したレギーネ・オルセン(1822から1904)。キルケゴールとオルセンは、1837年5月8日に会い、すぐにお互いに惹かれましたが、いつか1838年8月11周りに、彼は第二の考えを持っていました。彼のジャーナルでは、キルケゴールは彼女のための彼の愛について理想的に書きました:


セーレン・キェルケゴール、(1847)各種スピリッツでUpbuilding言説、香港188から189

隠された内面性

キルケゴールは、神が神秘的に各個人に来ると信じていた。[92] [93]キルケゴールは、公開された想像の機会に三言説を(最初と呼ばれる人間の生活に決定的な場面に関する考察 4月29日に本人名義のデビッドF.スウェンソンの1941訳で、)、および生命の道上のステージヒラリウス製本によって編集され、4月30日1845年には、ステージの書き直したものですどちらか/または、キルケゴールが十分に公衆によって読み取られ、にされていたとは思いませんでしたどの段階彼は本の読者の3分の2が終了しますことを"予測彼らは退屈のうち、彼らは離れて本をスローします、途中である前に。」[94]彼は本を書いていた知っていたが、それらを読んでいたわかりませんでした。彼の売上高は貧弱だったし、彼は何の広報担当者またはエディタがありませんでした。彼はいわば、暗闇の中で書いていた。[95]

コルセアアフェア

1845年12月22日、ペダールドヴィクモーラーキルケゴールと同時に、コペンハーゲン大学で学び、間接的に批判する記事公開生命の道にステージを。記事では、彼のウィットと知性のためキルケゴールをほめたが、彼 ​​はこれまで彼の才能を習得し、コヒーレント、完全な作品を書くことができるかどうかを疑問視。モラーもの一因との編集者であったコルセア、注目に値するスタンディングの皆をlampoonedデンマークの風刺紙。キルケゴールは、モラー氏の記事は、単にコペンハーゲンの文学エリートを感動させる試みであったことを充電、皮肉な応答を発表しました。

イメージ 6

似顔絵; 図は、トップハット、ステッキ、フォーマルな装いで、左を向く立っています。 似顔絵は、彼が猫背のように見せることによって、彼の背中を強調の上にあります。
キルケゴールの戯画がで公開さコルセア、風刺雑誌


イメージ 7

手書きで書かれた三段落。
キルケゴールの原稿死に至る病[138]

第2版のいずれかが/または初期の1849年その年で出版された彼は、公開された死に至る病を仮名アンチClimacusの下で、。彼はキリスト教を理解しようとに関する本を書い保たヨハネスClimacusに対してです。ここで彼は他の人が感心してみましょうとキリスト教を理解するふりの人を賞賛"、と言う私は無地の倫理的課題とみなし- 。すべての「他の人が'理解と混雑していて、おそらく、これらの投機的な時代に少し自己否定をされない必要-to」は。一つはできず、それを理解するはずもないことを認めている[139]死に至る病はキルケゴールの初期の著作でおなじみのフレーズであった。[140]この病気は絶望ではとキルケゴールの絶望のために罪があります。絶望は、不可能である可能性。[141]キルケゴールは書いています:

セーレン・キェルケゴール、愛の作品、香港1995年のp。324

イェまず神の王国を求め、彼の正義 マタイ6時33分

しかし、これは何を意味する、私は何をすべきかを持っているか、神の国を求めるか、追求すると言うことができる、それは努力のどのようなのですか?私はそれによって影響を発揮するために、私の才能や力に適した仕事を取得しようとしなければなりませんか?いいえ、あなたはなかれまず神の国を求めています。私は、貧しい人々にすべての私の幸運を与えなければなりませんか?いいえ、あなたはなかれまず神の国を求めています。私は、世界にこの教えを宣言するために出かけましょうか?いいえ、あなたはなかれまず神の国を求めています。しかし、ある意味でそれは私がしなければならないものではありません。はい、確かに、ある種の中でそれは神の前では何もなっていない、自分自身何も作る最も深い意味でなた、何もありません、沈黙を守ることを学びます。この沈黙の中で始まり、ある最初の神の国を求めること。この賢明では、信心深い賢い、1は後方、ある意味で、行くことによって最初に取得します。最初は1つが開始されると、そのものではなく、1は後方初めに到着します。初めはこの芸術であるになってきてサイレント。サイレントであるために自然があるとして、芸術ではありません。それは獣の上に男性の優位性は話すことができるようにすることです。しかし、神との関係でそれが簡単に彼が話すには余りにも喜んでいることを話すことができる人の破滅になることができます。他愛ない事があってもこれまでの彼自身の幸福として懸念している(1つは子供に言うように)神は人間であり、愛です。唯一のはるかに恐れおののい人は神とともに歩むことができます。多くの恐怖と震えるインチ 恐怖感が身体の声が失敗する原因としてではなく、はるかに恐れおののいで話をすることは困難です。今も多くの恐怖と震えは沈黙の中で、音声ミュートをレンダリングありません。この祈りの真の男はよく知っている、と祈りの真の男ではなかった彼はによってまさにこのことを学んだ祈ります。

セーレン・キェルケゴール、キリスト教の言説、1848ローリー1940年、1961年のp。322

ニコライ・ベルジャーエフは、彼の1945本の中で理由に対して、関連する引数を行い、神と人間。[147] [148]

国家教会と死の際にアタック

イメージ 8

建物。 「はVor Frue Kirke(教会)は、「コペンハーゲンでルーテルカテドラルは(1829年完成しました)。
キルケゴールは、彼の最後の年にキリスト教の機関への攻撃を搭載しています。彼は、確立された状態の教会は、個人にとって有害だと感じました。

キルケゴールの最後の年は上の持続的な、あからさまな攻撃で取り上げられたデンマークの教会新聞に掲載された記事によって祖国(Fædrelandet)と呼ばれる自己公開パンフレットの一連のモーメント(Øjeblikketもインスタント」として翻訳します)、 "。これらのパンフレットは現在キルケゴールの中に含まれているキリスト教の際アタック[149] インスタント、1861年にドイツだけでなく、他のヨーロッパ言語に翻訳され、再び1896年にあった[150]

教授(すぐに司教が)後キルケゴールは、最初のアクションに移動ハンス・ラッセンマルテンセンは、彼が最近亡くなったビショップと呼ばれる教会で講演を行いましたヤコブピーターMynsterを「真理の証人、本物の真実-証人の1。 " [12]キルケゴールを説明しました、彼の最初の記事では、Mynsterの死は、彼の意見について率直であることが最後で彼を許可することを。彼は後に、すべての彼の元の出力は、2つの前提条件を待っている年間の延期、この攻撃のための「準備」、あったことを書いている:1)父と司教Mynsterの両方が攻撃と2の前に死んでなければならない)彼は自分自身のように名前を取得している必要があります有名なtheologic作家。[151]キルケゴールの父はMynsterの親友であったが、セーレンは長い間その支持の少なすぎる厳しい、キリスト教のMynsterの概念が間違っていたことを見に来ていました。キルケゴールは強く「真理の証人」としてMynsterの描写に反対しました。

キルケゴールは真実に証人が1847年に持っている希望を説明しました。

イメージ 9

Assistens墓地にあるセーレン・キェルケゴールの墓

キルケゴールはで死亡したフレデリックの病院おそらく、彼は彼の若さで木から取っていた秋からの合併症から、ヶ月以上後。彼はで埋葬されたAssistensKirkegårdにNørrebroのコペンハーゲンのセクション。キルケゴールの葬儀では、彼の甥ヘンリック・ルンドは公式の教会によってキルケゴールの埋葬に抗議することにより、障害を引き起こしました。彼はから壊れて機関を非難していたようルンドは、彼が生きていた、キルケゴールが承認されたことはなかっただろうと主張しました。ルンドは後で葬儀の彼の破壊のために罰金を科された。[31]

レセプション

主要な記事:セーレン・キェルケゴールの影響と受信

19世紀の受信

1850年9月には、西洋文学のメッセンジャーは書いた:「天才の彼の富とマルテンセンは存在のあらゆる分野に応じて、彼の中心位置光からキャストが、すべての時の現象の人生の、セーレン・キェルケゴールは別のように立っているサイモンStylites、彼の孤独な列の際、彼の目と変わらず1点に固定された。」[158]は 1855年、デンマーク国立教会は彼の死亡記事を発表しました。キルケゴールは、その記事から以下の引用文から判断そこにインパクトを持っていた: "今、彼らと感じ博士キルケゴールは、教会と国家の労働組合から発生すると表示し、信じる信徒の多くのためらいを強化している致命的な果物、それによって彼らは教会の規律が存在しないために、不信心者との交わりにあるため、教会にもはや残ることができる。」[158] [159]

イメージ 10

ニコライ・フレデリックセヴェリングルントヴィ(1783-1872)

変更は、教会の管理で発生したのはこれらの変更は、キルケゴールの著作にリンクされていました。教会は反対意見があったことを指摘し、「国民の心に外国何か。」1855年4月5日に教会が新しいポリシーを制定:「会衆のすべてのメンバーは、任意の牧師のミニストリーに参加して自由であり、かつ、など以前は、その檀家彼は1にバインドされていません」。1857年3月には、強制的な幼児洗礼が廃止されました。論争は、教会の長として王の位置の上や構成を採用するかどうかの上に跳び。グルントヴィは、任意の書かれたルールを持っていることに反対しました。すぐにこの発表後、「キルケゴールによって引き起こされる攪拌は「言及されました。キルケゴールは、と非難したWeigelianismとDarbyismが、記事では、「One偉大な真実はすなわち(つまり)、目立つなされていると言って続けた:世俗的な志向の聖職者が存在することが、教会内の多くのものが腐っていることを、すべての必要があること毎日悔い改め;。一つは教会または彼女の牧師のいずれかの既存の状態に満足してはならないこと」[158] [160]

イメージ 11

ハンス・ラッセンマルテンセン(1808-1884)

ハンスマルテンセンはデンマークの記事、の対象となった博士 博士H.マルテンセンに対するS.キルケゴールハンスペーターKofoed-ハンセン(1813-1893)でATT設定が1856年に出版された[161]で広く(未翻訳)とマルテンセンnämnde空キリスト教の倫理 1871年に発表され、[162]「キルケゴールの主張キリスト教の原因が立って入らなければならない「個別」のカテゴリーとATT、完全に正当ありますされ、ATTは、このカテゴリがなく、汎神論の憎しみは無条件に征服このことから、一目で、それ館SESソムキルケゴールBOR庭。ソムspecialudvikledeønskedefremme demの哲学と神学的な作家との原則一般的な原因を作ったパーソナリティをこれは遠くケースから、Inteにある。DEMビューソムは反対2で、この抽象を存在と人格のカテゴリを支持したため。反対2汎神論として理想主義は、enten-またはの意味でこれをしませんでしたが、私は煩わしアヒルの巣窟。彼らはønskedeシステムと全体thatthey事実から見ソム館specialudviklede存在と考え、のetablere団結を努めました。マルテンセン被告人キルケゴールとアレクサンドル・ビネその原因で社会を与えていませんの。彼は、その人自身の煩わしさが社会の上に個人を置く、など教会の上、行う際に言った。「[158] [163]もう一つの初期の評論家だったマグナスEiríkssonソムはマルテンセンを批判し、投機的神学に対する彼の戦いで彼の同盟国としてキルケゴールを望んでいました。

イメージ 12

ウィリアム・ジェームズ(1890年代)

ハラルドヘフディングは彼についての記事を書いた、現代哲学の簡単な歴史(1900)。[158]ヘフディングがでキルケゴールを述べた宗教の哲学 1906、および神学のアメリカジャーナル[185](1908)は約記事印刷宗教のヘフディングの哲学を。その後ヘフディングは彼の前科を悔い改め哲学の問題(1913)。[158]ヘフディングはまた、アメリカの哲学者の友人だったウィリアム・ジェームズ、と彼らはまだ英語に翻訳されていなかったとしてジェームズが、彼 ​​、キルケゴールの作品を読んでいませんでしたヘフディングによってキルケゴールについての講義に出席し、それらの講義の多くに同意しました。キルケゴールからジェームズのお気に入りの引用はヘフディングから来た:"我々は前方に住んでいるが、我々は後方理解します」。ウィリアム・ジェームズは書きました:

イメージ 13

フリードリヒ・フォン・ヒル1852-1925

フリードリヒ・フォン・ヒューゲルは、彼の1913本にキルケゴールについて書いたその意味とアプリケーションの研究:永遠の命、彼は言った: "キルケゴール、深い、憂鬱、激しい、全く妥協のないデンマークの宗教家は、偉大なフランス人の霊的な ​​兄弟でありますブレーズ・パスカル、そして印象的な英語のTractarian、ハレルフルード若くて洗練されていないことをまだ完全に死亡した、まだ彼をよく知っていたすべての人の際に遵守する足跡を残し、。」[190] [191]

イメージ 14

キルケゴールの作品のドイツ語と英語翻訳

ヘルマンゴッチェは、それが彼のジャーナルを手配して50年の学者を取っていた。1905年にキルケゴールのジャーナルを公開[202]キルケゴールの主な作品はによってドイツ語に翻訳されましたクリストフ・シュレンプ以降1909年から。[203] エマニュエル・ハーシュがからキルケゴールの収集作品のドイツ語版をリリース以降1950。[203]キルケゴールについてハラルドヘフディングのとシュレンプの両方の本は1892年に見直された[204] [205]

その後、20世紀のレセプション

1955年モートンホワイト言葉について書いた「存在する」と、神ののキルケゴールのアイデアはあるらし。

「存在する」という言葉は、ほとんどの中枢と哲学の論争のの一つです。一部の哲学者が1意味を持つと考える:感覚はここで私たちは、この本は赤みのような特性は、物事と同様に存在することを、8と20の間の奇数番号が存在することを、神はないことを、存在するか存在しないことを言いますアメリカ政府は、心は体と同様に存在することを、政府が収容されている物理的な建物と同様に存在していること、赤です。単語"存在"は、この明白な方法で解釈されたときや、哲学と神学の歴史の中で多くの有名な紛争が非常に簡単であるように思われます。有神論者は無神論者は非常に同じ文を否定しながら、神が存在することを確認します。唯物は、いくつかの理想主義者は、それが幻想だと思いながら、その問題が存在すると言います。プラトニックな現実主義者はそれを肯定しながらnominalists、それらが呼び出されるように、赤みのような特性の存在を否定。behavioristsのいくつかの種類が本体内部の心があることを否定しています。単語はこれらの紛争のいくつかは全くの紛争が、相互の誤解の単なる結果ではないことを曖昧なので、ある「存在する」と主張するいくつかの哲学者の間で傾向が、特定のものであることを確認するために失敗が、しかし、があります他の人が別に存在しながら、ある意味で存在すると述べました。二十世紀におけるこの種の優れた取り組みの一つは、物事またはそれらの間の関係の抽象特性が存続するために指摘しておかなければなりながら、空間と時間の中で唯一の具体的なものが、存在していることを維持現実主義の初期の著作で発生します。これは、時々 、シカゴ、セントルイスの両方が明確な場所に存在しながら、関係することを指摘することによって示されているよりも人口の多いそれらの間に保持しているが、シカゴでも、セントルイスでも、それらの間の領域のいずれにも存在しますが、それにもかかわらず、約何かでありますこれは、我々は、通常、プラトンが話しているのような時代を超越し、無限の領域に割り当てられている何かを話すことができます。このビューでは、しかし、人間の心や人格はまた、非物質でありながら存在すると言われています。要するに、大きな格差が抽象subsistentsとコンクリートexistentsの間であるが、人間の個性や物理オブジェクトの両方がexistentsであり、プラトニックなアイデアのspacelessnessと永遠に共有することはありません。

20世紀哲学、分析の年齢モートンホワイト1955 pの紹介や解説で選択し、。118から121ホートンミフリンのCo

モーティマー・アドラーは、 1962年にキルケゴールについて次のことを書きました:

キルケゴールの場合、男性は基本的に個々のではなく、種や人種のメンバーです。そして倫理的、宗教的真理は、個々の存在と意思決定スルー主観ではなく客観を通じて知られています。思想とそのようなヘーゲルの弁証法などのシステムは、個々の存在と意思決定を含んでいないことができ、単なる思考の問題、です。このようなシステムは、キルケゴール、ユニークかつ本質的な「精ポイント、個々の、倫理的および宗教的着想、および実存強調。」と述べた。同様にアメリカの著者ヘンリー・デイヴィッド・Thoureauの作品で、そこに、キルケゴールと同時に書き込み、除外します彼は右である、倫理的責任の担い手としての孤独個々に重点があり、圧倒的な倫理的な状態に対する重み、政府、そして、彼らは間違っている統一世論を、運びます。彼の側の権利を持つ孤独な個人が常に「1の大多数」である。倫理、道徳的価値観の研究モーティマー・アドラーとシーモアカインによって、。県。ウィリアム・アーネスト・ホッキングこともできます。
1962年のp。252

実存主義、生活、1964年11月6日、巻57、P. 102-103タイム社発行第19号ISSN 0024から3019には、86ページから始まります

ドイツのキルケゴールの比較的早いとマニホールド哲学と神学受信は世界中で彼の作品「影響力と読者を拡大する決定的な要因の一つであった。[215] [216]ドイツで彼の受信の第一段階のために重要であったの確立ジャーナルZwischenデンZeiten(歳のプロテスタント神学者の異種の円によって1922年):カール・バルト、エミール・ブルンナー、ルドルフ・ブルトマンとフリードリヒゴーガルテン。[217]彼らの思考はすぐと呼ばれることになる弁証法神学。[217]大まかで同じ時間は、キルケゴールは、ユダヤ教キリスト教のいくつかの支持者によって発見された対話の哲学、すなわちにより、ドイツのマルティン・ブーバー、フェルディナンドエブナー、とフランツ・ローゼンツヴァイク。[218]に加えて、対話の哲学、実存哲学は、その点を有しキルケゴールとの原点個性の彼の概念。[219]マルティン・ハイデッガーはまばらでキルケゴールを指し存在と時間、(1927)[220]彼は彼に負っているどのくらいの不明瞭。[221] [222] [223] ウォルター・カウフマンがサルトルを議論しました、ヤスパース、とハイデガー1960年代に宗教の危機に関連してキルケゴール、およびキルケゴールとの関係インチ[224]その後、キルケゴールの恐怖と震え(シリーズ2)と死に至る病(シリーズ3つが)に含まれていたペンギングレートアイデアシリーズ(2と3)。[225]

カール・バルトの初期の神学上のキルケゴールの影響

上のキルケゴールの影響カール・バルトの初期の神学に明らかであるローマ人への手紙。:初期のバースはキルケゴールの作品の少なくとも三巻読んでキリスト教における実践、モーメント、およびアンソロジーを彼の雑誌や日記から。重要な役割があったキルケゴールからのほぼすべての主要な用語ローマ人への手紙はで見つけることができますキリスト教で練習。間接通信、パラドックス、との瞬間の概念キリスト教における実践は、特に、現代のキリスト教とクリスチャン生活上のバースの考えを確認し、先鋭化。

イメージ 15

キルケゴールの原稿哲学的断片。[138]

信仰の飛躍は、個人が神にまたはどのように人は恋に行動するだろうと考えているだろうか、彼の概念です。信仰は神について、特定の信念が真であるか、ある人は愛の価値がある、と言う、という証拠に基づいて決定ではありません。そのような証拠はこれまで完全に真の信仰やロマンチックな愛に関与合計コミットメントの種類を正当化するのに十分であることができませんでした。信仰はとにかくそのコミットメントを作ることを含みます。キルケゴールは、信仰が疑いを持っていると同時にある持っていると思いました。だから、例えば、真の神への信仰を持っている1のために、1はまた、神について自分の信念を疑うする必要があります。疑いが信仰が本当の物質を持っていないことになることなく、証拠を、計量に関わる人の思考の合理的な部分です。キリスト教の教義は本質的に疑わしいとその真実の信仰を持っていますが、単にだまされやすいですしないについての客観的な確実性が存在しないことをことを実現していない人。例えば、それは1つがそれを見て、それに触れているときに、鉛筆やテーブルが存在することを信じて何の信仰を取りません。同様に、神への信仰を信じるか持つようにしても、その一つは、神への知覚または任意の他のアクセスを持っていないし、まだ、まだ、神への信仰を持って知ることである。[239]キルケゴールは疑問が同じように、信仰によって征服される」、書き込みそれが「世界に疑問をもたらした信仰である。[240] [241]

哲学的批判

キルケゴールの有名な哲学20世紀の批評家は、テオドール・アドルノとエマニュエル・レヴィナスを。以下のような非宗教哲学者ジャン=ポール・サルトルとマルティン・ハイデガーはキルケゴールの哲学的見解の多くの側面、サポートされている[247]が、彼 ​​の宗教的見解の一部を拒否しました。[248] [249]ある批評家は、書いたアドルノの本キルケゴール:美容の構築「今までキルケゴールに書かれた最も無責任な本"である[250]アドルノは文字通りキルケゴールの偽名を取り、彼はインコヒーレントと理解不能思われてしまうの哲学を構築するため。別のレビューでは、「アドルノは[遠く]我々が今日持っているキルケゴールの著作集のより信頼性の高い翻訳および解釈からである。」と述べている[107]

Noamiレボウィッツ、アレゴリーのキルケゴールAライフ 1985 p.157

影響

セーレン・キェルケゴールの影響と受信

イメージ 16

中セーレン・キェルケゴール像王立図書館ガーデンコペンハーゲン
彫像。 図は、オープン彼の膝の上の本で、座って書いとして描かれています。 木と赤い瓦屋根が背景にあります。 彫像自体はグレー示す摩耗と涙のすじで、ほとんどが緑です。 彫像のベースはグレーであり、「セーレン・キェルケゴール」を読み出します

王立図書館でセーレン・キェルケゴールアーカイブ内の写本
セーレン・キェルケゴールによりまたは約作品で、インターネット・アーカイブ
セーレン・キェルケゴールの作品でLibriVox(パブリックドメインのオーディオブック)



哲学・思想ブログ 哲学へ
人気ブログランキングへ

ルーセンベリ - ヒルディング・ルーセンベリ (Hilding Constantin Rosenberg)

$
0
0
イメージ 1

ルーセンベリ - ヒルディング・ルーセンベリ (Hilding Constantin Rosenberg)

ヒルディング・ルーセンベリ(Hilding Rosenberg、1892年6月21日 - 1985年5月18日)はスウェーデンの作曲家。

ボーショークロステル出身で、オルガン奏者、コンサートピアニスト、音楽教師であったが、1915年にストックホルム音楽院に入学し、エルンスト・エルベリに師事する。他にリッカルド・アンデション、ヴィルヘルム・ステーンハンマルにも師事した。第一次世界大戦後には、ヨーロッパを旅行し指揮者として有名になった。

1932年にはストックホルム王立歌劇場の音楽監督に任命された。14曲の弦楽四重奏曲(1920-1972)と、8曲の交響曲(1917-1974)を作曲したことで知られる。彼に作曲を学んだ人物には、カール・ビルゲル・ブロムダール、イングヴァル・リードホルム、ダニエル・ベルツらがいる。

作品
歌劇

至福の島
アメリカの旅

バレエ

街のオルフェウス

交響曲

交響曲第1番
交響曲第2番
交響曲第3番
ヨハネ受難曲(交響曲第4番)
交響曲第5番
交響曲第6番「素朴な交響曲」
管楽器と打楽器のための交響曲

管弦楽曲

白と黒の序曲
スウェーデン民謡の旋律による組曲
ルイヴィル協奏曲
弦楽のためのレント
マリオネット序曲
ベリスラーゲンの情景

協奏曲・協奏的作品

協奏交響曲
ピアノ協奏曲第1番
ピアノ協奏曲第2番
ヴァイオリン協奏曲第1番
ヴァイオリン協奏曲第2番
チェロと弦楽のための小品
晩餐の音楽

室内楽

弦楽四重奏曲第1番
弦楽四重奏曲第2番
弦楽四重奏曲第3番
弦楽四重奏曲第4番
弦楽四重奏曲第5番
弦楽四重奏曲第6番
弦楽四重奏曲第7番
弦楽四重奏曲第8番
弦楽四重奏曲第9番
弦楽四重奏曲第10番
弦楽四重奏曲第11番
弦楽四重奏曲第12番
ヴァイオリン・ソナタ第1番
ヴァイオリン・ソナタ第2番
チェロ・ソナタ
無伴奏フルート・ソナタ
五重奏曲
6つの楽興の時

ピアノ曲

ピアノ・ソナタ第1番
ピアノ・ソナタ第2番
ピアノ・ソナタ第3番
ピアノ・ソナタ第4番
ソナティナ
6つのポリフォニックな練習曲
即興曲
主題と変奏
組曲
3つの間奏曲
8つの人工的な景色
11の小さな講義用習作
11の新しい小さな講義用習作

合唱曲

聖夜
ヨーゼフと兄弟

歌曲

14の中国の詩
怠け者

外部リンク

イメージ 2

ルーセンベリ:歌劇「マリオネット」 - 序曲/リードホルム:リトルネッロ/ベック:室内シンフォニア/ブロムダール:舞踏組曲第2番(シュミット=イッセルシュテット/ブロムシュテット/アルセニウス)(1956-1958)

ROSENBERG, H.: Marionetter: Overture / LIDHOLM, I.: Ritornell / BÄCK, S.-E.: Sinfonia da camera / BLOMDAHL, K.B.: Danssvit No. 2 (1956-1958)

このページのURL
イメージ 3

ルーセンベリ:交響曲第3番「男の一生」(ストックホルム響/マン)(1953)

ROSENBERG, H.: Symphony No. 3, "De fyra tidsaldrarna" (The Four Ages of Man) (Stockholm Symphony, Mann) (1953)

このページのURL
イメージ 4

ルーセンベリ:交響曲第3番, 第4番(ロイヤル・ストックホルム・フィル/ルーセンベリ)(1940, 1944)

ROSENBERG, R.: Symphonies Nos. 3 and 4 (Collector's Classics, Vol. 2:II - Rosenberg Plays Rosenberg, Melodramas) (1940, 1944)

このページのURL
イメージ 5

ルーセンベリ:交響曲第3番, 第6番(エーテボリ響/ヴェンツァーゴ)

ROSENBERG, H.: Symphonies Nos. 3 and 6 (Gothenburg Symphony, Venzago)

このページのURL
イメージ 6

ルーセンベリ:交響曲第5番/聖夜(ロイヤル・ストックホルム・フィル/ルーセンベリ)(1936, 1944)

ROSENBERG, R.: Symphony No. 5 / The Holy Night (Collector's Classics, Vol. 2:II - Rosenberg Plays Rosenberg, Oratorios) (1936, 1944)

このページのURL
イメージ 7

ルーセンベリ:バレエ音楽「街のオルフェウス」(アンデション/スンドクヴィスト)

ROSENBERG, H.: Orpheus in Town [Ballet] (Andersson, Sundkvist)

このページのURL
イメージ 8

ルーセンベリ:街のオルフェウス/協奏交響曲(スウェーデン放送響/ルーセンベリ)(1935-1949)

ROSENBERG, R.: Orpheus in Town / Symphonie concertante (Collector's Classics, Vol. 2:I - Rosenberg Plays Rosenberg, The Musician) (1935-1949)

このページのURL
イメージ 9

ルーセンベリ:ヴァイオリン協奏曲(シュピーラー/アルヴィド・ヤンソンス)/セーデルルンド:ヴァイオリン協奏曲(バーリン/ウェステルベリ)

ROSENBERG / SODERLUNDH: Violin Concertos

このページのURL
イメージ 10

ルーセンベリ:ピアノ協奏曲第1番, 第2番(ヴィードルンド/スウェーデン放送響/スンドクヴィスト)

ROSENBERG, H.: Piano Concertos Nos. 1 and 2 (Widlund)

このページのURL
イメージ 11

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第1番, 第6番, 第12番(シュンデル四重奏団/ゴトランド四重奏団/コペンハーゲン弦楽四重奏団)

ROSENBERG: String Quartets Nos. 1, 6 and 12

このページのURL
イメージ 12

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第2番, 第5番, 第8番(リュセル四重奏団/ゴトランド四重奏団)

ROSENBERG: String Quartets Nos. 2, 5 and 8

このページのURL
イメージ 13

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第3番, 第9番(リュセル四重奏団)

ROSENBERG: String Quartets Nos. 3 and 9

このページのURL
イメージ 14

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第4番, 第7番/6つの楽興の時(フレスク四重奏団/ベルワルド四重奏団/ゴトランド四重奏団)

ROSENBERG: String Quartet Nos. 4 and 7 / 6 Moments musicaux

このページのURL
イメージ 15

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第10番, 第11番(フレスク四重奏団/ターレ四重奏団)

ROSENBERG: String Quartets Nos. 10 and 11

このページのURL
イメージ 16

ルーセンベリ:弦楽四重奏曲第5番, 第6番(パルナン四重奏団/キンデル四重奏団)(1953, 1956)

ROSENBERG, H.: String Quartets Nos. 5 and 6 (Parrenin Quartet, Kyndel Quartet) (1953, 1956)

このページのURL
イメージ 17

ルーセンベリ:室内楽作品集(シェーン/イェテボリ・チェンバー・ソロイスツ)

ROSENBERG, H.: Chamber Music (Schön, Gothenburg Chamber Soloists)

このページのURL
イメージ 18

ルーセンベリ:ピアノ作品集 1 (ヴィードルンド)

ROSENBERG, H.: Piano Music, Vol. 1 (Widlund)

このページのURL
イメージ 19

ルーセンベリ:ピアノ作品集 2 (ヴィードルンド)

ROSENBERG, H.: Piano Music, Vol. 2 (Widlund)

このページのURL
イメージ 20

ルーセンベリ:歌劇「至福の島」(ノルランド・オペラ/C. ヤルヴィ)

ROSENBERG, H.: Lycksalighetens o [Opera] (Jarvi)



生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言[森崎東/日本/1985]

$
0
0
イメージ 1

生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言[森崎東/日本/1985]



森 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - )は、日本の脚本家、映画監督である[2]。
イメージ 2


経歴

1927年、長崎県島原市に生まれる[3]。京都大学法学部を卒業[3]。1956年、松竹京都撮影所に入社する[4]。1965年、大船撮影所に移籍し[2]、野村芳太郎監督や山田洋次監督の助監督、脚本を手がける[3]。

1969年、『喜劇 女は度胸』で監督デビュー[5]。以降、『男はつらいよ フーテンの寅』をはじめとする喜劇を撮り続ける[3]。一連の作品により、1971年、芸術選奨新人賞を受賞する[要出典]。1974年、フリーとなる[2]。

1985年、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』を発表[3]。1996年、『美味しんぼ』を監督する[6]。


2003年、第4回東京フィルメックス審査員を務める[7]。2004年、『ニワトリはハダシだ』が第17回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され[8]、最優秀芸術貢献賞を受賞した[9]。2005年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞[10]。2013年、9年ぶりの新作となる『ペコロスの母に会いに行く』を発表[11]、第87回キネマ旬報ベスト・テンで日本映画1位に選ばれた[12]。

フィルモグラフィー

映画

女の一生(1967年) - 脚本
喜劇 夫婦善哉(1968年) - 脚本
惚れた強み(1968年) - 脚本
こわしや甚六(1968年) - 脚本
吹けば飛ぶよな男だが(1968年) - 脚本
日本ゲリラ時代(1968年) - 脚本
喜劇 一発大必勝(1969年) - 脚本
男はつらいよ(1969年) - 脚本
喜劇 女は度胸(1969年) - 監督・脚本
喜劇 男は愛嬌(1970年) - 監督・脚本
男はつらいよ フーテンの寅(1970年) - 監督
喜劇 女生きてます(1971年) - 監督・脚本
喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年) - 監督・脚本
喜劇 女売り出します(1972年) - 監督・脚本
生まれかわった為五郎(1972年) - 監督・脚本
女生きてます 盛り場渡り鳥(1972年) - 監督・脚本
野良犬(1973年) - 監督
藍より青く(1973年) - 監督・脚本
街の灯(1974年) - 監督・脚本
メス(1974年) - 脚本
喜劇 特出しヒモ天国(1975年) - 監督
黒木太郎の愛と冒険(1977年) - 監督・脚本
ダンプ渡り鳥(1981年) - 脚本
時代屋の女房(1983年) - 監督
ロケーション(1984年) - 監督・脚本
生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言(1985年) - 監督・脚本
塀の中の懲りない面々(1987年) - 監督
女咲かせます(1987年) - 監督・脚本
釣りバカ日誌スペシャル(1994年) - 監督
美味しんぼ(1996年) - 監督
ソクラテス(1996年) - 脚本
ラブ・レター(1998年) - 監督
世界の終わりという名の雑貨店(2001年) - 出演
白い犬とワルツを(2002年) - 脚本
ニワトリはハダシだ(2004年) - 監督・脚本
ペコロスの母に会いに行く(2013年) - 監督

テレビ映画・テレビドラマ

はぐれ刑事(1975年、日本テレビ) - 監督
第5話「偽証」
第6話「姉弟」
長崎犯科帳 (1975年、日本テレビ) - 監督
第6話「虎の罠を噛み破れ」
第23話「風の噂の孫七郎」
欲望の河(1976年、東海テレビ) - 監督
新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅 最終回「京都」(1978年、ABC) - 監督
翔べ! 必殺うらごろし(1978年、ABC) - 監督
第1話「仏像の眼から血の涙が出た」
第2話「突如奥方と芸者の人格が入れ替わった」
ハッピーですか?(1978年、日本テレビ) - 監督
カムバック・ガール(1982年、毎日放送) - 監督
ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる 第1回「昭和20年8月15日 終戦日の荷風と潤一郎」(1984年、テレビ朝日) - 監督

著書

頭は一つずつ配給されている(2004年、パピルスあい) ISBN 478459101X

脚注

^ “森崎東監督、威風堂々の佇まい 「ペコロスの母に会いに行く」撮影順調”. 映画.com (2012年9月18日). 2014年3月21日閲覧。
^ a b c “映画を巡るおんな旅 森崎東 篇!”. LOAD SHOW (2013年11月15日). 2014年3月21日閲覧。
^ a b c d e “老いを前向きに描く 東京新聞映画賞の「ペコロスの母に会いに行く」”. 東京新聞 (2014年2月19日). 2014年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月21日閲覧。
^ “映画監督・森崎東 追憶の風景 香良州海岸(津市)”. asahi.com (2010年9月28日). 2014年3月21日閲覧。
^ “講座:「森崎東党宣言!」29日、長田・神戸映画資料館 兵庫”. 毎日新聞 (2013年12月21日). 2014年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月21日閲覧。
^ “テレ東、三國さん偲んで親子共演作『美味しんぼ』放送”. ORICON STYLE (2013年4月17日). 2014年3月21日閲覧。
^ “Incense wins top Tokyo FILMeX prize” (英語). Screen International (2003年12月2日). 2014年3月21日閲覧。
^ “危機的状況には歌。「ニワトリはハダシだ」秘話”. 映画.com (2004年10月26日). 2014年3月21日閲覧。
^ “ウルグアイ作品にグランプリ 第17回東京国際映画祭 観客・映画人の交流深夜まで”. しんぶん赤旗 (2004年11月12日). 2014年3月21日閲覧。
^ “芸術選奨文科大臣賞新人賞にジブリ美術館長”. 読売新聞 (2005年3月15日). 2014年3月21日閲覧。
^ “森崎東監督、初日挨拶で86歳誕生日祝福され「まるで映画のよう」”. 映画.com (2013年11月16日). 2014年3月21日閲覧。
^ “邦画1位に「ペコロス」 キネマ旬報ベストテン”. 日本経済新聞 (2014年1月9日). 2014年3月21日閲覧。

関連文献

『にっぽんの喜劇えいが PART2 森崎東篇』 野原藍、映画書房、1984年。
松本健一 『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』 新潮社、1988年。ISBN 978-4103684015。
『森東党宣言!』 藤井仁子、インスクリプト、2013年。ISBN 978-4-900997-40-0。

外部リンク

公式ウェブサイト
森崎東 - allcinema
森崎東 - KINENOTE
森崎東 - 日本映画データベース
Azuma Morisaki - インターネット・ムービー・データベース(英語)
森崎東 - テレビドラマデータベース

森崎東インタビュー(1)



ルーニング - オットー・ルーニング (Otto Luening; 1900-1996)

$
0
0
イメージ 1

ルーニング - オットー・ルーニング (Otto Luening; 1900-1996)

オットー・ルーニング(Otto Luening、1900年6月15日 - 1996年9月2日)は、米国の作曲家。米国における電子音楽の先駆者の一人であるとともに、現代音楽界の発展に多大な貢献をした。

生涯

ウィスコンシン州ミルウォーキーの生まれ、名前から分かるようにドイツ系である。祖父はテノール歌手、父はピアニスト、作曲家、指揮者であった。スイスのチューリッヒでフェルッチョ・ブゾーニとフィリップ・ヤルナッハに師事して作曲を学ぶ。1918年、ブゾーニから電子機器を使った作曲の可能性について教えられる。1920年米国に戻り、その後、アリゾナ大学、コロンビア大学、ジュリアード音楽院などで教鞭をとる。1950年代初期にコロンビア大学でウラジミール・ウサシェフスキーと共に電子楽器と磁気テープを使った音楽表現の研究を行い、これが、後にテープ音楽と呼ばれるものになる。1959年にはコロンビア-プリンストン電子音楽センター(現コロンビア大学コンピュータ音楽センター)を設立した。

ルーニングは米国における電子音楽の先駆者として、また、現代音楽界の重鎮として様々な活動を行っている。その中でも米国音楽センターの創立メンバーの一人(他はアーロン・コープランド、マリオン・バウアー、ハワード・ハンソン、ハリソン・カール、クインシー・ポーター)であり、かつ初代会長として米国の現代音楽の発展のために精力的に活動した功績は大きい。

作品

ルーニングは電子音楽以外にもフルートなどの吹奏楽器のための作品を多数残している。彼の名を高めたテープ音楽は今日では作品として鑑賞されることはほとんど無い。しかし、「叙情的光景」(オーボエと弦楽のための作品)や「伝説曲」(フルートと弦楽のための作品)などの前衛色の無い作品は今日でも小品として演奏されることも少なくない。

また、エミリー・ディキンソン、ジョージ・ゴードン・バイロン、ウィリアム・ブレイクなどの詞に付けた初期の歌曲が知られている。

関連サイト

全て英文サイト。



イメージ 2

リューニング:管弦楽作品集 1917-1992 (マンハッタン室内管/クラーク)

LUENING, O.: Orchestral Works, 1917-1992 (Manhattan Chamber Orchestra, Clark)

このページのURL
イメージ 3

リューニング:交響的幻想曲第1番/アンタイル:セレナード第1番/ハウ:スターズ/サンド(アドラー/アントニーニ/ストリックランド)(1957)

LUENING, O.: Symphonic Fantasia No. 1 / ANTHEIL, G.: Serenade No. 1 / HOWE, M.: Stars / Sand (Adler, Antonini, Strickland) (1957)

このページのURL
イメージ 4

ペレラ:5つの夏の歌/ホィーロック:室内交響曲/ロンドン:メロドラマ/ルーニング:フルート協奏曲(サンシャイン)

PERERA: 5 Summer Songs / WHEELOCK: Chamber Symphony / LONDON, E.: Melodrama / LUENING: Flute Concertino

このページのURL
イメージ 5

ヴィンセント:弦楽四重奏曲第1番/リューニング:ヴァイオリン・ソナタ第3番/カー:序曲、アリオーソと終曲(1950, 1953)

VINCENT, J.: String Quartet No. 1 / LUENING, O.: Violin Sonata No. 3 / KERR, H.: Overture, Arioso and Finale (1950, 1953)

このページのURL
イメージ 6

スティーヴンス/カウエル/バーンスタイン/リューニング/プライヤー/クレーガー:トロンボーン作品集(ボラー)

Trombone Recital: Borror, Ronald - STEVENS, H. / COWELL, H. / BERNSTEIN, L. / LUENING, O. / PRYOR, A. / KROEGER, K.

このページのURL
イメージ 7

パーソン:グッド・タイム/リューニング:幻想曲とダンス/プリッツカー:ア・チャレンジ・トゥ・ア・ダーク(インターナショナル・ストリート・カニバルズ)

PEHRSON, J.: Good Time / LUENING, O.: Fantasia and Dance / PRITSKER, G.: A Challenge to the Dark (Ballets and Solos) (International Street Cannibals)

このページのURL
イメージ 8

モーツァルト/タル/リューニング/ペーテルス/クラーク/ロプレスティ/ウィントル/エリントン:トランペット作品集(ホルト)

Trumpet Recital: Holt, John - MOZART, W.A. / TULL, F. / LUENING, O. / PEETERS, F. / CLARKE, H. / LOPRESTI, R. / WINTLE, J. / ELLINGTON, D. (Facets)

このページのURL
イメージ 9

TRIO AMERICA, Vol. 3 - Music by Henry Cowell / Leuning / Chihara / Creston

このページのURL
イメージ 10

TRIO AMERICA, Vol. 4 - Music by Otto Leuning / Piano Trios by Ellington / Benjamin / Dukelsky (Duke) / Rogers

このページのURL
イメージ 11

Viola Recital: Cortese, Paul - VAUGHAN WILLIAMS, R. / LUTOSLAWSKI, W. / CLARKE, R. / LUENING, O. / PISTON, W. / HARRIS, R. (Viola View)

このページのURL
イメージ 12

コープランド/クレストン/ピアティゴルスキー/スロムニスキー/リューニング:アメリカのチェロ作品集(キング/ジェンセン)

CELLO AMERICA, Vol. 3 - COPLAND, A. / CRESTON, P. / PIATIGORSKY, G. / SLONIMSKY, N. / LUENING, O. / GERSHWIN, G. (King, Jensen, Sano)

このページのURL
イメージ 13

A SELECTION FROM THE CATALOGUE OF NEW MUSIC QUARTERLY RECORDINGS (1933-1937)

SELECTION FROM THE CATALOGUE OF NEW MUSIC QUARTERLY RECORDINGS (A) (1933-1937)



核心を撃て(Shoot for the Contents )[トリン・T・ミンハ/アメリカ/1991]

$
0
0
イメージ 1

核心を撃て(Shoot for the Contents )[トリン・T・ミンハ/アメリカ/1991]

共同プロデュースジャン=ポール・Bourdier
監督トリン・T・ミンハ
1991年、101分、カラー、16ミリメートル/ DVD

そのタイトル古代中国のゲームの意味上と映画制作のクリエイティブな要素に果たしているフィルムは、寓話ネーミングの迷路への遠足です。これは、パワーと中国の文化と政治の現代的なシフトに関連するよう変更の質問を熟考し、Tiennamen広場イベントで屈折として。

「近年の最も異常なドキュメンタリーやジャンル...電源、変化、政治、文化の問題に関する複雑な瞑想の表記の主要な創造的な介入の一つ、に従事して両方のインサイダーとアウトサイダーの視点を織り社会的、芸術活動の様々な分野...美しいと移動膜として挑戦し、それが政治的であるとして正式に刺激します。 " - ロンドン映画祭

「政治、詩は、彼女の作品の「内容」です。人生と芸術にトリン・T・ミンハ心から、慎重に栽培アプロー​​チは、すべての作業の彼女の賞を受賞した体の上に、入れ墨のように、表示されます。」 - ジェフKaliss、オークランド・トリビューン

"あなたは、正式な肖像で物事の重要な精神をキャッチしない、チンのナレーターの1述べています。最初にこの言葉を口に古代中国の哲学者は、映画制作の監督の独自のスタイルを記述したかもしれない。彼女の微妙なフォーマルは、他の人が中に失敗した場合に成功中国を理解すること。トリンは、中国自体として、複雑な神秘的で魅力的なように、フィルムにすべてのビットを作成し、政治、歴史や文化を超越します。

賞:審査員ベストCinematagraphy賞、1992年サンダンス映画祭。ゴールデンアテナ、ベスト実験的な機能ドキュメンタリー、アテネ映画祭

イメージ 2

トリン・T・ミンハ(Trinh T. Minh-ha)

トリン・T・ミンハ(* 1952年、ハノイ)ベトナムでの映画監督、作家、文学理論家、作曲家と教授。彼女は30年以上にわたり映画を作り続けてきたし、最高の彼女の映画のために知られているかもしれReassemblage 1982年に作られた、と姓ベトナムは名前ナムを考えると彼女は含めて、いくつかの賞や助成金を受けている1985年に作られた、アメリカ映画協会の国立インディペンデント映画監督マヤ・デレン賞、および親睦からのジョンサイモングッゲンハイム財団、全米芸術基金およびカリフォルニアアーツカウンシル。彼女のフィルムは20回顧の対象とされてきた。[1]

彼女は、文化的、政治に関わるようにジェンダーの政治に焦点を当てるのコース、ポストコロニー性、現代批判理論と芸術を教えています。セミナー彼女は重要な理論と研究、文化的な政治、フェミニスト理論、第三映画、映画理論と美学、社会的、創造的な文脈での音声、および自伝に焦点を当てています。[2]

伝記

トリン・T・ミンハはで生まれたハノイ、ベトナム。彼女は中に南ベトナムで育ったベトナム戦争。他の教育の軌跡の中で、彼女はサイゴンでの音楽や演劇の国立音楽院でピアノと作曲を学びます。トリン・T・ミンハは、1970年に米国に移住し、彼女が作曲、民族音楽、そしてでフランス文学研究イリノイ大学、シャンペーン・アーバナ彼女は博士号を取得しました、度。彼女は教授となっているジェンダーと女性学専攻でカリフォルニア大学バークレー校 1994年以来とレトリック学科の[3] 1997年以来、彼女はまた、ハーバード大学、で教えてきたスミス、コーネル、サンフランシスコ州立大学、イリノイ、大学お茶の水女子大学日本では、とセネガルの国立音楽院。

映画

Reassemblage(40分、1982年)

Reassemblageは、[1]トリン・T・ミンハ初の16mmフィルムです。それはで撮影されたセネガル、より従来の民族学的ドキュメンタリー映画とは違って」、ちょうど近く話す/について話すことはない」彼女は意図していることを説明しReassemblageチンでは1982年にリリースされました。フィルムはセネガルからのつかの間の画像のモンタージュで、トリン・T・ミンハによって時折文がありますが、何のナレーションを含んでいません。シーンに彼女のアサイン意味で与えられた文のいずれもありません。音楽、沈黙が時々トリンが「文化」「約」は映画を作ることを拒否し、映画を見て、そこにある。[4]それは視聴者の期待と意味の割り当ての必要性を指しています。
裸のスペース-リビングラウンド(135分、1985年)である

生きているラウンド:裸のスペースでは、[2] 、トリン・T・ミンハ詳しく説明Reassemblageに。彼女は、文化的な表現形式として民族誌的アイデンティティ上のエッセイフィルム、翻訳の不可能性、およびスペースを作成するために、ポストコロニアル識別のテーマとReassemblageで無力化の地政学的な装置を検査します。[5]彼女は再びフレーム画像を順に奪わ特権視線-比喩フィルタを確立します。画像のモンタージュは、画像をexoticizes娯楽、経済に向かって指し; 継続的な新植民地主義を正当化する理由として、国際社会によって利用。チンの画像アフリカの人生の神秘とexoticizationに再存在闘争と抵抗。彼女のイメージは、それは冒頭陳述で発表されたように、所定の仮定およびステレオタイプの永続化に抵抗するための説明として解釈のプロセスを示唆して「面白くない、有益ではない、記述されていません。」[6]

名南(108分、1989年)を考えると姓ベトナム

名南与えられた姓ベトナムは、[3]ベトナムで作られていません。フィルムはニュース映画やアーカイブ映像だけでなく、印刷された情報で構成されています。フィルムは5現代のベトナム女性とのインタビューを備えています。名南を考えると姓ベトナムは「面接の練習は真と偽、と現実と上演の場に入力することができます。」[7]トリン・T・ミンハ上演と「実」の両方を示すことによって、インタビューはインタビューの政治、および表現の更なる関係の不可視性に対処する2の違いを画定します。フィルムは、翻訳等の複数のアイデンティティ、ドキュメンタリーの手法に固有の小説、映画などの問題を検討するため、視聴者に依頼します。名南を考えると姓ベトナムは、勝利を含め、多くの注目を集めているブルーリボン賞をアメリカの映画祭で。[8]

内容(102分、1991年)のために撃つ

コンテンツの撮影[4]中国の推測ゲームに一部を指します。これは、中国の寓話ネーミングとストーリーテリングのユニークな迷路です。フィルムは天安門広場でのイベントに起因する、パワーと変化、政治、文化の質問を熟考します。タイトルは真実になってのドキュメンタリー概念とjuggles:「コンテンツのために撃ちます」。同時に、それは「この映画では何だと思います。」、膜自体を問う[9]フィルムは、映画制作のプロセスに問い合わせます。フィルムは微妙に中国の人気曲、クラシック音楽、毛沢東や孔子、女性の声のことわざ、芸術家、哲学者の言葉、および他の労働者と積層されています。画像の多面的階層化と、再びトリンが、この場合のアイデンティティの多様性、および表現の政治上の以前のフィルム(名前ナム考えると姓ベトナム)、中国の再プレゼンテーションに取り組むテーマに触れて音。漏れや描写と色との遊び、リズム、そして耳と目の間の関係の変化との間にフィルムの微妙なバランスは、現代中国の文化と政治の解釈のシフトを示唆しています。この映画は1992年にホーチミン-haの撮影賞で優秀を受賞した[5] 。

愛の物語(108分、1995年)(「フィクション」)

トリン・T・ミンハの第十フィルムは、愛の物語は、[6]緩くベトナムの叙事詩に基づいている金雲翹 キユウザ物語、トゥイキユウの不幸を、次の19世紀に書かれた国の愛の詩、彼女の家族を救うために自分自身をprostitutingによって彼女「純度」を犠牲に才能、若い女性。詩は広く、多くの場合、侵入したベトナムのメタファーと考えられてきました。フィルムはベトナム移民キユウ、アメリカでの新しい生活、彼女が残した家族や彼女自身の野心の相反する要求の間で苦労しているフリーランスのライターの物語。これは、35ミリメートルでミン-haの初の長編映画の撮影だった[7] 。

四次元(87分、デジタル、2001年)

四次元は[8]トリン・T・ミンハ初のデジタルビデオ機能です。[9]それは、祭り、宗教的儀式などの新技術の儀式を通して時間の探査、日常生活とどのような従来の儀式として理解されている、と演劇。フィルムは、官能的に画面上に持っているもの」「最終的には「日本」ではない」という認識に視聴者をもたらしますが、イメージとしてで時間の光のような日本の広大な現実。」[10]ここでは、日本を通過します視覚マシンは旅をritualizesカメラ、画像の旅行記、を介して行われます。時間に生きてくる画像は、映画の中で時間をフレーム。これはどこで実際と仮想meet-である四次元。[11]「日本の儀式」の画像をritualizingの過程で、それは自己と他者、人間と機械、視聴者及び画像、事実と空想の出会いがあり、過去と現在が可能となっているでネクサス。

ナイトパサージュ(98mins、デジタル、2004)(「フィクション」)


出版物

仕事のない芸術、または、現代美術における匿名性(国際ブック出版社、1981年)
アフリカのスペース-オートボルタでの生活のためのデザイン(collの中のジャン・ポールBourdier、ホームズ&マイヤー、1985で。)
小文字(詩の本、ルメリディアン版、1987年)
女性、先住民、その他。ライティングポストコロニアリティとフェミニズム(インディアナ大学出版、1989年)

ドイツ語版:トランス。Kathrinaメンケ、ウィーン&ベルリン:Verlag社トゥリア&カント、2010。
Japanese Edition: trans. Kazuko Takemura, Tokyo: Iwanami Shoten, 1995.

そこに:現代文化におけるMarginalisation(コーネル・ウェスト、R.ファーガソン&M. Geverとの共同編集者現代アートとMITプレス、1990年のニュー・ミュージアム)
とき月ワックスレッド。表現、性別、文化的政治(ラウトレッジ、1991)

Japanese Edition : trans. Fukuko Kobayashi, Tokyo: Misuzu Publishers, 1996.

フレーマ入り(ラウトレッジ、1992)
アフリカの住居から引き出さ(蔵で。ジャン=ポール・Bourdier、インディアナ大学出版、1996年に)
シネマ間隔(ラウトレッジ、1999)
トリン・T・ミンハ/セセッション(分離派、2001)
デジタルフィルムイベント(ラウトレッジ、2005)
世界に生息する(蔵で。ジャン=ポール・Bourdierでは、代替のエディション、2005)

英語版:西アフリカのヴァナキュラー建築:住居の世界(collの中のジャン・ポールBourdierと、ラウトレッジ、2011。)

他の場所で、ここでは内:移民、亡命者や境界イベント(ラウトレッジ、2011)

スウェーデン語版:他の場所で、内側(ゴラン・ダールバーグとエリンTalji訳;グレイド、2012)
Japanese Edition: trans. Fukuko Kobayashi. Tokyo: Heibonsha Ltd., 2013.

D-パサージュ:デジタル・ウェイ(デューク大学出版、2013年)

インストールの

オールドランド新ウォーターズ(2007年、県美術館、沖縄、日本の美術博物館; 2008年、チェチェン緊急ビエンナーレ、2008年、第三広州アートトリエンナーレ、2009年、県美術館、沖縄、日本の美術博物館)
(蔵インチジャン=ポール・Bourdier、2006、ケBranly美術館付)その??他の歩行
砂漠のボディ(2005、ギャラリーのBlu、サンタクララ)
砂漠は(蔵で。ジャン=ポール・Bourdier、2003年、京都芸術ビエンナーレで)見ています
ナッシングバット方法(蔵インチリン・マリー・カービー、1999年と、芸術イエルバ・ブエナ・センター、サンフランシスコ)
フォトモンタージュ(1995年、サンフランシスコ州立大学)

音楽

詩。パーカッション・アンサンブルのための組成物。大学によって初演。イリノイ州パーカッションアンサンブル、デニスWiziecki、ディレクターの。1976年4月9日。
電子音楽のための4つ。大学で1975年の公演。イリノイ。

外部リンク





トリン・T・ミンハ Trinh T. Minh-ha
1953年ヴェトナム、ハノイ生まれ。サイゴンで育ち17歳でアメリカに移住。作曲と比較文学を専攻した後、アフリカのセネガルで音楽を教え、フランスで民族音楽学を学ぶ。映画作家であるだけでなく、作家、作曲家としても活躍。多彩な領域をフィールドとした著書は多く、芸術論『作品なき芸術』(1981)、建築空間論『アフリカの空間』(1985、共著)、詩集『小文字で』(1987)、シナリオ及びインタビュー集『枠づけるもの、枠づけられるもの』(1992)以上未訳、邦訳に『女性・ネイティヴ・他者』(竹村和子訳、岩波書店、1995)、『月が赤く満ちる時』(小林富久子訳、みすず書房、1996)がある。米国内のほか、欧州、アフリカ、アジアで積極的な講演活動を続け、ポストコロニアリズムの尖鋭な思想家として、学生、知識人の間で熱烈な支持を得ている。映画作品はこれまでに5作あり、ブルー・リボン賞(実験的長編部門)、マヤ・デレン・アワード、サンダンス映画祭の審査員ベスト・アワードなど、多数の賞を獲得。現在、カリフォルニア大学バークレー校映画学・女性学の教授。


Director (11 credits)
2016 Forgetting Vietnam (Documentary)

2004 Night Passage

2001 The Fourth Dimension

1995 A Tale of Love

1992 Shoot for the Contents

1989 Surname Viet Given Name Nam (Documentary)

1985 Naked Spaces: Living Is Round

1983 Reassemblage: From the Firelight to the Screen (Documentary short)

1982 The Wedding (Short)
1981 Calligraphy (Short)
1980 San Francisco (Short)

基調講演・パネル - ジェンダー






ユーハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman)Ⅰ

$
0
0
イメージ 1

ユーハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman)

ユーハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman, 1694年10月26日 ストックホルム - 1758年11月20日)は、北欧で最も重要なバロック音楽の作曲家。北欧では 「スウェーデン音楽の父」 や 「スウェーデンのヘンデル」 と呼ばれる。実際ルーマンは、ロンドンに留学してヘンデルに入門し、イタリア・バロック音楽の様式について薫陶を受けている。

生涯

ルーマンはスウェーデン王宮礼拝堂つきの音楽家であったユーハン・ルーマンの家族としてストックホルムに生まれた[1]。「ルーマン」という姓は先祖が住んでいたフィンランドのラウマという場所に由来する。ルーマン少年は初め父から音楽教育を受けたらしい。

1711年にヴァイオリン兼オーボエ奏者として王宮礼拝堂の一員となった。1715年ごろ王の許しを得て海外で勉強を続けることになり、ロンドンで6年ばかりを過ごした。大半はヨハン・クリストフ・ペープシュのもとで学んだと思われ、フランチェスコ・ジェミニアーニ、ジョヴァンニ・ボノンチーニからも影響を受けた。なかんづくヘンデルの音楽はルーマンに後々まで残る深い印象を与えた。

1721年、スウェーデンに戻るとすぐに王宮礼拝堂の副楽長に任ぜられ、6年後にはスウェーデン王立管弦楽団の主席指揮者の地位についた。1720年代には公式の活動に専念し、礼拝堂の活動が大幅に改善された。1727年、《トラヴェルソ・ヴィオローネ・ハープシコードのための12のソナタ集》 が出版され、これがルーマンの生前に出版された唯一の作品であった。1731年にはスウェーデンで初めて、一般聴衆むけの公開演奏会を開いた。


イメージ 2

ルーマン:ゴロヴィン伯爵のための祝祭音楽(ドロットニンホルム・バロック・アンサンブル)

ROMAN: Golovin Music (The)

このページのURL
イメージ 3

ルーマン:シンフォニア ニ短調/パルティータ ハ短調/ヴァイオリン協奏曲 ヘ短調/フルート協奏曲 ト長調(リンダル/クリンフォルス/ストックホルム・バロック・アンサンブル)

ROMAN, J.H.: Sinfonia in D Minor / Partita in C Minor / Violin Concerto in F Minor / Flute Concerto in G Major (The Swedish Virtuoso) (Lindal)

このページのURL
イメージ 4

ルーマン:ドロットニングホルム・ミュージック(抜粋)/シンフォニア ヘ長調

ROMAN: Drottingholm Music (excerpts) / Sinfonia in F Major (Children's Classics Drottingholm Music)

このページのURL
イメージ 5

ルーマン:ドロットニングホルムの音楽/合奏協奏曲 変ロ長調 BeR145 (スパーフ)

ROMAN, J.H.: Drottningholmsmusique / Concerto Grosso in B-Flat Major, BeR145 (The Royal Wedding Music of Drottningholm) (Sparf)

このページのURL
イメージ 6

ルーマン:ドロットニングホルムの音楽/シンフォニア集/ヴァイオリン協奏曲/トリオ・ソナタ(ドロットニンホルム室内管/ヴェステルベリ)(1958-1970)

ROMAN, J.H.: Drottningholm Music / Sinfonias / Violin Concerto / Trio Sonata (Drottningholm Chamber Orchestra, Westerberg) (1958-1970)

このページのURL
イメージ 7

ルーマン:ドロットニングホルムの音楽集(アンサンブル・1700・ルンド/カールソン)

ROMAN, J.H.: Drottningholmsmusique (Ensemble 1700 Lund, Karlsson)

このページのURL
イメージ 8

ルーマン・ポートレート(エリクソン/ハルステッド/エーヴァル/シュレーダー/スパーフ)

ROMAN, J.H.: Musical Portrait (A) (Ericson, Halstead, Ohrwall, Schroder, Sparf)

このページのURL
イメージ 9

ルーマン:ロイヤル・ウェディング・ミュージック(ウプサラ室内管/ホールステッド)

ROMAN: Music for a Royal Wedding

このページのURL
イメージ 10

ルーマン:3つのヴァイオリン協奏曲集/3つのシンフォニア(スパーフ/オルフェウス室内アンサンブル)

ROMAN: 3 Violin Concertos / 3 Sinfonias

このページのURL
イメージ 11

ルーマン:ヴァイオリン協奏曲/ラーション:小セレナード/コントラバス協奏曲(バーリン/オッソイナーク/オルフェウス・フィルハーモニー室内アンサンブル)(1965)

ROMAN, J.H.: Violin Concerto / LARSSON, L.-E.: Little Serenade / Double Bass Concertino (Berlin, Ossoinak, Filharmonins kammarensemble Orfeus) (1965)

このページのURL
イメージ 12

ルーマン:協奏曲集(カメラータ・ルーマン)

ROMAN, J.H.: Solo Concertos (Camerata Roman)

このページのURL
イメージ 13

ルーマン:12のフルート・ソナタ(フィッシャー/ブラント/ベルベン)

ROMAN, J.H.: 12 Flute Sonatas (V. Fischer)

このページのURL
イメージ 14

ルーマン:序曲 ト短調/モーツァルト:ディヴェルティメント K. 136(ストックホルム・アンサンブル/リリェフォシュ)

ROMAN, J.H.: Overture in G Minor / MOZART, W.A.: Salzburg Symphony No. 1 (Musik på slottet) (Stockholm Ensemble, Liljefors)

このページのURL
イメージ 15

ルーマン:ソナタとアッサッジョ(シュレーダー/ソンライトナー)

ROMAN: Sonatas and Assaggi

このページのURL
イメージ 16

ルーマン:トリオ・ソナタ(2つのリコーダー、ファゴットとチェンバロ編)(アンサンブル・ドゥルチス・イン・フンド)

ROMAN, J.H.: Trio Sonatas (arr. for 2 recorders, bassoon and harpsichord) (Ensemble Dulcis in Fundo)

このページのURL
イメージ 17

ルーマン:トリオ・ソナタ第6番/モーツァルト:フルート四重奏曲第1番/オーボエ四重奏曲/J.C. バッハ:五重奏曲 W. B73 (ストックホルム・チェンバー・ソロイスツ)

ROMAN, J.H.: Trio Sonata No. 6 / MOZART, W.A.: Flute Quartet No. 1 / Oboe Quartet / BACH, J.C.: Quintet, W. B73 (Stockholm Chamber Soloists)

このページのURL
イメージ 18

ルーマン:トリオ・ソナタ集(ケンタラ/ソネリー)

ROMAN, J.H.: Trio Sonatas (Kentala, Trio Sonnerie)

このページのURL
イメージ 19

ルーマン:フルート・ソナタ第1番 - 第12番(バニア/モーテンセン)

ROMAN, J.H.: Flute Sonatas Nos. 1-12 (Bania)

このページのURL
イメージ 20

ヘンデル/モンテヴェルディ/パーセル/ボイス/リンドベルイ:トランペット作品集(ジャンジュリオ)

Trumpet Recital: Giangiulio, Richard - HANDEL, G.F. / MONTEVERDI, C. / PURCELL, H. / BOYCE, W. / LINDBERG, O. (Music for Ceremony and Celebration)

このページのURL
イメージ 21

MUSICAL SETTINGS OF THE POETRY OF CARL MICHAEL BELLMAN

このページのURL
音楽ブログ へ
人気ブログランキングへ


ユーハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman)Ⅱ

$
0
0
イメージ 1

ユーハン・ヘルミク・ルーマン(Johan Helmich Roman)

1730年(36歳)にルーマンは結婚したものの、4年後に妻は死去した。1734年、スウェーデンを離れ、オーストリア・イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの各国を旅行した。ストックホルムに戻ったのは1737年になってからで、多くの作曲家の貴重な作品を持ち帰って、王宮礼拝堂で演奏した。1738年再婚した。1740年、新しく設立された王立科学アカデミーの会員に選ばれた。

ルーマンの成功続きの経歴も、1740年代に入ると翳りを見せ始める。最大のパトロンであったスウェーデン女王ウルリカ・エレオノーラが1741年の末に死去したからである。また1742年(48歳)に入るとルーマンの活動は健康問題で妨げられるようになった。1744年には彼の代表作の一つ 《ドロットニングホルムの音楽》 と呼ばれる曲集を作曲した。これは24の楽章からなる組曲で、のちのスウェーデン国王アドルフ・フレドリクとプロイセン王女ロヴィーサ・ウルリカが1744年8月に婚礼を挙げた時の祝宴の音楽である。

しかし皮肉なことに、この二人のおかげでルーマンの経歴はさらに翳っていく。新しい妃には音楽の趣味がなく、夫は礼拝堂の運営をきわめて厳しくしたからである。そしてこの年、2番目の妻までもが亡くなり、彼には5人の子どもたちが残された。

1745年(51歳)、この数年間に急速に進んでいた聴力の衰えが激化してルーマンは王宮礼拝堂の楽長を退いた。南西スウェーデンのカルマル市に近いリスビー郡に落ち着く。1751年から翌年にかけて一度ストックホルムを訪れて先王フレドリク1世の葬礼と新王アドルフ・フレドリクの戴冠の音楽を指揮した以外、晩年はヨーロッパ各国の論文をスウェーデン語に翻訳し、宗教的なテキストをスウェーデン語に置き換える作業に明け暮れた。

1758年(64歳)、リスビー郡の自宅でルーマンは亡くなった。それ以来、彼の作品は忘れられることなく、死の9年後、作品を保存している王立科学アカデミーが追悼式典を行った。ルーマンの作品は1810年以降、草稿の形で発見され続けている。

作品

おそらく最も有名な作品は、《ドロットニングホルムの音楽》、これに次いで有名なのが、「ドロットニングホルムの小音楽」 の別名もある 《組曲ニ長調》 である。無伴奏ヴァイオリンのための作品集やトリオ・ソナタ、チェンバロ組曲も残している。

ルーマンの作品は、イングマール・ベングトソンによって分類・整理されていて、器楽曲は BeRI 番号、声楽曲は Ro 番号で呼ばれる。


イメージ 2

ルーマン:リコーダー・ソナタ第1番 - 第5番(ラウリン/パラディソ・ムジカーレ)

ROMAN, J.H.: Recorder Sonatas Nos. 1-5 (Laurin, Paradiso Musicale)

このページのURL
イメージ 3

ルーマン/アグレル:ハープシコード・ソナタ集(ノーデンフェルト)

ROMAN, J.S. / AGRELL, J.J.: Harpsichord Sonatas (Nordenfelt)

このページのURL
イメージ 4

ルーマン:アッサッジョ(チャバ)

ROMAN, J.H.: Assaggios (Csaba)

このページのURL
イメージ 5

ルーマン:チェンバロ・ソナタ(組曲)第1番 - 第12番(エクベリ)

ROMAN, J.H.: Keyboard Sonatas (Suites) Nos. 1-12 (Ekberg)

このページのURL
イメージ 6

ルーマン:チェンバロ・ソナタ第8番 - 第12番(パラディソ)

ROMAN, J.H.: Harpsichord Sonatas Nos. 8-12 (Paradiso)

このページのURL
イメージ 7

ルーマン:チェンバロ作品全集(ヌーデンフェルト)

ROMAN: Complete Music for Harpsichord

このページのURL
イメージ 8

ルーマン/テレマン/J.S. バッハ/マルティノン/バツェヴィッツ:ヴァイオリン作品集(シムチンスカ)

Violin Recital: Szymczynski, Wieska - ROMAN, J.H. / TELEMANN, G.P. / BACH, J.S. / MARTINON, J. / BACEWICZ, G. (Ensam violin)

このページのURL
イメージ 9

ルーマン/ニューストレム/ラングストレム/ステンハンマル:ピアノ作品集(カイロ)

Piano Recital: Kyro, Risto - ROMAN, J.H. / NYSTROEM, G. / RANGSTROM, T. / STENHAMMAR, W. (Swedish Piano Music)

このページのURL
イメージ 10

ルーマン:チェンバロ・ソナタ第1番 - 第7番(パラディソ)

ROMAN, J.H.: Harpsichord Sonatas Nos. 1-7 (Paradiso)

このページのURL
イメージ 11

ロマン:チェンバロのための12の組曲(ペイン)

ROMAN: 12 Suites for Harpsichord

このページのURL
イメージ 12

ルーマン:歌曲集(リュデーン/ガフヴァルト/スパーフ)

ROMAN: Songs

このページのURL
イメージ 13

ルーマン:世俗カンタータ集(マロシュ/シラジー/カペラ・サヴァリア/ネーメト)

ROMAN, J.H.: Secular Cantatas (Maros, Szilágyi, Capella Savaria, Németh)

このページのURL
イメージ 14

ルーマン:カンタータ「ユビラーテ」/「婚礼の音楽」/「フレードリク1世の葬送音楽」/「テ・デウム」(エリクソン)

ROMAN, J.H.: Jubilate / Brollopsmusik / Begravningsmusik over Fredrik I / Te Deum (Cantatas) (Ericson)

このページのURL
イメージ 15

18世紀スウェーデンの音楽

18TH CENTURY SWEDEN IN MUSIC

このページのURL
イメージ 16

アルブリーチ/リッター/ルーマン:宗教音楽集

Sacred Music - ALBRICI, V. / RITTER, C. / ROMAN, J.H. (From Cloister to Cluster: Music in Swedish Churches from the Middle Ages to Modern Times)

このページのURL
イメージ 17

スウェーデンの言葉 1900-1950年の合唱団選集

SWEDISH TONGUES - An Anthology of Choirs (Collector's Classics, Vol. 9:I-V - Choirs of Sweden) (1900-1950)

このページのURL
イメージ 18

スウェーデンのチェロ作品集(リードストレム/フォシュベリ)

SWEDISH CELLO SONATAS

このページのURL
イメージ 19

オルガン・メディテーション(シェベスティエン)

ORGAN MEDITATION

このページのURL
イメージ 20

レース/ルーマン/アグレル/リュリ/ルッフォ:バロック室内楽作品集(北欧バロック四重奏団)

Chamber Music (Baroque) - RAEHS, M. / ROMAN, J.H. / AGRELL, J.J. / LULLY, J.-B. / RUFFO, F. (Nordic Baroque Quartet)



恐怖分子[揚徳昌(エドワード・ヤン)/台湾/1986]

$
0
0
イメージ 1

恐怖分子[揚徳昌(エドワード・ヤン)/台湾/1986]




イメージ 2

エドワード・ヤン(Edward Yang / 楊昌、1947年11月6日 - 2007年6月29日)は台湾の映画監督・脚本家。

生涯

1947年、上海に生まれ、2歳のときに家族で台北に移住した。ロックと手塚治虫に影響されて育った。台湾の国立交通大学で電気工学を学び、次いでフロリダ大学で計算機工学の修士号を所得したが、やがて映画製作に興味を持ち南カリフォルニア大学に入学。しかしすぐに中退し、しばらくアメリカで電気関係の仕事についていた。

1981年に台湾に帰国後、日本を舞台とした余為政監督のデビュー作『一九〇五年的冬天』で脚本と製作助手を担当し、映画界入り。同年、シルビア・チャンが企画したテレビドラマ・シリーズ『十一個女人』の1話「浮萍」の監督に起用され、1982年に新人監督4人によるオムニバス映画『光陰的故事』の第2話「指望」で映画監督デビュー。

1983年、初長編映画『海辺の一日』でヒューストン映画祭グランプリを受賞。以後、1985年に『幼馴染み タイペイ・ストーリー』、1986年に『恐怖分子』、1991年に『牯嶺街少年殺人事件』、1994年に『エドワード・ヤンの恋愛時代』、1996年に『カップルズ』を監督。侯孝賢とともに台湾ニューシネマを代表する一人となった。

2000年の『ヤンヤン 夏の想い出』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。同作完成のころから癌を患い、その後7年ほど闘病生活を続けていたが、2007年6月29日、結腸癌による合併症のためアメリカ・カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。59歳だった。

闘病中もジャッキー・チェン製作総指揮で初のアニメ映画『追風』に着手していたが、数分間の断片を残したのみに終わった。1990年代半ばには『如果』『成長季節』など舞台劇も演出した。

主な監督作品

光陰的故事 《光陰的故事》In Our Time(1982年)109分 第2話「指望」(新人若手監督4人の演出による4話構成のオムニバス作品。監督:タオ・ドゥーツェン、エドワード・ヤン、クー・イーチェン、チャン・イー)

海辺の一日 《海灘的一天》That Day, on the Beach(1983年)167分

幼馴染み タイペイ・ストーリー 《青梅竹馬》 Taipei Story(1985年)110分

恐怖分子 《恐怖份子》 The Terrorizers(1986年)
牯嶺街少年殺人事件 《牯嶺街少年殺人事件》 A Brighter Summer Day(1991年)

エドワード・ヤンの恋愛時代 《獨立時代》 A Confucian Confusion(1994年)

カップルズ 《麻將》 Mahjong(1996年)

ヤンヤン 夏の想い出 《一一》 Yi Yi(2000年)

監督以外

冬冬の夏休み(1984年)出演・音楽

関連項目

瞿友寧:『牯嶺街少年殺人事件』に参加した。

脚注
関連文献

第29回ぴあフィルムフェスティバルにおける「エドワード・ヤン追悼企画」

外部リンク


2000 Yan Yan - Natsu no omoide

1996 Kappuruzu

1994 Edward Yang no Renai Jidai

1992 Likely Consequence

1991 Kûrinche Shônen Satsujin Jiken
1991 Hai tan de yi tian

1986 Kyôfu bunshi

1985 Qing mei zhu ma
1982 Guang yin de gu shi

監督エドワード・ヤン未完の最終的な遺作 - 群れサンプル





死を刻んだ男 ― 20年後[エドゥアルド・クーティーニョ(Eduardo Coutinho)ブラジル/1984]

$
0
0
イメージ 1

死を刻んだ男 ― 20年後[エドゥアルド・クーティーニョ(Eduardo Coutinho)ブラジル/1984]

ブラジル/1984/ポルトガル語/カラー、モノクロ/Blu-ray(原版:35mm)/119分

監督:エドゥアルド・コウチーニョ
助監督:ヴラディミール・カルヴァーリョ
撮影:フェルナンド・ドゥアルテ、エドゥガー・モウラ
編集:エドゥアルド・エスコレル
音楽:ロジェリオ・ロッシーニ
ナレーション:フェフェイラ・グラール、チテ・デ・レモス
エグゼクティブ・プロデューサー:レオン・イルズマン、ゼリット・ヴィアーナ
配給:Mapa Filmes

【作品解説】エドゥアルド・コウチーニョは、1964年に監督したオリジナルの『死を刻んだ男 ― 20年後』で、農民のリーダー、ジョアン・ペドロ・テイシェイラが地主の命により殺害された事件を題材に、実在の農民たちを俳優として起用し、フィクションとして物語を伝える予定であった(ジョアン・ペドロの未亡人であるエリザベッチも出演している)。しかし同年のクーデターによって撮影は中断し、多くの農民だけでなく映画スタッフからも逮捕者が出た。17年後、コウチーニョは現地に戻り、当時の出演者との関係修復に奔走した。そして未完成の劇映画は、脚本や既成概念のない新しい形のドキュメンタリーとなっていく。

 この作品は複合的なモンタージュである。監督自身の一人称的な記憶と淡々としたナレーションに、「客観的な」数字と日付の情報を加えながら、過去の異なる記録素材を結んでいく詩人グラールの語りが挿入される。記録素材のなかには、現像所で見つかったオリジナル版のフッテージやメディアの記録、当時出演した農民たちが81年に語った、60年代の生活、政治の変転がもたらした衝撃に関するインタビューなどが含まれる。

 本作は、ブラジルの社会派ドキュメンタリーの流儀、現代のドキュメンタリー映画の美学、そしてテレビ報道の手法といった異なる方法を取り入れ、60年代から70年代のブラジリアン・シネマと政治の関係を凝縮して表現しており、ブラジルのドキュンタリーにおける分岐点とされる。それまで活発だったブラジリアン・シネマの時代を終わらせ、現代映画的な特徴を携え、創意に富む異質な手法で審美的な表現をもたらすと同時に、国家の政治問題も組み込んでいる。

 84年の『死を刻んだ男 ― 20年後』の公開から約30年を経て制作した『ガリレイアを生き抜いた人々』と『エリザベッチ・テイシェイラの家族』で、コウチーニョはエリザベッチや農民たちを探しに現地へ戻る。この2作品は2014年に亡くなったコウチーニョが最後に編集したドキュメンタリーである。そこに描かれているのは、テイシェイラ家の悲劇的な宿命によって暴かれるブラジルの社会的暴力と、そのキャリアの始まりから終りまで、この家族と関わることになった監督の宿命である。

コンスエロ・リンス(映画研究)







イメージ 2

エドゥアルド・コウチーニョ(Eduardo Coutinho)

誕生 5月11日のの1933年 (83年)、サンパウロ、SP
国籍 ブラジル人
死 2月2日のの2014年 (80年)リオデジャネイロ、RJ
職業 監督、ドキュメンタリー作家、ジャーナリスト
その他の賞
Festroiaゴールデンドルフィン
1985

エドゥアルド・デ・オリベイラコウチーニョ(サンパウロ、月の11の1933 - リオデジャネイロ、2月の2の2014)であった映画監督とジャーナリストのブラジル。これは、最大の一つとして多くの人に考えられている映画監督の歴史の中で映画館ブラジル。[ 1 ] [ 2 ] [ 3 ]

私は。ブランドは普通の人の話を支持フィルムを製造するように持っていた[ 2 ] [ 4 ] [ 5 ]彼の傑作がされてヤギが死ぬようにマーク、ブラジルの大手documentarianとして彼のキャリアをマークしています。彼のキャリアの他の優れた作品の中でドキュメンタリーであるサント・フォルテ、マスタービル、歩行者、シーンのゲームや歌。

伝記

Paulistano、エドゥアルド・コウチーニョが19で月1933年に生まれた、彼は勉強する教員に参加した法律を、しかし、学位を完了しませんでした。[ 6 ]彼はと彼の最初の接触があった中で、1954年に映画を主催のセミナーMASPとマルコスマーグリーズによって指示します。[ 要出典 ]その年も、彼はとして働き始めた雑誌に校正者とコピーエディタビジョン、彼は1957年まで開催されたポストを[ 6 ]彼は子供用のプレイ向かうパッと消える、フレンドリーゴーストによって書かれた、マリア・クララマチャドを。質問に答えるテレビのコンテスト優勝し賞金を獲得した後、チャールズ・チャップリンを、コウチーニョはに移動し、パリ勉強し、1957年にも、方向およびアセンブリをでIDHEC彼は彼の最初のドキュメンタリーを作った、。[ 2 ]

彼は1960年にブラジルに戻り、参加者の文化のセンターの学生の国民連合。監督の中核となるのは、チコ・デ・アシス、組立部品に取り組んで私たちの日中Mutirãoで開催された農業労働者の最初の会議で発表され、ベロオリゾンテで1962。[ 7 ]同時に、名前と接触したシネマ・ノーヴォとして、レオンHirszmanとジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ、および生産管理された長編のエピソード5倍ファヴェーラ、 CPCと動きのランドマークによって生成された第1のフィルムを。[ 6 ]財源を管理するための任意の親和性を持っていないにも関わらず、受け入れ招待状には、あなたがのためにUNEヴォランテと一緒に旅行に提供北東。この旅行で、コウチーニョはラリーエリザベス・テイシェイラ、の未亡人のリーダー撮影農民リーグ ・テイシェイラの町でSAPEを、そしてこの材料は与えた引数フィルムの最初のバージョンのカブラがダイにマークを。[ 8 ]プロジェクトは、これまでのだろう俳優や女優が農民自身内Engenhoガリラヤ、あったとして持つフィクション映画を作りたかった若い映画監督の中で最も重要なペルナンブコ自体を解釈するジョンピーター、エリザベス・テイシェイラの未亡人を含む)は、。[ 2 ] [ 7 ]フィルムは、撮影の2週間を持って来たが、と1964年の軍事クーデター、チームはの理由で逮捕された共産主義のほぼ二十年のためのフィルムの制作を中断し、残りの分散します。[ 2 ] [ 6 ]

でも1960年代に、コウチーニョはレオンHirszmanとで構成マルコスファリア、プロデューサー佐賀作品。これは、映画の脚本だった故人(1965)とイパネマの娘(1967)、Hirszmanの両方と向かう長編映画規約、フィルムのエピソード恋のABC(1966)、および世界を買った男(1968)、後者は次長であった。[ 6 ]

1970年代初頭、コウチーニョはとしてジャーナリズムに戻って生活費を稼ぐための手段とするためのレビューや映画評論家を務めているJornalブラジルを行う。[ 8 ]で、これは生存の彼らの主要な手段ではありませんでしたが、同時に、フィルムに残りました。適応監督シェイクスピアのにhighwaymanの複数形文字れるブラジル、ファルスタッフはなったFaustão(1971)。また、このような長いよう国民生産の署名スクリプト、継続的な惨めなのZelitoビアナ(1973)、レッスン愛のエドゥアルドEscorel(1975)とドナフロールと彼女の二夫のブルーノ・バレット(1976)。

1975年に、コウチーニョはプログラムチームへの招待受け入れグロボレポーターの、ヘジ・グローボを、国が下にあったように機会として、その時点で提供されるテレビは、ドキュメンタリー言語より社説自由を動作させることが金融の安定の両方を魅了しました検閲軍事政権は。[ 8 ]で撮影されたプログラムでは16ミリメートル、コウチーニョは結局として、とりわけ、テレビ映画で彼のドキュメンタリー職業を開発したセラTalhadaの殺し屋(1976)、六日Ouricuri中(1976年)と、テオドリックワイルドの皇帝(1978)、Potiguar政治指導者に後者テオドリックBezerra。[ 7 ]

では1981年、コウチーニョは負の再発見死ぬマークヤギスタッフのメンバーが警察から隠れていたし、プロジェクトを再開することを決めた。[ 7 ]彼はその後、ドキュメンタリーのためにオリジナルデザインのフィクション映画を変更することを決めましたフッテージの中断やフィルムの俳優であろう人々の実際の生活に。で達成金融の安定のおかげグロボReporterが、それは彼自身のリソースを持つフィルムの資金を調達することができ、3年の間、彼は1964年バージョンの俳優や彼らと記録のインタビューを見つけるために、北東にグローブによって動作するように旅行を取りました。[ 6 ]。ヤギをダイにマークが完成し、1984年にリリースされ、国際的な批判の賞を含む国際映画祭、で12の賞を受賞したベルリン映画祭で、最高のフィルム・フェスティバル・デュ・リール。[ 6 ]

成功した後、死のためにマークヤギ、コウチーニョは映画に独占的に専念するためにグローブレポーターを辞任した。[ 8 ]次の15年間で、映画制作者は、膜のみを生き残るために苦労し、そのためのスクリプトを方向付けまたは書面企業ビデオ。彼は(市民権と教育に関するテーマで)人気画像作成センターに行きましたとのドキュメンタリーシリーズ用のスクリプトを書いたMancheteに汚染に(例えば、「ブラジルの映画館の90年」とし、「サバイバルの方法」、後者サンパウロ)。その期間にわたって映画制作に課せられた資金調達の難しさと、コウチーニョはドキュメンタリーショートやミディアム丈ローインパクト、の間で行わモロで2週間-サンタマルタ(1987年)、ボルタレドンダ-記念ストライク(1989 )ガベージ口(1993)とフロントの女性たち(1996年)。彼の長編映画は、その期間にあったワイヤメモリ(1991)。彼はまた、1994年に行わ巡礼者パドレシセロは、ドイツのテレビZDFアートと結果によって資金を供給ドキュメンタリーがコウチーニョ自身が悪いと考えられていたし、彼はそれが著作権のドキュメンタリーを作る放棄し、発注機関のビデオの生産から生きるべきだと信じていた。[ 8 ]

1997年には、コウチーニョは研究「ブラジルのアイデンティティ、「一連のプログラムを行うために雇われたTVEであろう10異なるテーマに近づき、国のさまざまな部分での研究と記録を伴うが。プロジェクトは、録音前に終了しているが、映画制作者はについての映画を作るために考えていた宗教をし、に助けを求めたホセ・カルロスAvellarの最高経営責任者(CEO)、その後、RioFilmeドキュメンタリーに資金を供給するために。[ 8 ]コストで30万レアルと人気の画像創造センターの仕事と生産の約2年間は、コウチーニョが起動サントフォルテを 1999年に[ 9 ]

そこから、コウチーニョのキャリアはして再び生まれ変わり、彼は定期的に従業員に仕事に行きましたし、また、一定のフィルムの生産を維持するためにVideoFilmesプロデューサーとのパートナーシップのおかげで、管理することによってドキュメンタリー作家ジョアン・モレイラ・サレスとの友情の強い絆を開発し、サンパウロの映画監督、有効にするためにあなたを支援し、2000年と2011年の間に行われ、その次の7ドキュメンタリーの製造に巻き込ま[ 8 ]

これら11の間に、コウチーニョを3回受賞したグラマード祭フィルムサントフォルテ'と マスタービル生涯の達成のため、プラスKikitoクリスタルを、二回のためのブラジリアの祭フィルムによってサント・フォルテと ポーン、カウントされません最大のブラジルのドキュメンタリー作家活動として批評家の認識。[ 8 ] 2013年に、80周年は、コウチーニョがで表彰されたパラチ国際文学祭とサンパウロ国際映画祭。[ 10 ]

2014年2月には、コウチーニョはの公立学校から青少年をインタビューしたドキュメンタリー締めくくっリオデジャネイロ彼は苦しんだ彼自身の息子で彼のアパートで刺殺されたときに、統合失調症を。[ 2 ] [ 11 ] [ 12 ]で彼の暗殺の同じ年には、映画監督が授賞式で受賞した2014年にオスカー。[ 13 ]

年代順に、ビデオで彼の最後の外観はしていた7訪問、ダグラス・ドゥアルテ。[ 14 ] [ 15 ]だけによって完成彼の最後の作品ジョアン・モレイラ・サレス、命名された最新の会話をし、祭で2015年に発売されたそれはすべて本当です。[ 16 ]

フィルモグラフィー

フィクションの特徴:

1966:協定(エピソード長い愛のABC)
1968:世界を買った男

1970: Faustão

ロングドキュメンタリー


1987:サンタマルタ-丘の上の二週間(中長)54分。[ 17 ] [ 18 ]
1989:ボルタレドンダ、記念ストライク(ミディアム丈)39分。[ 19 ]
1992:法とライフ(中長)(の保護に関する環境における1988年のブラジル憲法)[ 4 ]。
1993:ガベージ口(中長)50分。住んでいる人々についてのゴミ捨て場[ 20 ] [ 21 ] [ 22 ]。
1994:巡礼者パドレシセロ。(中長)37分[ 23 ] [ 24 ]
1995:シックス・ストーリー(中長)
1996:フロントの女性たち(中長)35分。-女性の役割に関する社会運動[ 25 ] [ 26 ]
2000:Porrada(短編映画)

グローブReporterのトップストーリー:


2015 Ultimas Conversas (Documentary)

2011 As Canções (Documentary)

2010 Um Dia na Vida (Documentary)

2009 Moscou (Documentary)

2007 Jogo de Cena (Documentary)

2006 O Fim e o Princípio (Documentary)

2004 Peões (Documentary)

2002 Edifício Master (Documentary)

2000 Porrada (Documentary short)
1999 Babilônia 2000 Babilônia 2000 (Documentary)

1999 Santo Forte (Documentary)

1993 Boca de Lixo (Documentary)

1991 O Fio da Memória (Documentary)

1987 Santa Marta - Duas Semanas no Morro (Documentary)

1984 Cabra Marcado Para Morrer (Documentary)

1979 Exu, Uma Tragédia Sertaneja (Short)

1978 Teodorico, o Imperador do Sertão (Documentary)

1976 Seis Dias de Ouricuri (Documentary short)

1971 Faustão

1968 O Homem Que Comprou o Mundo

1967 El ABC del amor

エリザベス・テイシェイラファミリー(エドゥアルド・コウチーニョ、2014)



ルリエ-アルトゥール・ルリエ - Arthur Lourie (1892-1966)

$
0
0
イメージ 1

ルリエ-アルトゥール・ルリエ - Arthur Lourie (1892-1966)

アルトゥール・ルリエー(本名アルトゥール・セルゲイェヴィチ・ルリイェ Artur Sergeyevich Lur'ye 〔ロシア語:Артур Сергеевич ЛУРЬЕ 〕、1892年5月14日、スラウハラド – 1966年10月12日)はロシア出身の作曲家。1920年代には名実ともにソ連楽壇における指導的作曲家の一人として、スクリャービン後の前衛音楽の可能性を追究した。後にドイツ、フランス、アメリカ合衆国へと亡命し、ストラヴィンスキーの影響のもとに新古典主義音楽の信奉者となった。フランス時代にカトリックに帰依し、後半生にはアルテュール(=ヴァンサン)・ルリエ(Arthur[-Vincent] Lourié)と名乗った。代表作であり、草創期のグラフィック・スコアの一つと呼ばれる《大気のかたち Formes en l'Air 》がパブロ・ピカソに献呈されているように、ルリエは同時代の美術に通暁しており、改宗後のミドルネーム「ヴァンサン」は、ゴッホの洗礼名にちなんでいる。

生涯

1892年5月14日にペテルブルクにおいてセファルディ系ユダヤ人の富豪の家庭に生れる。音楽はほとんど独学であったが、ペテルブルク音楽院に入学してピアノをバリノヴァに、作曲をグラズノフに師事し、1913年に卒業。未来派の詩人グループと親交を持ち、とりわけアンナ・アフマートヴァの詩に好んで作曲した。ルリエの最初の歌曲もアフマートヴァの詩に曲付けされた。ほかに、マヤコフスキー、ニコライ・クルビン、フョードル・ソログープ、アレクサンドル・ブロークらとも交流して、同時代の諸芸術に深く影響された。1908年以降に作曲された初期作品は、スクリャービンの後期様式に倣っていたが、やがて新たな種類の書法を発展させ、1914年にピアノ曲《合成 Synthèses 》において一種の12音技法にたどり着き、1915年の《大気のかたち》において、新しい記譜法が試みられている。小節線やブレースによって連結されないさまざまな譜表が、ページの中にそれぞれ独立した塊として点在し、かなり長めの休止がある場合には、全休符の代わりに空白が利用されている。この時点において、美学的な違いはあったにせよ、ルリエはニコライ・ロスラヴェッツと並び立つ存在になっていた。実質的にルリエは最初の未来主義の作曲家であり、画家のゲオルギー・ヤクーロフや詩人のベネディクト・リフシッツとともに、ペテルブルクの未来派宣言「我々と西欧」において共同声明を発し、音楽と美術と詩に共通する原理を宣告した。

1917年にロシア革命が成功すると、ルリエはルナチャルスキー直属の部下として、民衆教育相の音楽部門に人民委員として名を連ねた。当初は左翼に共感を寄せていたものの、次第にロシアにおける新秩序に幻滅するようになった。1921年に公務としてベルリンに出張してブゾーニの知遇を得、そのままついに帰国しなかった。その後ソ連においてルリエーの作品は禁止された。1922年にパリに定住し、哲学者ジャック・マリタンと親交を結び、また旧友セルゲイ・スデイキンの夫人ヴェーラによって、ストラヴィンスキーを紹介された。ルリエは1924年から1931年まで、ストラヴィンスキーの最も重要な擁護者の一人となり、しばしばストラヴィンスキー宅に寄食して、その作品のピアノ譜を作成したり、ストラヴィンスキーに関する論文を執筆した。しかしストラヴィンスキーとは、ヴェーラとのいさかいがもとで次第に不和となり、ストラヴィンスキーはその後めったにルリエの存在について口にすることがなくなった。

パリ時代のルリエ作品は、初期の急進主義から、新古典主義音楽の渋みのある表現形式やロシア贔屓のノスタルジーに転向した。同時期のストラヴィンスキーとの交渉の結果は歴然としており、ある程度まではルリエがストラヴィンスキーに影響を与えたかもしれない。ルリエの《小室内音楽》(1924年)はストラヴィンスキーの《ミューズを率いるアポロン》(1927年)を、合唱とピアノ、管弦楽のための《霊的協奏曲 Concerto spirituale 》(1919年)は、ストラヴィンスキーの《詩篇交響曲》(1930年)を予言している。ルリエはこのほかに、2つの交響曲(そのうち第1番は《対話風 Sinfonia dialectica 》の副題つき)や、歌劇《黒死病の時代の饗宴》を作曲している。ダンディ(伊達男)の洗練されたイメージや美学を備えた教養人として、サッフォーやプーシキン、ハイネ、ヴェルレーヌ、ブローク、マヤコフスキー、ダンテのほか、古代ローマや中世フランスの詩人の作品にまで曲付けを行なった。また才能ある画家としても活動した。

アメリカ時代

ナチス・ドイツが1941年にパリを蹂躙すると、ルリエはアメリカ合衆国に逃れて、セルゲイ・クーセヴィツキーの支援を受けた。ニューヨークに到着すると、いくつか映画音楽を手がけたものの、そのほかの作品が演奏される機会にほとんど恵まれないまま、作曲活動を続けた。10年以上もの歳月を費やして、プーシキンの祖先にちなんだ歌劇《ピョートル大帝の黒いムーア人》を作曲する。これは今まで上演されたことがないものの、珠玉のような組曲版は録音された。T.S.エリオットの詩に基づく歌曲《 Little Gidding 》は、1959年にテノールと器楽伴奏のために作曲された。1966年10月12日にニュージャージー州プリンストンにて他界。

再評価

作曲者の死後、ほぼ四半世紀にわたってその名と作品が忘れられてきたが、ギドン・クレーメルによって《小室内音楽》が復活されたのが皮切りとなり、ドイツやイタリア、ペレストロイカ時代のソ連において、《大気のかたち》の復活演奏が相次いだ。これまでにいくつかのピアノ曲や歌曲、室内楽曲がロシアやヨーロッパで録音されたほか、《大気のかたち》の出版譜が復刻されている。

参考項目・外部リンク




イメージ 2

ルリエ:ピアノ作品全集 1 (コウクル)

LOURIÉ, A.: Piano Works (Complete), Vol. 1 (Koukl)

このページのURL
イメージ 3

ルリエ:ピアノ小品と編曲集(ケーレン)

LOURIE, A.: Piano Pieces and Arrangements (Koehlen)

このページのURL
イメージ 4

ルリエー:Chyotki/Golos muzi/クアジ・ヴァルス/2つのマズルカ(ゲルシモヴァ/ロシア室内合唱団)

LOURIÉ, A.: Chyotki / Golos muzi / Quasi valse / 2 Mazurkas (Gerassimova, Russian Chamber Choir)

このページのURL
イメージ 5

ルリエー/フェインベルク/ウェプリック/プロコフィエフ/サミンスキー/アクロン:ピアノ作品集(ネムツォフ)

Piano Recital: Nemtsov, Jascha - LOURIE, A. / FEINBERG, S. / WEPRIK, A. / PROKOFIEV, S. / SAMINSKY, L. / ACHRON, J.

このページのURL
イメージ 6

ザデラツキー/ルリエー/ショスタコーヴィチ:ロシアの歌曲集(ヴェレーナ)

Vocal Recital: Rein, Verena - ZADERATSKY, V.P. / LOURIE, A. / SHOSTAKOVICH, D. (Russian Songs)

このページのURL
イメージ 7

ミャスコフスキー/ローリー/シェバリーン/グレチャニノフ:声楽作品集(シキルティル)

Vocal Recital: Shkirtil, Lyudmila - MYASKOVSKY, N.Y. / LOURIE, A.S. / SHEBALIN, V.Y. / GRETCHANINOV, A.T. (Viacheslav Ivanov in Music)

このページのURL
イメージ 8

クラシカル・コレクション - エッセンシャル・モダン

CLASSICAL COLLECTION - The Essential Moderns (Benedetti, Tilbury, McCreesh, Bernas, Boulez, Cleobury)

このページのURL
イメージ 9

ヴィトマン/細川俊夫/ベリオ/ライマン/ルリエー/デニーソフ/ヨアヒム/ゲール/プスール:無伴奏クラリネット作品集(ブルンナー)

Clarinet Recital: Brunner, Eduard - WIDMANN, J. / BERIO, L. / JOLIVET, A. / DENISOV, E. / GOEHR, A. / HOSOKAWA, T. / REIMANN, A.

このページのURL
イメージ 10

ヴェプリク/ルリエ/アクロン/クレイン:ピアノ作品集(ディスカヴァリング・ロシア 1910-1940, Vol. 3 - ウェイティング・ルーム)(ネムツォフ)

Piano Recital: Nemtsov, Jascha - VEPRIK, A.M. / LOURIÉ, A. / ACHRON, J. / KREIN, A. (Discovering Russia 1910-1940, Vol. 3: Waiting Room)

このページのURL
イメージ 11

ストラヴィンスキー:ピアノ作品集(ジョーンズ)

STRAVINSKY, I.: Piano Music (Jones)

このページのURL
イメージ 12

ドビュッシー/シューマン/グラズノフ/チャイコフスキー/フォーレ:ピアノ作品集(ジェニー・リン)

Piano Recital: Lin, Jenny - DEBUSSY, C. / SCHUMANN, R. / GLAZUNOV, A.K. / TCHAIKOVSKY, P.I. / FAURÉ, G. (Night Stories)

このページのURL
イメージ 13

ニールセン/D. スカルラッティ/ハイドン/ブル/オルフ/ディストラー/ジョリヴェ/シベリウス:ピアノ作品集(ヴァイト)

Piano Recital: Veit, Matthias - NIELSEN, C. / SCARLATTI, D. / HAYDN, J. / BULL, J. / ORFF, C. / DISTLER, H. / JOLIVET, A. / SIBELIUS, J. (Micromania)

このページのURL
イメージ 14

メンデルスゾーン/リスト/ブゾーニ/チャイコフスキー:稀少ピアノ作品集(ババヤン/シューコフ/ホーファー/アムラン)

Piano Music - MENDELSSOHN, F. / LISZT, F. / BUSONI, F. (Rarities of Piano Music at Schloss vor Husum) (Berman, Ringeissen, 1992 Festival)

このページのURL
イメージ 15

ルビンシテイン/シチェルバチョフ/デシェヴォフ/ルリエ/ロスラヴェッツ/モソロフ:ピアノ作品集(ロシアン・レアリティーズ)(シツキー)

Piano Recital: Sitsky, Larry - RUBINSTEIN, A. / SHCHERBACHEV, V. / DESHEVOV, V. / LOURIE, A. / ROSLAVETS, N. / MOSOLOV, A. (Russian Rarities)



クローズ・クローズ・アップ (映画)Nema-ye Nazdik (1990)イラン

$
0
0
イメージ 1

クローズ・アップ (映画)Nema-ye Nazdik (1990)イラン



監督 アッバス・キアロスタミ
脚本 アッバス・キアロスタミ
製作 アリレザ・ザリン
撮影 アリレザ・ザリン
編集 アッバス・キアロスタミ
配給 日本の旗 ユーロスペース
公開 カナダの旗 1990年
日本の旗 1995年7月29日
上映時間 100分
製作国 イラン
言語 ペルシア語
テンプレートを表示

『クローズ・アップ』( Nema-ye Nazdik )は、イランの映画製作者アッバス・キアロスタミが監督した1990年公開の映画である。この映画は映画製作者モフセン・マフマルバフに成りきったある男による現実上の試みの物語であり、ある家族を彼の新作映画の出演者であると信じ込ませている。それは巻き込まれた人々を出演させ、人々は自分自身として演じている。人間のアイデンティティに関する映画であり、それにより西側でキアロスタミは評価を高めた。

ナンニ・モレッティの短編映画『イル・ジョルノ・デッラ・プリマ・ディ・クローズ・アップ(英語版)』は、ある映画館主が独立系映画館でキアロスタミの映画を上映する準備をしているところを追っている。

キャスト

ホセイン・サブジアン
ハッサン・ファラズマンド
アボルファズル・アハンカハー
メハダッド・アハンカハー
ハスハング・シャハイ
モフセン・マフマルバフ

外部リンク

イメージ 2

アッバス・キアロスタミ Abbas Kiarostami
本名
生年月日 1940年6月22日
没年月日 2016年7月4日(満76歳没)
出生地 テヘラン
死没地 パリ
国籍 イランの旗 イラン
職業 映画監督、脚本家、写真家
活動期間 1970年 -2016年

主な作品
『友だちのうちはどこ?』
『オリーブの林をぬけて』
『桜桃の味』
『風が吹くまま』

アッバス・キアロスタミ (Abbas Kiarostami、1940年6月22日 - 2016年7月4日[1]) は、イランの映画監督、脚本家、写真家。ペルシア語表記はアッバース・キヤーロスタミーと発音する。イランを代表する巨匠として知られる。


来歴

1940年6月22日、テヘランで生まれる。テヘラン大学芸術学部を卒業後、1970年に短編『パンと裏通り』で映画監督としてデビュー。1973年には初の長編 "Tadjrebeh" を製作した。

以後、『友だちのうちはどこ?』(1987年)、『そして人生はつづく』(1992年)、『オリーブの林をぬけて』(1994年)の三部作を製作して評価を確立した。現代イラン映画を代表する監督となる。1997年には『桜桃の味』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1999年の『風が吹くまま』はヴェネツィア国際映画祭審査員賞特別大賞を受賞した。

2008年には、エクサン・プロヴァンス音楽祭の依頼で、モーツァルト作曲の歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』(クリストフ・ルセ指揮)を演出した。共同制作だったイングリッシュ・ナショナル・オペラでの2009年上演の公演の際には渡英のヴィザが降りず、演出に出向けないということが発覚。そのオペラに出演したウィリアム・シメルと、ジュリエット・ビノシュ共演によるフランス・イタリア合作『トスカーナの贋作』を2010年カンヌ映画祭で発表したが、最優秀女優賞を受賞したビノシュが、監督が会場に来られないことに対しての非難をしたため、イラン国内での公開禁止及びビノシュの入国禁止令を出すという事件[2]が起きた。

2012年には、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で製作した。2016年7月4日、がん治療で訪れていたパリで逝去。76歳没[1][3]。
作風

小津安二郎の影響が至る所で顕著にみられる[4][5][6][7][8][9][10]。キアロスタミは自身で小津ファンを公言しており[11]、小津に捧げる映画作品『5 five ?小津安二郎に捧げる?(英語版)』も制作している[12]。イラン政府の検閲[13][14][15]と妨害[16]により「子供の話なら可」と許可が出て撮影された作品が『友だちのうちはどこ?』である。1979年のイラン革命により多くの作家が出国を余儀なくされたが、キアロスタミはイランに残り、素人役者を起用してまで人間の心を描き出す独自の作風を確立した[14][17]。

作品

長編

Tadjrebeh(1973年)
トラベラー Mossafer(1974年)
Lebassi Baraye Arossi(1976年)
Gozaresh(1977年)
Az Oghat-e Faraghat-e Khod Chegouneh Estefadeh Konim? (1977年)
Ghazieh-e Shekl-e Aval, Ghazieh-e Shekl-e Dou Wom(1979年) ドキュメンタリー
Hamshahri (1983年) ドキュメンタリー
Avaliha(1984年) ドキュメンタリー
友だちのうちはどこ? Khane-ye doust kodjast?(1987年)
ホームワーク Mashgh-e Shab(1989年) ドキュメンタリー
クローズ・アップ Nema-ye Nazdik(1990年) ドキュメンタリー
そして人生はつづく Zendegi va digar hich(1992年)
オリーブの林をぬけて Zire darakhatan zeyton(1994年)
桜桃の味 Ta'm e guilass(1997年)
風が吹くまま Bad ma ra khahad bord(1999年)
ABC Africa(2001年) ドキュメンタリー
10話 Dah (2002年)
?小津安二郎に捧げる?(英語版) Five Dedicated to Ozu(2003年) ドキュメンタリー
10 on Ten(2004年) ドキュメンタリー
シーリーン(英語版) Shirin(2008年)
トスカーナの贋作 Copie conforme(2010年)
ライク・サムワン・イン・ラブ Like Someone in Love(2012年)
  ヴェネツィア70:未来リローデッド(2013年)


短編

パンと裏通り Nan va Koutcheh(1970年)
Zang-e Tafrih(1972年)
Man ham mitounam (1975年)
Dow Rahehal Baraye yek Massaleh (1975年)
Rangha(1976年)
Bozorgdasht-e mo'Allem (1977年)
Rah Hal-e Yek (1978年)
Be Tartib ya Bedoun-e Tartib (1981年)
Hamsarayan (1982年)
Dandan Dard (1983年)
Reperages (1995年) オムニバス『A propos de Nice, la suite』の一篇
キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒 Lumiere et compagnie (1995年) オムニバス
Tavalod-e Nur (1997年)
明日へのチケット Tickets(2005年) オムニバス
White Pages(2005年)
Rug (2007年)
Roads of Kiarostami(2006年) ドキュメンタリー
ロミオはどこ? Where is my Romeo? (2007年) オムニバス『それぞれのシネマ』の一篇
Kojast jaye residan (2007年) ドキュメンタリー
No (2010年) ドキュメンタリー


Director (45 credits)

2016 Victor Erice: Abbas Kiarostami: Correspondencias
2013 Venice 70: Future Reloaded (Short)
2012 Like Someone in Love
2010 No (Documentary short)
2010 Copie conforme
2008 Shirin
2007 Kojast jaye residan (Documentary short)
2007 Chacun son cinema ou Ce petit coup au coeur quand la lumiere s'eteint et que le film commence (segment "Where is my Romeo?")
2006 Roads of Kiarostami (Documentary short)
2006 Rug (Short)
2005 White Pages (Short) (supervisor)
2005 Tickets
2004 10 on Ten (Documentary)
2003 Five Dedicated to Ozu (Documentary)
2002 Dah
2001 ABC Africa (Documentary)
1999 Kaze ga fuku mama
1997 Tavalod-e Nur (Documentary short)
1997 Oto no Aji
1995 Lumiere et compagnie (Documentary)
1995 A propos de Nice, la suite (segment "Reperages")
1994 Oribu no Hayashi o Nukete
1992 Zendegi va digar hich
1990 Nema-ye Nazdik
1989 Mashgh-e Shab (Documentary)
1987 Khane-ye doust kodjast?
1984 Avaliha (Documentary)
1983 Dandan Dard (Short)
1983 Hamshahri (Documentary)
1982 Hamsarayan (Short)
1981 Be Tartib ya Bedoun-e Tartib (Short)
1980 Behdasht-e Dandan (Short)
1979 Ghazieh-e Shekl-e Aval, Ghazieh-e Shekl-e Dou Wom (Documentary)
1978 Rah Hal-e Yek (Short)
1977 Az Oghat-e Faraghat-e Khod Chegouneh Estefadeh Konim? (Short)
1977 Bozorgdasht-e mo'Allem (Short)
1977 Gozaresh (as Abbas Kiorastamu)
1976 Lebassi Baraye Arossi
1976 Rangha (Short)
1975 Dow Rahehal Baraye yek Massaleh (Short)
1975 Man ham mitounam (Short)
1974 Mossafer
1973 Tadjrebeh
1972 Zang-e Tafrih (Short)
1970 Nan va Koutcheh (Short)


監督作品以外

鍵 Kelid (1987年) 脚本
ドキュメント:キアロスタミの世界 Abbas Kiarostami - Verites et songes (1994年) 出演
白い風船 Badkonake sefid (1995年) 脚本
柳と風 Beed-o baad (2000年) 脚本
旅の途中で Farda (2002年) 監修
クリムゾン・ゴールド Talaye sorkh (2003年) 脚

外部リンク





ルクー - ギヨーム・ルクー (Guillaume Jean Joseph Nicholas Lekeu)

$
0
0
イメージ 1

ルクー - ギヨーム・ルクー (Guillaume Jean Joseph Nicholas Lekeu)


ギヨーム・ルクー(Guillaume Lekeu, 1870年1月20日 - 1894年1月21日)はベルギー生まれの作曲家。セザール・フランクの最後の弟子として将来を嘱望されたが、24歳で夭折した。感受性豊かで情熱的な筆致が特徴。

ベルギーのヴェルヴィエ生まれ。6歳からピアノとヴァイオリンを始め、後にチェロも学んだ。1879年、彼が9歳のときに両親とともにフランスのポワティエに移り住み、1885年に当地のリセに進学。リセの物理教師からバッハ、ベートーヴェンの後期作品とワーグナーの音楽を教えられ、彼らの作品に強く惹かれていたという。1888年にパリに出る。翌1889年からセザール・フランクに作曲を師事。フランクが1890年に没した後はヴァンサン・ダンディに師事する。1891年、ダンディの勧めでローマ大賞コンクールに出品したカンタータ『アンドロメダ』でローマ賞第2位となる。しかし1位になれなかったことに落胆したルクーは、受賞を辞退したという。『アンドロメダ』の抜粋をブリュッセルで聴いたヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイはヴァイオリンソナタの作曲を委嘱し、初演も行った(献呈もされた)。同じくイザイから委嘱を受けたピアノ四重奏曲を作曲中に、チフス菌に汚染されたシャーベットを食したために24歳の若さで腸チフスにて没。

作品

ルクーの残した作品は断片なども含めると100余りある。イザイから依頼を受けて作曲したヴァイオリンソナタが特によく知られる。このほか、完成された第1楽章と未完の第2楽章(ダンディが補筆して完成)からなるピアノ四重奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、チェロソナタなどの室内楽やルクー自身も歌詞を書いた多くの歌曲がある。

室内楽曲

弦楽四重奏のための《瞑想》 (1887年)【演奏例】
弦楽四重奏のための《モルト・アダージョ》 (1887年)【演奏例】
弦楽四重奏曲 ト長調 (1888年)【演奏例】
チェロ・ソナタ ヘ長調 (1888年)【演奏例】
ピアノ・ソナタ ト短調 (1891年)【演奏例】
ピアノ三重奏曲 ハ短調 (1890/91年)【演奏例】
ヴァイオリン・ソナタ ト長調 (1892/93年)【演奏例】
ピアノ四重奏曲 ロ短調 (1892/93年、ダンディによって補筆完成)【演奏例】

声楽曲

《実家の窓》
《ひなげし》(1887年)
《小品》(アンダンテ・ソステヌート)
《濃くなる影》(1889年)
《古代の緩やかな舞曲》(1889年)
《三つの詩曲》(1892年)
《墓前で》
《ロンド》
《夜想曲》

外部リンク



イメージ 2

ルクー:アダージョ/ブリテン:シンプル・シンフォニー/バーバー:アダージョ/バルトーク:ルーマニア民俗舞曲(弦楽のためのセレナード集)(ルコーデ)

LEKEU, G.: Adagio / BRITTEN, B.: Simple Symphony / BARBER, S.: Adagio / BARTOK, B.: Romanian Folk Dances (Serenades pour cordes) (Lecaudey)

このページのURL
イメージ 3

ルクー:アンドロメダ/砦の主(ブライアント/フッテンロッヒャー/ヴァンデルシュテーン/バスタン/バルトロメー)

LEKEU, G.: Andromede / Les burgraves (Bryant, Huttenlocher, Vandersteene, Bastin, Bartholomee)

このページのURL
イメージ 4

ルクー:管弦楽作品集 2 (リエージュ・フィル/バルトロメイ)

LEKEU, G.: Orchestral Works, Vol. 2 (Liege Philharmonic, Bartholomee)

このページのURL
イメージ 5

ルクー:管弦楽作品集 1 (リエージュ・フィル/バルトロメイ)

LEKEU, G.: Orchestral Works, Vol. 1 (Liege Philharmonic, Bartholomee)

このページのURL
イメージ 6

ルクー:交響的練習曲第2番/リエージュ民謡「クラミニョン」による対位法的幻想曲/レオナール:ヴァイオリン協奏曲第4番(ジョンゲン/カルティーニ/シュトラウス)

LEKEU, G.: Etude symphonique No. 2 / Fantaisie contrapuntique sur un cramignon liegeois / LEONARD, H.: Violin Concerto No. 4 (Cartigny, Strauss)

このページのURL
イメージ 7

ミヨー:弦楽四重奏曲第1番 Op. 5 /ショーソン:終わりなき歌/ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ短調/ルクー:夜想曲(ペーターゼン四重奏団)

MILHAUD, D.: String Quartet No. 1, Op. 5 / CHAUSSON, E.: Chanson perpetuelle / RAVEL, M.: String Quartet in F Major (Petersen Quartet)

このページのURL
イメージ 8

ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調/ピエルネ:ヴァイオリン・ソナタ Op. 36/バスク幻想曲(ピケティ/カバッソ)

LEKEU, G.: Violin Sonata in G Major / PIERNE, G.: Violin Sonata, Op. 36 / Fantaisie basque (Piketty, Cabasso)

このページのURL
イメージ 9

ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト長調/ピアノ四重奏曲(ヒルシュホーン/ファンデン・エイデン/ドムス・アンサンブル)

LEKEU, G.: Violin Sonata in G Major / Piano Quartet (La musique de chambre, Vol. 1) (Hirshhorn, Vanden Eynden, Domus Ensemble)

このページのURL
イメージ 10

ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト長調(フェレル/アベリー)/レーガー:チェロ組曲 ニ短調 Op. 131c, No. 2 (キング)

LEKEU, G.: Violin Sonata in G Major (Ferrell, Avery) / REGER, M.: Cello Suite in D Minor, Op. 131c, No. 2 (T. King)

このページのURL
イメージ 11

ルクー:弦楽四重奏のための作品全集(ドビュッシー四重奏団)

LEKEU, G.: Works for String Quartet (Complete) (Quatuor Debussy) - String Quartet / Molto adagio / Meditation / Menuet

このページのURL
イメージ 12

ルクー:室内楽作品集 3 - ピアノ三重奏曲 ハ短調/アンダンテ・ソステヌート/アンジェ地方の民謡による幻想曲(アルテュール・グリュミオー・トリオ)

LEKEU, G.: Chamber Music, Vol. 3 - Piano Trio in C Minor / Andante sostenuto / Fantaisie sur 2 airs populaires angevins (Arthur Grumiaux Trio)

このページのURL
イメージ 13

ルクー:室内楽作品集 4 - チェロ・ソナタ ヘ短調/3つの小品/ピアノ・ソナタ ト短調(ドヴォ)

LEKEU, G.: Chamber Music, Vol. 4 - Cello Sonata in F Minor / 3 Pieces / Piano Sonata in G Minor (Devos)

このページのURL
イメージ 14

ルクー:室内楽作品集 5 - テンポ・ディ・マズルカ/主題と変奏/アダージョ・モルト・エスプレシーヴォ(コッホ/レオナルド/デヴォ/カメラータ四重奏団)

LEKEU, G.: Chamber Music, Vol. 5 - Tempo di mazurka / Thema con variazioni / Adagio molto espressivo (Koch, Leonardo, Devos, Camerata Quartet)

このページのURL
イメージ 15

ルクー/トゥリーナ/エルガー/ユイブレシュト:ヴァイオリン作品集(ダルシャンボー/スミス)

Violin Recital: Archambeau, Pierre D' - LEKEU, G. / TURINA, J. / ELGAR, E. / HUYBRECHTS, A.

このページのURL
イメージ 16

ルクー:ピアノ三重奏曲 ハ短調/ピアノ四重奏曲(断章)(シュピラー・トリオ)

LEKEU, G.: Piano Trio in C Minor / Piano Quartet (fragment) (Spiller Trio)

このページのURL
イメージ 17

ルクー:ピアノ三重奏曲/ピアノ四重奏曲(トリオ・オシュラガ)

LEKEU, G.: Piano Trio / Piano Quartet (Trio Hochelaga, Teng Li)

このページのURL
イメージ 18

ルクー:瞑想曲/弦楽四重奏曲 ト長調/モルト・アダージョ・センプレ・カンターテ・ドロローゾ(カメラータ四重奏団)

LEKEU, G.: Meditation / String Quartet in G Major / Molto adagio sempre cantante doloroso (La musique de chambre, Vol. 2) (Camerata Quartet)

このページのURL
イメージ 19

ルクー:自己愛の小品/父の家の窓/子馬の群れ(ディック/ド・メイ/レイヘール/デヴォ)

LEKEU, G.: Morceaux egoistes / La fenetre de la maison paternelle / Les pavots (Deyck, De Mey, Reyghere, Devos)

このページのURL
イメージ 20

ルクー/デュパルク/ワーグナー:声楽作品集(ソラネ)

Vocal Recital: Solanet, Marie-Claude - LEKEU, G. / DUPARC, H. / WAGNER, R. (Visages)




フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)Ⅰ

$
0
0
イメージ 1

フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)

生誕 1844年10月15日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国、レッツェン・バイ・リュッケン
死没 1900年8月25日(満55歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国、ヴァイマル
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
ドイツ
学派 大陸哲学、ドイツ観念論、形而上学的主意主義、Weimar Classicism、反基礎付け主義、実存主義
研究分野 美学、倫理学、形而上学、ニヒリズム、心理学、存在論、詩、価値の理論、悲劇、無神論、主意主義、事実と価値の区別、反基礎付け主義、歴史哲学
主な概念 アポロとディオニュソス、超人、ルサンチマン、力への意志、「神は死んだ」、永劫回帰、運命愛Amor fati、畜群、チャンダラ、「最後の人間」、遠近法主義、君主-奴隷道徳、価値の再評価、肯定

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者、古典文献学者。現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルに才能を見出され、哲学教授職を希望しつつも、バーゼル大学古典文献学教授となり、辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。

なお、ドイツ語では、「ニーチェ」(フリードリヒ['fri:dr?c] ヴィルヘルム['v?lh?lm] ニーチェ['ni:t??])のみならず「ニーツシェ」['ni:ts??]とも発音される[出典 1]

生涯

少年時代

ニーチェは、1844年10月15日火曜日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen - 現在はザクセン=アンハルト州など)、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。なお、ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている)。

1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。しかし、ニーチェが4歳の時(1848年)8月、父カール・ルートヴィヒは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かず、つまづき玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打ち付けた。ニーチェ5歳の時1849年4月30日にこの時の怪我が原因で死去した。また、それを追うように、1850年には2歳の弟ヨーゼフが歯が原因とされる、けいれんによって病死。 [出典 2]また、父の死の日付に関しては、ニーチェ自身は、7月27日と語り、弟の死に関しては、1850年1月末の出来事と語る。[出典 3][1]

男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師を頼って故郷レッケンを去りナウムブルクに移住する。また、二人の伯母も家事や食事などに協力した。計6人でのナウムブルクでの生活が始まった。

その後ニーチェは、6歳になる前に、ナウムブルクの市立小学校に入学する。翌年、ウェーベル(ウェーバー)氏の私塾(予備校)に入った。数年そこで学び、1854年にナウムブルクのギムナジウムに入学する。[出典 4]

なお、私塾では、ギリシア語ラテン語の初歩教育を受け、ただ勉強を受けるだけではなく、外へ遠足へ出かけることもあり楽しかったとニーチェは語る。[出典 5]

ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代を幸せだったこと、しかしその後父や弟が死んだ時の悲しみをギムナジウム時代に書いた自伝集で綴っている。また伯母や祖母の死もまたあったこと。そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えて来た事を語る。そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた。[出典 6]神に関しては、この時代はまだ信仰していた事がわかる。

ある雨の日の話

市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。

まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも関わらずニーチェは一人雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、ニーチェは校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから、と述べたという。このエピソードは、よくニーチェという人物の生真面目さと結び付けられて語られている。

エリザベートの兄への思い

エリザベートが残した文からエリザベートが兄への尊敬の念を持っていたことも分かっている。その理由はニーチェが誠実さや嘘を憎むこと、さらには活発で抑えのきかない自分に自制の心を教えてくれたからだという。

さらに、エリザベートは6歳の頃から、ニーチェの書いた文を集めていたことがわかっている。エリザベートは、ニーチェ文庫を創設しており、彼女が集めた文書はニーチェの研究に大きく貢献した。一方で彼女は、兄ニーチェの遺稿をめちゃくちゃに編集したり、ナチスに宣伝したりした。その理由は、自身の名誉の為という説が強いが、こうした、エリザベートの兄への思いも考慮して、兄への尊敬の念が行き過ぎてしまっただけなのだという見方をする者もいる。[出典 7]

青年時代
イメージ 2

1861年のニーチェ

イメージ 3

1868年のニーチェ。除隊する際に撮影

ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通った。

ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められていた。プフォルター学院に移る少し前、一人の伯母の死とそれに相次ぐ、祖母の死をきっかけにニーチェの母は移住することを決める。ニーチェの母は友達の牧師に家を借りる。ニーチェは勉強やスポーツに励み、友人であるピンデル(ピンダー)やクルークとの交流のおかげもあって芸術や作曲に長けていた。

その噂を聞いたドイツ屈指の名門校プフォルタ学院(ドイツ語版、英語版)の校長から給費生としての転学の誘いが届く。ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院に[2]ニーチェは、母や妹とのしばしの別れを惜しみながらも入学する事を決心した。このとき、生まれて初めて、田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。

1858年から1864年までは、古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また、詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(Paul Deussen)と友人になったりした。

またニーチェは、プフォルター学院時代に、詩や音楽を自作し互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成し、その中心人物として活動した。

大学生時代

1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。

そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事で、ましてや、夫を亡くした母にとっては、一家の一大事と考えた事も予測できる)。ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのは、ダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』である。

ニーチェは、大学在学中に、友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わったが、最初の頃は楽しんでいた物の、徐々にニーチェはその騒がしさや野蛮さに険悪を抱いていったようである。その事は、友人ゲルスドルフに宛てた手紙から確認されている。[出典 8] 

また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版)と出会い、師事する。リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに、懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけている。

ニーチェは、このリッチュルのもとで文献学を修得している。そして、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する。このライプツィヒ大学では、ギリシア宗教史家エルヴィン・ローデ(英語版)と知り合い親友となる。彼は、後にイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を取ることになる。また、1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。

ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があった指摘される出会いが、2つあった。ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの意志と表象としての世界』『を偶然購入し、この書の虜となったことである。もうひとつは、1868年11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒ滞在していたリヒャルト・ヴァーグナーと面識を得られたことである。ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。

バーゼル大学教授時代

イメージ 4

1871年、右からニーチェ、カール・フォン・ゲルスドルフ、エルヴィン・ローデ

1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招聘された。バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる[3])。

本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる。講義は就任講演「ホメロスと古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。研究者としては、古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なるということを発見した。終生の友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベック(Franz Overbeck)と出会ったほか、古代ギリシアやルネサンス時代の文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。

1872年、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。

しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。特にウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは『未来の文献学』と題した(ヴァーグナーが自分の音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文を発表し、まったくの主観性に彩られた『悲劇の誕生』は文献学という学問に対する裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたヴァーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。

ヴァーグナーへの心酔と決別

イメージ 5

リヒャルト・ヴァーグナー

生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なヴァーグナーのファンであり、1868年にはすでにライプツィヒでヴァーグナーとの対面を果たしている。やがてヴァーグナーの妻コジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼルへ移住してからというもの、同じくスイスのルツェルン市トリプシェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは1870年のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた。

近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来の伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜に属している。『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった。

ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第一作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。

1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベトに対し、「これがバイロイトだったのだよ」と言った。

この一件と前後して書かれた『バイロイトにおけるヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、ヴァーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、二人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。1878年、ニーチェはヴァーグナーから『パルジファル』の台本を贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない『聖杯伝説』を題材としたこの作品の構想を得意げに語るヴァーグナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれた『人間的な、あまりにも人間的な』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。

しかし晩年、ニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。また同じく発狂後、ヴァーグナー夫人コジマに宛てて「アリアドネ、余は御身を愛す、ディオニュソス」と謎めいた愛の手紙を送っていることから、コジマへの横恋慕がヴァーグナーとの決裂に関係していたと見る向きもある。一方のコジマは、ニーチェを夫ヴァーグナーを侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充ての書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いている。

イメージ 6

1875年、バーゼル大学教授時代のニーチェ

1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。これらの4本(のちに『反時代的考察』(1876年)の標題のもとに一冊にまとめられる)はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想を下敷きにしている。死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。

またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動に携わるリベラルな女性(ニーチェやレーにルー・ザロメ(後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友を深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアのソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』をニーチェは高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたヴァーグナーと邂逅しており、これが二人があいまみえた最後の機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来するペシミズムからの脱却に大きな影響を与えている。

1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。また、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。

翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。

在野の哲学者として

ニーチェは、病気の療養のために気候のよい土地を求めて、1889年までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。夏はスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村シルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。

時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。ニーチェは、バーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることがあった。かつての生徒である音楽家ペーター・ガスト(本名はHeinrich Koselitzで、ペーター・ガストというペンネームは、ニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの生涯を通じて、誠実な友人であり続けた。

また、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも、ニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出た後もニーチェに対して、母性的なパトロンでありつづけた。その他にも、音楽評論家のカール・フックスとも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そして、このころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。

1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には、『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版した。これらは、いずれも『人間的な』の第2部として組み込まれるようになった。

ルー・ザロメとの交友

イメージ 7

左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにて

ニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識』の第1部を発表した。『力への意志』として知られる著作の構想が芽生えたのもこの時期と言われる(草稿類の残っているのは84年頃から)。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・ザロメと知り合った。

ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。

レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。結果として、ザロメとレーの二人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。

失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアのラパッロへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。

ショーペンハウアーとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その内7冊を親しい友人へ献本する [出典 9]だけにとどめた。

1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。

メータ・フォン・ザーリス(ドイツ語版)やカール・シュピッテラー[4]、ゴットフリート・ケラー[5]と知り合ったのはこのころである。

1886年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。

病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。

また、イポリット・テーヌ[6]やゲーオア・ブランデス[7]とも文通を始めている。ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学でキェルケゴール哲学を講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行い、ニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。

ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている[8]。

ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた(著作一覧参照)。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。

ニーチェは、44歳の誕生日に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない頃であった。序文には「私の言葉を聞きたまえ!私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。12月、ニーチェはストリンドベリとの文通を始める。また、このころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本を出版しようとの計画も立てた。また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。




フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)Ⅱ

$
0
0
イメージ 1

晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年

狂気と死

1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。

数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナーやブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では


「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔(はりつけ)にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」


と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、


「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」
というものであった。

1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(Otto Binswanger)に診てもらうことに決めた。

1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(Julius Langbehn)が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。
エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年

この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。

イメージ 2

エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年

エリーザベトと『力への意志』

1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。

1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトはニーチェの面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトはニーチェの友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。

―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」[9]

エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリザベートの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった(次節参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィノ・モンティネリは「贋作」と言っている。

思想

ニーチェはソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学やアルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。先行の哲学者マックス・シュティルナーとの間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事に詳しい。

ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。

すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

ニーチェの思想は妹のエリザベートがニーチェのメモをナチスに売り渡した事でナチスのイデオロギーに利用されたが、そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いている。
“ お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』[10]は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。 ”

また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛ての最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と記している。主著『善悪の彼岸』の「民族と祖国」ではドイツ的なるものを揶揄して、「善悪を超越した無限性」を持つユダヤ人にヨーロッパは感謝せねばならず、「全ての疑いを超えてユダヤ人こそがヨーロッパで最強で、最も強靭、最も純粋な民族である」などと絶賛し、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いている。にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。

しかしながら、ルカーチ・ジェルジや戦後に刊行のトーマス・マンの、ニーチェをモデルにした小説『ファウストゥス博士』において、ニーチェをナチズムと結びつけて捉えるべきかのように示唆する観点をもつ研究者や作家も存在する。

とくにそれは優生学に基づいた政策を人間に当てはめることを肯定する態度に表れている。
“ 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。…社会は、生の受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、 またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。」(『力への意志』734) ”

ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、 その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。T4作戦も参照。上記のニーチェの思想はナチスの行為を正当化するものとの誤解を与えかねないものであった。

それ以後の哲学・思想への影響

ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズデリダらがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、バックボーンはニーチェ精神だった。



イメージ 3


個々の著作の概要

『悲劇の誕生』

初期の著作には、『音楽の精神からの悲劇の誕生』(なお、1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』と改題されている)がある。これは、哲学書ではなく、古典文献学の本である。

ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。

また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために古典文献学を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。

古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスのケンブリッジ儀礼学派の祖ジェーン・エレン・ハリソンであった。ハリソンは1903年の著書『Prolegomena to the Study of Greek Religion』において、ディオニュソスとオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した[11]。

そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。

『反時代的考察』

これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。

「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):これは、当時のドイツ思想を代表していたダーフィト・シュトラウスの『古き信仰と新しき信仰: 告白』(1871年)への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
「生に対する歴史の利害」(1874年):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):アルトゥル・ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、不動の意志だけでなく、ペシミズムによって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。
「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):この論文では、リヒャルト・ワーグナーの心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。

『人間的な、あまりにも人間的な』

1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびワーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。

また、本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「パースペクティヴィズム」と「力への意志」という概念を用いている。

『曙光』

『曙光』(1881年)において、ニーチェは、動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。また、道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判が完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。

『悦ばしき知識』

『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルは思索法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。

たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。

永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張であろう。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、またリヒャルト・シュトラウスに、同名の交響詩を作曲させるきっかけとなった。なお、ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。




その他

『善悪の彼岸』

『道徳の系譜』

『偶像の黄昏』

『ヴァーグナーの場合』

『アンチクリスト』(『反キリスト者』;独語Der Antichrist)

『この人を見よ』

『ニーチェ対ヴァーグナー』

『力への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)

作曲

イメージ 4

ニーチェ:フリードリヒ・ニーチェの作品集

NIETZSCHE: Music of Friedrich Nietzsche

このページのURL
ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残している。作風は前期ロマン派的であり、シューベルトやシューマンを思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『マンフレッド瞑想曲』をハンス・フォン・ビューローに酷評されたことが理由として考えられる。

現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラを念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。また、オペラのスケッチを残しており、2007年にジークフリート・マトゥスがそのスケッチを骨子としてオペラ『コジマ』を作曲した。

著作

『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『悲劇の誕生』)(Die Geburt der Tragodie aus dem Geiste der Musik,1872)
『反時代的考察』(以下の論文所収)(Unzeitgemasse Betrachtungen, 1876)
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873)
「生に対する歴史の利害」(Vom Nutzen und Nachteil der Historie fur das Leben, 1874)
「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874)
「バイロイトにおけるヴァーグナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876)
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878)
『曙光』(Morgenrote, 1881)
『悦ばしき知識』(Die frohliche Wissenschaft,1882)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1885)
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Bose, 1886)
『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『偶像の黄昏』(Gotzen-Dammerung, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce homo, 1888)

遺稿集には

『力への意志』(遺稿。妹が編纂)(Wille zur Macht, 1901)
『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)(Die Unshuld des Werdens, Alfred Kroner Verlag in Stuttgart, 1956)

日本語訳

※「全集」は、白水社版(第1期全12巻・第2期全12巻)と、筑摩書房「ちくま学芸文庫」(全15巻、元版は理想社)。ただし、白水社版は第3期(多くの遺稿集がある)が未刊行で、大半は版元品切。なお文庫版全集は、上記全作品の他に別巻4冊(書簡や遺稿集を収録)が刊行されている。

『ツァラトゥストラはこう言った』、『悲劇の誕生』、『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』、『この人を見よ』などの主要作品は、岩波文庫・光文社古典新訳文庫などに収録されている。


生の哲学

歴史主義

外部リンク




モデル[フレデリック・ワイズマン/アメリカ/1982]

$
0
0
イメージ 1

モデル[フレデリック・ワイズマン/アメリカ/1982]

フレデリック・ワイズマン Frederick Wiseman
Frederick Wiseman
生年月日 1930年1月1日(86歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1963年 -


イメージ 2


フレデリック・ワイズマン(Frederick Wiseman、1930年1月1日 - )は、アメリカ合衆国のドキュメンタリー映画監督。



経歴

マサチューセッツ州、ボストンに生まれる。

イェール大学ロー・スクール卒業後、仏・パリでも法律を学び、帰国して弁護士になる。

軍隊生活を経験した後、弁護士として働きながらボストン大学やハーバード大学で教鞭をとった。

1963年にシャーリー・クラーク監督作品『クール・ワールド』をプロデュース。

初監督作は『チチカット・フォーリーズ 』(1967年)。

1971年に、現在も活動の拠点とする自身のプロダクション「ジポラフィルム Zipporah Film」を設立。"Zipporah"は彼の妻の名からきている[1]。

2014年、ヴェネチア映画祭で金獅子賞(特別功労賞)を受賞した。


チチカット・フォーリーズ Titicut Follies(1967年)
高校 High School(1968年)
法と秩序 Law and Order(1969年)
病院 Hospital(1969 or 1970年)
I Miss Sonia Henie(1971年)
基礎訓練 Basic Training(1971年)
エッセネ派 Essene(1972年)
少年裁判所 Juvenile Court (1973年)
霊長類 Primate(1974年)
福祉 Welfare(1975年)
肉 Meat(1976年)
パナマ運河地帯 Canal Zone(1977年)
シナイ半島監視団 Sinai Field Mission(1978年)
Manoeuvre軍事演習 (1979年)
セラフィータの日記 Seraphita's Diary(1980 or 1982年)
モデル Model(1980年)
ストア The Store(1983年)
競馬場 Racetrack(1985年)
多重障害 Multi-Handicapped(1986年)
聴覚障害 Deaf(1986年)
適応と仕事 Adjustment and Work(1986年)
ミサイル Missile(1987年)
視覚障害 Blind(1986 or 1987年)
臨死 Near Death(1989年)
セントラル・パーク Central Park(1989年)
アスペン Aspen(1991年)
動物園 Zoo(1993年)
高校2 High School II(1994年)
高校2 High School II(1994年)
アメリカン・バレエ・シアターの世界 Ballet(1995年)
コメディ・フランセーズ 演じられた愛 La Comedie-Francaise ou L'amour joue(1996年)
パブリック・ハウジング Public Housing(1997年)
メイン州ベルファスト Belfast, Maine(1999年)
DV ー ドメスティック・バイオレンス Domestic Violence(2001年)
DV 2 Domestic Violence 2(2002年)
最後の手紙 La Derniere lettre / The Last Letter(2002年)
The Garden(2005年)
州議会 State Legislature(2006年)
パリ・オペラ座のすべて La Danse(2009年)
ボクシング・ジム Boxing Gym(2010年)
クレイジー・ホース・パリ 夜の宝石たち Crazy Horse(2011年)
At Berkeley(2013年)
ナショナル・ギャラリー 英国の至宝 National Gallery(2014年)
In Jackson Heights(2015年)

外部リンク

フレデリック・ワイズマン - allcinema
フレデリック・ワイズマン - KINENOTE
Frederick Wiseman - インターネット・ムービー・データベース(英語)

Frederick Wiseman - Zipporah Films


Director (44 credits)
2015 In Jackson Heights (Documentary)
2014 National Gallery (Documentary)
2005-2014 Independent Lens (TV Series documentary) (2 episodes)
- At Berkeley (2014)
- The Last Letter/Zyklon Portrait/The Walnut Tree (2005)
2013 At Berkeley (Documentary)
2011 Crazy Horse (Documentary)
2010 Boxing Gym (Documentary)
2009 La danse (Documentary)
2007 State Legislature (Documentary)
2005 The Garden (Documentary)
2002 Domestic Violence 2 (Documentary)
2002 La derniere lettre
2001 Domestic Violence (Documentary)
1999 Belfast, Maine (Documentary)
1997 Public Housing (Documentary)
1996 La Comedie-Francaise ou L'amour joue (Documentary)
1995 Ballet (Documentary)
1994 High School II(Documentary)
1993 Zoo (Documentary)
1991 Aspen (Documentary)
1990 Central Park (Documentary)
1989 Near Death(Documentary)
1988 Missile (Documentary)
1987 Blind(Documentary)
1986 Adjustment and Work (Documentary)
1986 Deaf(Documentary)
1986 Multi-Handicapped(Documentary)
1985 Racetrack(Documentary)
1983 The Store (Documentary)
1982 Seraphita's Diary
1980 Model (Documentary)
1979 Manoeuvre(Documentary)
1978 Sinai Field Mission(Documentary)
1977 Canal Zone (Documentary)
1976 Meat (Documentary)
1975 Welfare (Documentary)
1974 Primate (Documentary)
1973 Juvenile Court(Documentary)
1972 Essene (Documentary)
1971 I Miss Sonia Henie(Short)
1971 Basic Training(Documentary)
1970 Hospital (TV Movie documentary)
1969 Law and Order (TV Movie documentary)
1968 High School(Documentary)
1967 Titicut Follies(Documentary)

フレデリック・ワイズマン - ナショナル・ギャラリー




ルクレール - ジャン=マリー・ルクレール (Jean-Marie Leclair)Ⅰ

$
0
0
イメージ 1

ルクレール - ジャン=マリー・ルクレール (Jean-Marie Leclair)

ジャン=マリー・ルクレール(Jean-Marie Leclair, 1697年5月10日 リヨン - 1764年10月22日 パリ)は、バロック音楽の作曲家で、18世紀フランスにおけるヴァイオリン演奏の巨匠である。フランス=ベルギー・ヴァイオリン楽派の創始者と見做されている。

生涯

指物師になる訓練を受けていたが、故郷を去ってトリノで舞踏とヴァイオリンを学び、ダンス教師やヴァイオリニストとして活動を始める。

1716年に舞踏家のマリー=ローズ・カスタニーと結婚(1728年に死別)。1723年にパリに行き、フランス宮廷でコンセール・スピリチュエルに出演した。

1730年に版画家ルイーズ・ルーセルと再婚、ルイーズ夫人は、ルクレールの作品2以降の全楽曲を製版した。


イメージ 2

ルクレール/シャルパンティエ/ラモー:劇場のための管弦楽曲集(テンペスタ・ディ・マーレ)

LECLAIR, J.-M. / CHARPENTIER, M.-A. / RAMEAU, J.-P.: Orchestral Music for the Theatre (Comedie et Tragedie, Vol. 2) (Tempesta di Mare)

このページのURL
イメージ 3

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集 1(スタンデイジ)

LECLAIR: Violin Concertos, Vol. 1

このページのURL
イメージ 4

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集 2 (スタンデイジ)

LECLAIR: Violin Concertos, Vol. 2

このページのURL
イメージ 5

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集 3 (スタンデイジ)

LECLAIR: Violin Concertos, Vol. 3

このページのURL
イメージ 6

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集/フルート協奏曲(ハジェット/アリオン・アンサンブル)

LECLAIR: Violin Concertos / Flute Concerto

このページのURL
イメージ 7

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集 Op. 7, Nos. 1-5 (キュイエ/ストラディヴァリア)

LECLAIR, J.-M.: Violin Concertos, Op. 7, Nos. 1-5 (Cuiller, Stradivaria)

このページのURL
イメージ 8

ルクレール/カンプラ/ラモー/ルソー:管弦楽作品集(ラフォンテーヌ/ベルナール)

Orchestral Music - LECLAIR, J.-M. / CAMPRA, A. / RAMEAU, J.-P. / ROUSSEAU, J.-J. (Heritage of France III) (Lafontaine, Bernard)

このページのURL
イメージ 9

ルクレール/ブラヴェ/コレット/ビュファルダン/ノールト/ボワモルティエ:フランスのフルート協奏曲集(ル・ビュファルダン)

LECLAIR, J.-M. / BLAVET, M. / CORRETTE, M. / BUFFARDIN, P.G. / NAUDOT, J.C. / BOISMORTIER, J.B. de: French Flute Concertos (Les Buffardins)

このページのURL
イメージ 10

ルクレール:ヴァイオリン協奏曲集 Op. 7 (サントス/レ・ムファッティ/ヘイゲン)

LECLAIR, J.-M.: Violin Concertos, Op. 7 (Santos, Les Muffatti, Heyghen)

このページのURL
イメージ 11

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集 OP. 12 (2つのヴィオラ編)(フリーダー/ペンコフ)

LECLAIR, J.-M.: Sonatas for 2 Violins, Op. 12 (arr. for 2 violas) (Flieder, Penkov)

このページのURL
イメージ 12

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集 Op. 4, Nos. 1-6 (ロザソリス)

LECLAIR, J.-M.: Sonatas for 2 Violins, Op. 4, Nos. 1-6 (RosaSolis)

このページのURL
イメージ 13

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集 - 第2巻

LECLAIR: Second Livre de Sonates, Op. 12

このページのURL
イメージ 14

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ Op. 1 - 第9番 - 第12番(バターフィールド/マクギリヴレイ/カミングス)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonatas, Op. 1, Nos. 9-12 (Butterfield, McGillivray, Cummings)

このページのURL
イメージ 15

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ Op. 1 - 第1番 - 第4番(バターフィールド/マクギリヴレイ/カミングス)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonatas, Op. 1, Nos. 1-4 (Butterfield, McGillivray, Cummings)

このページのURL
イメージ 16

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ Op. 1 - 第5番 - 第8番(バターフィールド/マクギリヴレイ/カミングス)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonatas, Op. 1, Nos. 5-8 (Butterfield, McGillivray, Cummings)

このページのURL
イメージ 17

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ集 Op. 9 /F. クープラン:尊厳、またはフォルクレ(スタンデイジ)

LECLAIR: Violin Sonatas, Op. 9 / COUPERIN, F.: La Superbe, ou La Forqueray

このページのURL
イメージ 18

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ集 Op. 2, Nos. 1-5, 8 (バターフィールド/マンソン/カミングス)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonatas, Op. 2, Nos. 1-5, 8 (Butterfield, Manson, Cummings)

このページのURL
イメージ 19

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ集 Op. 2, Nos. 6, 7, 9-12 (バターフィールド/マンソン/カミングス)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonatas, Op. 2, Nos. 6, 7, 9-12 (Butterfield, Manson, Cummings)

このページのURL
イメージ 20

ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ集 Op. 9 (サントス/ミランダ/サントーロ)

LECLAIR, J.-M.: Violin Sonata, Op. 9 (Santos, Miranda, Santoro)



ルクレール - ジャン=マリー・ルクレール (Jean-Marie Leclair)Ⅱ

$
0
0
イメージ 1

  シラとグロキュス

ルクレール - ジャン=マリー・ルクレール (Jean-Marie Leclair)

1733年にルイ15世より王室付きの音楽教師に任命されるが、宮廷楽団の監督権をめぐってジャン=ピエール・ギニョン(Jean-Pierre Guignon)と衝突、1737年に辞任する。その後は、ヘンデルの弟子ですぐれたクラヴサン奏者であったオラニエ公妃アンナに仕え、1738年から1743年まで毎月ハーグの宮廷で楽長として過ごした。1743年にパリに戻る。唯一の歌劇《シラとグロキュス(スキュラとグラウコス)Scylla et Glaucus》が初演されたが、この作品は現代になって蘇演が行われた。1740年から没年まで、グラモン公に出仕した。

1758年に結婚生活が破れると、人目を避けて貧民街に隠れ住むようになり、1764年にそのあばら家で、惨殺死体となって発見された。真相は依然として謎に包まれているが、おそらく事件の陰に、別れた妻が隠れている可能性がある。経済的事情が動機であろう。また、甥にも強い嫌疑がかけられている。

その他

ルクレールの兄弟は、同名の弟(1703年~77年)のほか、ピエール(1709年~84年)、ジャン=ブノワ(1714年~1759年以後)がおり、いずれも音楽家になった。

ヴァイオリンのための数々のソナタや協奏曲のほか、トリオ・ソナタや、フルートと通奏低音のためのソナタを遺している。


イメージ 2

ルクレール/オトテール/ギユマン:室内楽

LECLAIR / HOTTETERRE / GUILLEMAIN: Chamber Music

このページのURL
イメージ 3

ルクレール:音楽の慰め第2集/フルート・ソナタ(アンサンブル・コントルコントルポワン)

LECLAIR, J.-M.: Deuxieme recreation de musique d'une execution facile / Flute Sonatas (Ensemble Contrepoint)

このページのURL
イメージ 4

ルクレール/コダーイ/ストラヴィンスキー/プロコフィエフ/ブラームス:ヴァイオリン作品集(オイストラフ)

Violin Recital: Oistrakh, David / Oistrakh, Igor ? LECLAIR, J.M. / KODALY, Z. / STRAVINSKY, I. / PROKOFIEV, S. / BRAHMS, J. (1954, 1962)

このページのURL
イメージ 5

ルクレール:序曲集/2つのヴァイオリンのためのソナタ集 Op. 13 (ロンドン・バロック/メドラム)

LECLAIR, J.-M.: Overtures / Sonatas for 2 Violins, Op. 13 (London Baroque, Medlam)

このページのURL
イメージ 6

ルクレール:序曲集/トリオ・ソナタ集(レ・タラン・リリク/ルセ)

LECLAIR, J.-M.: Overtures / Sonates En Trio (Rousset)

このページのURL
イメージ 7

ルクレール/ハイドン/ヘンデル/モーツァルト/ブラームス:ヴァイオリン作品集(スティーヴン・スタリックの芸術)(1968-1969)

Violin Recital: Staryk, Steven - LECLAIR, J.-M. / HAYDN, J. / HANDEL, G.F. / MOZART, W.A. / BRAHMS, J. (The Art of Steven Staryk) (1968-1969)

このページのURL
イメージ 8

ルクレール:フルート・ソナタ集 Op. 1, Nos. 2 and 6/フルート・ソナタ集 Op. 2, No. 1 (ランパル/ヴァイロン=ラクロワ)

LECLAIR, J.-M.: Flute Sonatas, Op. 1, Nos. 2 and 6 / Flute Sonata, Op. 2, No. 1 (Rampal, Veyron-Lacroix)

このページのURL
イメージ 9

ルクレール:フルート・ソナタ集 Op. 9, Nos. 2 and 7/音楽の慰め第2集(フォー・ネイションズ・アンサンブル)

LECLAIR, J.-M.: Flute Sonatas, Op. 9, Nos. 2 and 7 / Deuxieme recreation de musique d'une execution facile (The Four Nations Ensemble)

このページのURL
イメージ 10

ルクレール:フルート・ソナタ全集(クイケン)

LECLAIR: Flute Sonatas (Complete) (Kuijken)

このページのURL
イメージ 11

ルクレール:フルートを含む室内楽曲全集(スミス/クリューガー/ギボンス/ブルステイン)

LECLAIR: Chamber Music with Flute (Complete)

このページのURL
イメージ 12

ルクレール:やさしい音楽の気晴らし第1集/2つのヴァイオリンのためのソナタ

LECLAIR: Premiere recreation de musique d'une execution facile / Sonata for 2 violins in D Major

このページのURL
イメージ 13

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集第2巻 Op. 12 Nos. 1-6

LECLAIR: Second livre de sonates a deux violons, Op. 12, Nos. 1-6

このページのURL
イメージ 14

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集 Op. 12, Nos. 1-6 (ドイター/ワイスマン)

LECLAIR, J.-M.: Sonata for 2 Violins, Op. 12, Nos. 1-6 (Deuter, Waisman)

このページのURL
イメージ 15

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ集 Op. 3, Nos. 1-6 (ドイター/ヴァイスマン)

LECLAIR, J.-M.: Sonatas for 2 Violins, Op. 3, Nos. 1-6 (Deuter, Waisman)

このページのURL
イメージ 16

ルクレール:2つのヴァイオリンのためのソナタ全集 - Opp. 3 and 12 (イーワー/ラモッテ)

LECLAIR, J.-M.: Sonatas for 2 Violins (Complete) - Opp. 3 and 12 (Ewer, LaMotte)

このページのURL
イメージ 17

ルクレール/フォルクレ/バリエール:室内楽&器楽作品集(レ・ヌーヴォー・カラクテール/デラン)

Chamber and Instrumental Music - LECLAIR, J.-M. / FORQUERAY, A. / BARRIERE, J. (The Salon of Scylla and Glaucus) (Les Nouveaux Caracteres, D'Herin)

このページのURL
イメージ 18

ルクレール:歌劇「シラとグロキュス」(バラート/ダーリン/レ・ヌーヴォー・カラクテール/デラン)

LECLAIR, J.-M.: Scylla et Glaucus [Opera] (Barath, Dahlin, Les Nouveaux Caracteres, D'Herin)

このページのURL
イメージ 19

ヴェルサイユの音楽大噴水(デュメストル/センペ/グリーンバーグ/デラン/シュネーベリ/ピション)

GRANDES EAUX MUSICALES DE VERSAILLES (LES) (Dumestre, Sempe, Greenberg, D'Herin, Schneebeli, Pichon)

このページのURL
イメージ 20

ヴェロニス・ジャンス - 悲劇の女優

Tragediennes



Viewing all 1732 articles
Browse latest View live