ルソー - ジャン=ジャック・ルソー (Jean-Jacques Rousseau)
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した[1]哲学者、政治哲学者、作曲家[2][3][4]。
生涯
ジュネーブでの幼年期
1712年、フランス語圏の都市国家ジュネーヴにて、市民階級の時計師の息子として出生。生後8日にして母を喪う。
7歳頃から父とともに小説や歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。1725年、父は退役軍人との喧嘩がもとでジュネーヴから逃亡せねばならぬ仕儀となる。兄も家出してしまい孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父によって牧師に預けられ、その後、公証人の許で書記の仕事を覚えようとしたり、彫金工に弟子入りするなど苦しい体験をした。そして3年後に出奔し、以後長い放浪生活に入った。その後もさまざまな職業を試したが、結局どの職にも落ち着くことができなかった。その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上の司祭から温かく励ましてもらったことを、後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している。[5]たとえ成功しても放浪は止むことなく、自分の進むべき道を探求した[6]。
1732年、ジュネーヴを離れて、ヴィラン男爵夫人の愛人となり、その庇護の下で様々な教育を受けた。彼は常に孤独を好み、また独学で膨大な書物を研鑽し、教養を身につけた。
フランス時代
ヴィラン男爵夫人と別れた後、1740年から1741年にかけて、リヨンのマブリ家(哲学者マブリ、エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤックの実兄の家)に逗留し、マブリ家の家庭教師を務めた。
この職を辞めた後、1742年に音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、ドゥニ・ディドロらと親しくなる。これが契機となって、後の一時期『百科全書』に寄稿している。更に1745年には、下宿の女中テレーズ・ルヴァスールを愛人として、10年間で5人もの子供を産ませ、5人とも養育院に入れてしまった[7][5][8]。しかし、1750年にディジョンのアカデミーへの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」において彼が執筆した著作『学問芸術論』が入選して、この不遇状態は一変、以後、次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。1753年、41歳にして書き上げた『人間不平等起源論』は初の大作であり、懸賞論文への解答であった[9]。ベストセラーとなった書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』(1761年)、『社会契約論』(1762年、50歳)等はこの時期に執筆されている。ただしこの間、ヴォルテール、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とはほとんど絶交状態となった。1756年(44歳)、ヴォルテールの著作『リスボンの災禍にかんする詩』に対してルソーが異論を唱えた時、対立関係は決定的なものとなった。
晩年
1762年、教育論『エミール』が世に出ると、その第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の持つ自然宗教的な内容が、パリ大学神学部から厳しく断罪され、『エミール』は禁書となり、ルソー自身に対しても逮捕状が出たため、彼はスイスに亡命した。亡命中はスイス、イギリスなどを転々としたが、彼を保護したイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームと不仲になり、1770年、偽名でパリに戻った。
パリでは、亡命中から執筆していた自叙伝『告白』を完成させ、続いて最後の著作、『孤独な散歩者の夢想』の執筆を開始したが、この作品の完成を見ることなくパリ郊外のエルムノンヴィル(フランス語版)にて死去した。
先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。
まず、1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた。無論、そこには家族などの社会もない。理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(堕落)。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認め、思弁を進める。
ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。
……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。
― ルソー、『人間不平等起源論』、本田喜代治、平岡昇共訳、岩波文庫、1972年、80頁。
1762年に発表した『社会契約論』において、社会契約と一般意志なる意志による政治社会の理想を論じた。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」は、単純な「特殊意志(個人の意志)」の和(全体意志)ではないが、そのそれぞれの「特殊意志」から、相殺しあう過不足を除けば、「相違の総和」としての「一般意志」が残るのだと説明している。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決を否定し、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や政治家による抑圧を排した直接民主制を志向した。ルソーの議論が導く理想は、政治が一般意志に服従するというものであり、絶対的な人民主権(国民主権)となる。ただしルソーは、一般意志による政治について、君主政や貴族政を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、いずれにしても統治者が一般意志に服従することを重要視している[10]。
言語論
『言語起源論』は、『人間不平等起源論』とともに構想されたルソーの著作であり、言語の起源を音声(音声言語)に求める。そしてエクリチュール(書かれたもの)については、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みが、あくまでもその根源であるとする。そして歴史的な過程の中で言語からは情念が失われ(堕落)、理性的で合理的な説得の技術が重要となり、そしてそれは政治的な権力に代わったと、ルソーは考える。
20世紀、ジャック・デリダは、存在論に関する主著『グラマトロジーについて』の中で、ルソーの『言語起源論』を何度も引用しながら、言語におけるエクリチュールに対するパロール(話し言葉)の優越を語ってきた思想史を批判し、エクリチュールとパロールの二項対立と差異について論じている(デリダ哲学における脱構築も参照)。
文明論
文明を主題にしたルソーの著作は、『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』など多い。その一貫した主張として、悪徳の起源を、学問、言語など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である[11]。それらは、文明による「堕落」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。東浩紀は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった[12]」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」[13]と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。
1755年リスボン地震に関して、啓蒙思想家ヴォルテールが発表した『リスボンの災禍に関する詩』に対するルソーの批判にも、その文明観を見ることができる。ヴォルテールは、理性主義(合理主義)と理神論、理性的な文明を志向する思想の下、精力的に宗教批判や教会批判を行ってきた。そのためヴォルテールは、罪なき多くの人間が犠牲となったリスボンの災禍を教会批判に用い、非合理的な宗教を誤謬の象徴として捉え、教会が守ろうとしてきた社会に対して、その最善の世界で何故このような災禍が起こるのかと問いを提起した(教会信者の楽天主義に対する批判)。これはヴォルテールの啓蒙活動のなかでも重要なものとなり、ヴォルテールは理性による社会改革を訴える。そうした一連の主張に対して、ルソーは強く批判を行った。ルソーの考えによれば、自然災害にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する都市、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」[14]、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」[15]。
教育論
上述のようにルソーは、理性とそれによる文明や社会を悲観的に捉えている。それゆえルソーは、主に教育論に関して論じた『エミール』において、「自然の最初の衝動はつねに正しい」という前提を立てた上で、子の自発性を重視し、子の内発性を社会から守ることに主眼を置いた教育論を展開している。初期の教育について、「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」を目的とする[16]。
音楽
作曲家としてのルソーは、オペラ『村の占師』(Le Devin du village 1753年、パリ・オペラ座で初演)などの作品で知られる。なお、このオペラの挿入曲が、後に日本では『むすんでひらいて』のタイトルでよく知られるようになった童謡である。音楽理論家としては、音楽理論を整理し、音をより数学的に表現するため、「数字記譜法」を発案し、『音楽のための新記号案』を科学アカデミーにおいて発表した。その後、自身の音楽研究を『近代音楽論究』としてまとめている。また作曲の他に、晩年には『音楽事典』も出版している。
起源を音声に求めるルソーの言語論は、その音楽論と表裏一体の議論である。
1750年代のブフォン論争においては、イタリアのオペラ・ブッファの擁護者の代表として、フランス音楽を痛烈に批判した。
植物学
博物学的な観察によって、植物を分類し、植物学に関する体系的な著作を残している。『孤独な散歩者の夢想』においてルソーが自認しているとおり、ルソーは、他者との社交よりも、自然と孤独を好んだ。そして思想的進歩性から迫害されることもあったルソーは、特にスイス亡命中に植物の観察を多く行っている。ルソーは、長い時間をかけて植物の形態と表象的な記号を詳細に記録し、分類した。『植物学』は、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテが博物画を担当し、ルソーの死後に刊行されている。また、ルソーは独自に編纂した『植物用語辞典』の出版を計画しており、遺稿として残されている。
Rousseauは、植物の学名で命名者を示す場合にジャン=ジャック・ルソーを示すのに使われる。(命名者略記を閲覧する/IPNIでAuthor Detailsを検索する。)
人物
ディドロやダランベール等、いわゆる百科全書派と深い交流を持ち、自身も百科全書のいくつかの項目を執筆したが、後に互いの主義主張の違いや、ルソー本人の被害妄想の悪化などが原因で決裂することとなる。
私生活においては、マゾヒズムや露出癖、晩年においては重度の被害妄想があった。こうした精神の変調の萌芽は若い頃からあり、少年時代に街の娘たちに対する公然わいせつ罪(陰部を露出)で逮捕されかかった。更に、自身の5人の子供を経済的事情と相手側の家族との折り合いの悪さから孤児院に送った。自身の著書『告白』などでそれらの行状について具体的に記されている。
生涯、ルソーが経済的に裕福だったことは一度もない。当時はまだ著作権が整備されておらず、例え本がどれほど売れようと原稿は基本的に買い取り制であった。また本人が年金制度を晩年まで嫌悪していたため、常に他人の世話になって生活することが多く、唯一定職と言えるものは、若い頃から趣味でやっていた楽譜の浄写くらいで、これが貴重な収入源であった。しかし最後には年金への主張を改め、それを受け取るために各方面に働きかけた。
生涯において、公的な学習機関を修了したことは一度もない。一度だけ、ヴァランス夫人の勧めで神学校に通ったことがあるが、1年と持たなかった。
評価・影響
ルソーから影響を受けた人物としては、哲学者のイマヌエル・カントが有名である。 ある日、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと大きな騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの著作『エミール』をつい読み耽ってしまい、すっかりいつもの散歩を忘れてしまっていたのであった。カントはルソーについて、『美と崇高の感情に関する観察』への覚書にて次のように書き残している。
わたしの誤りをルソーが訂正してくれた。目をくらます優越感は消え失せ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ。
ルソーの思想はカントの他、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなどにも影響を与え、ドイツ観念論の主軸の流れに強い影響を及ぼした[17]。
ルソーと同じくカントに影響を与えた哲学者の一人として知られるイギリスのデイヴィッド・ヒュームは、ルソーと交友関係があった。しかし、ヒュームとルソーは後に絶交する[18]。
ルソーの影響は、20世紀以降のフランス現代思想にも見られる。クロード・レヴィ=ストロースは、人類学の一つの起源としてルソーを再評価している[19]。ポスト構造主義の現象学系哲学者ジャック・デリダは、『グラマトロジーについて』(特にルソー論となっているその後半部分)において、脱構築的読解(散種)によって、『言語起源論』をはじめとするルソーの諸著作を再読している[20]。
また、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンもルソーの影響を深く受けた。ヘルダーリンの詩編を詳細に分析したマルティン・ハイデッガーがなぜかルソーに言及しないことに注目したフィリップ・ラクー=ラバルトは、ハイデッガーにおけるルソー的な問題設定の逆説的な反映を『歴史の詩学』(日本語版 藤原書店, 2007)において論じた。
帝政ロシアの作家レフ・トルストイは青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。地主でもあったトルストイの生活と作品には「自然に帰れ!」の思想が反映している。
なお、ルソーの思想を語る際に「自然に帰れ!」というフレーズがよく引き合いに出されるが、ルソーの著作には「自然に帰れ!」という具体的な文句は一度も登場しない。ルソーの著作のひとつの解釈として、ルソーはそのように言っているようなものであるという譬えであり、このような評はルソーの在世中にもあったが、誤解であると言われる[21]。
哲学者としては啓蒙思想家(フィロゾーフ)に位置づけられるルソーであるが、作家としても大きな成功を収めており、その「私」を強烈に押し出した作風は、後のロマン主義の先駆けとなったといわれ、その長大かつ詳細な自伝である『告白』は『懺悔録』の名で日本語訳され、太宰治などのエッセイにもその言及がみられる。また、本人が「空想のままにペンを走らせた」という『新エロイーズ』は18世紀フランスにおける最大級のベストセラーとなり、ヴォルテールの『カンディード』と並び称された。
ルソーを含む近代哲学者の思想的影響を受けたとされ[22]、ルソーの死後に始まったフランス革命[23]においては、「反革命派」と名指しされた者に対して迫害、虐殺、裁判を経ない処刑が行われるなど、恐怖政治が行われた[24]。マクシミリアン・ロベスピエールやナポレオン・ボナパルトといった指導者たちが「一般意志」などルソーの概念を援用し、人民の代表者、憲法制定権力を有する者と自称して、独裁政治を行ったということは、歴史的事実である[25]。しかし、ルソーの存在しない時代において行われたそれらがルソーの理想するところであったかどうかについては、留意すべき点である[26]。後述のように、そもそもルソー自身は、その思想において、代表制の政治に非常に懐疑的である[27]。
また、「ダランベール氏への手紙:演劇について」においては、演劇の持つカタルシスの機能を批判した[28]。
日本への影響
中江兆民、生田長江、大杉栄らはルソーの翻訳をし、また作家の島崎藤村は明治42年(1909年)3月に「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」を発表し、ルソーの『懺悔録』(『告白』)に深い影響を受けたと述べている[29]。
明治10年(1877年)12月に日本で初めてのルソーの日本語訳である「民約論」(服部徳訳・田中弘義閲 有村壮一)が発表され、明治15年(1882年)には中江兆民訳で「民約訳解」が発表されて以降、現在に至るまで多数の訳書が日本では刊行されている。
デリダ派哲学者として知られる東浩紀は、新しい政治構想として、解釈が難しく全体主義の一つの起源とまでされた一般意志を、ジークムント・フロイトの無意識論における集合的無意識と結びつけるという思想史的に見て非常に特異な解釈を示し、それをさらに情報化社会においてデータとして蓄積される集合知と結びつけることによって、現代の政治に一般意志を用いる構想を行っている(『一般意志2.0』)。
その他
マリー・アントワネットが言ったという「パンが無ければお菓子(ケーキまたはクロワッサン)を食べればいいじゃない」の言葉がよく知られているが(原文は S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche.、訳せば、パンがないのであればブリオッシュを食べてはどうか)、これは『告白』第6巻の記事が原典であると言われている[30]。
単著
1742 : 『音楽のための新記号案』 Projet concernant de nouveaux signes pour la musique
1743 : 『近代音楽論究』 Dissertation sur la musique moderne
1750 : 『科学と技芸についてのディスクール』日本語訳『学問芸術論』[31] Discours sur les sciences et les arts
1751 : 『英雄の徳とはなにか』 Discours sur la vertu du héros
1752 : 『幕間劇、村の占い師』 Le Devin du village ― Opéra représenté à Fontainebleau devant le roi le 18 octobre 1752. C'est un succès. Première représentation à l'Opéra le 1er mars 1753, c'est un désastre.
1752 : 『ナルシス まえがき・ナルシス、またの名、おのれに恋する男』 Narcisse ou l’Amant de lui-même, comédie représentée par les comédiens ordinaires du roi, le 18 décembre 1752.
1755 : 『人間不平等起源論』[32] Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes
1755 : 『政治経済論』 Economie Politique (『百科全書』の中の一項)
1756 : 『ラモー氏が『「百科全書」の音楽に関する誤謬』と題された小冊子で主張する二つの原理を吟味する』 Examen de deux principes avancés par M. Rameau
1755 : 『フィロポリス氏への手紙・サン=ピエール師の永久平和論』 Jugement du Projet de paix perpétuelle de Monsieur l'Abbé de Saint-Pierre
1758 : 『法律に関する書簡』 Lettres morales, écrites entre 1757 et 1758, publication posthume en 1888
1758 : 『真理に関する書簡』 Lettre sur la providence
1758 : 『付録 - ダランベールによる「ジュネーヴ」の項目』 J.-J. Rousseau, Citoyen de Genève, à M. d'Alembert sur les spectacles
1761 : 『ジュリ または新エロイーズ』[33] Julie ou la Nouvelle Héloïse
1762 : 『エミール または教育について』[34] Émile, ou De l'éducation, dans lequel est inclus La profession de foi du vicaire savoyard au livre IV.
1762 : 『社会契約論』[35] Du contrat social
1762 : 『マルゼルブ租税法院院長への四通の手紙』 Quatre lettres à Monsieur le président de Malesherbes
1764 : 『山からの手紙』 Lettres écrites de la montagne
1764 : 『コルシカの法律に関する書簡』 Lettres sur la législation de la Corse
1771 : 『ポーランド統治論』 Considérations sur le gouvernement de Pologne
1771 : 『ピグマリオン』 Pygmalion
1781 : 『言語起源論・発音について』[36] Essai sur l'origine des langues (posthume)
1765 : 『コルシカ国制案』または『コルシカ憲法草案』(遺作) Projet de constitution pour la Corse (posthume)
1767 : 『音楽辞典』 Dictionnaire de musique (écrit à partir 1755 il paraît à Paris en 1767)
1770 : 『告白』[37] Les Confessions (écrites de 1765 à 1770, publication posthume)
1777 : 『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 Rousseau juge de Jean-Jacques (posthume)
1778 : 『孤独な散歩者の夢想』[38] Les Rêveries du promeneur solitaire (posthume)
1781 : 『エミールとソフィ または孤独に生きる人たち』 Émile et Sophie, ou les Solitaires (publication posthume en 1781, la suite inachevée de l'Émile)
共著
『百科全書』 l'Encyclopédie : 共同執筆。代表編集者はディドロとジャン・ル・ロン・ダランベール。
音楽作品
数字譜(記譜法)
優美な詩の女神たち(オペラバレエ)
ピグマリオン
三つの音によるエール
村の占い師(オペラ)
クラリネット二重奏曲]
軍隊行進曲
万軍の主よ、あなたのすまいは(宗教音楽)
ダフニスとクロエ(オペラ、未完)
むすんでひらいて - ルソーの作品であるオペラ「村の占者」の一節に「ルソーの新しいロマンス」というタイトルで歌詞が付けられ、その旋律がヨーロッパ各国へ広まったもの。日本では童謡として有名。他に、「わがおほみかみよ・かみよめぐみを・見わたせば・美しい眺め・静かにおやすみ・ロディーおばさんにいっといで・年老いた灰色のガチョウは死んだ・尚武之精神・植松・ああきみのきみなるエホバの神よ」などの異題でも知られる[39]。
百科全書
外部リンク
ルソー名言集 (世界傑作格言集)
Du contrat social ou Principes du droit (PDF) (フランス語) 「社会契約論」原文
「Jean Jacques Rousseau」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ジャン=ジャック・ルソー」についての項目。(英語)
クラシック名曲集
Classique!
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J.S. バッハ/オットテール/ヴァイス/ルソー/C.P.E. バッハ/フィッシャー:フルート作品集(クイケン)
Flute Recital: Kuijken, Barthold - BACH, J.S. / HOTTETERRE, J. / WEISS, S.L. / ROUSSEAU, J.-J. / BACH, C.P.E. / FISCHER, J.C.
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歌手の肖像 - ニコライ・ゲッダ(ヤング・ニコライ・ゲッダ)
SINGER PORTRAIT: Gedda, Nicolai - MOZART, W.A. / TCHAIKOVSKY, P.I. / MASSENET, J. / BIZET, G. / AUBER, D.-F. (The Young Nicolai Gedda)
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ルクレール/カンプラ/ラモー/ルソー:管弦楽作品集(ラフォンテーヌ/ベルナール)
Orchestral Music - LECLAIR, J.-M. / CAMPRA, A. / RAMEAU, J.-P. / ROUSSEAU, J.-J. (Heritage of France III) (Lafontaine, Bernard)
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フレーリヒ:故郷/フーバー:ホルン三重奏曲/ドップラー:リギの思い出(ゲーツェ/チュルヒャー)
FRÖHLICH, F.T.: Heimat / HUBER, F.F.: Horn trios / DOPPLER, F.: Souvenir de Rigi (Die Romantische Schweiz) (Goetze, Zürcher)
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E.P. シェドヴィル/ヴィヴァルディ/N. シェドヴィル/F. クープラン:リコーダー作品集(スタインマン)
Recorder Recital: Steinmann, Conrad - CHÉDEVILLE, E.P. / VIVALDI, A. / CHÉDEVILLE, N. / COUPERIN, F. (Les saisons amusantes)
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ベートーヴェン:知られざる名曲集
BEETHOVEN, L. van: Unknown Masterworks
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ベートーヴェン:民謡編曲集(ブヒナー/ホフマン/ポプルッツ/ハマン/ロレンツ/ヴォールゲムート/クラーマー/シュプリンガー/シュライバー/K. ワーグナー)
BEETHOVEN, L. van: Folksong Arrangements (Buchner, J. Hoffmann, Poplutz, Hamann, Lorenz, Wohlgemuth, Kramer, Springer, Schreiber, K. Wagner)
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ルソー:村の占い師
ROUSSEAU: Devin du village (Le)
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ルソー:歌劇「村の占い師」(アルペ・アドリア・アンサンブル/クレマンシック)
ROUSSEAU, J.-J.: Devin du village (Le) [Opera] (Clemencic)
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レイナルド・アーン(テノール/作曲家):録音全集
HAHN, Reynaldo: Complete Recordings
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レーヴェ・コンプリート・エディション 13 - 歌曲とバラード集(エルスナー/ガルベン)
LOEWE, C.: Lieder und Balladen, Vol. 13 (Elsner, Garben)