続 原発震災日誌23
絶望とは希望や意味の喪失である、 核廃棄物~世界の核汚染 核戦争~想定され、 哲学の絶望が、放射能があろうがなかろうが、病気があろうがなかろうが、死があろうがなかろうが、在る絶望というものについての考察ではあるのだった、この絶望に対して、生身の私の存在において、意味があるのかないのかを問うことが、 アポロ月面着陸の捏造、9.11テロの陰謀、3.11 騙されていたことへの~自らの共同幻想への、 不信が背景にあっての~世界は陰謀に満ちていることの、 真実への興味を持ち~科学的な真実と政治的なことの、 人間、世界、歴史、政治のからくり~為政者のための、 人間文化への価値変更~陰謀、砂上の、作為の、 世界を哲学的に考察することの曖昧さから~陰謀の暴露における有効性、 不条理、実存を~条理、必然、存在具体、事実へと、 陰謀説、予言、構図に対しての人の反応~素地に依存性、無関心 過ぎ去ったことへの~事実も陰謀も、日常性においてはどちらでも良いことに、 夢を見せ付けられた点~宇宙旅行という科学への、 絶望、破滅、陰謀に足を据えて世界を眺めたなら、人々の日常は微笑ましいものに、タルコフスキーの絶望は、絶望の輝きを持ち、無の有、絶望の希望、存在、不条理の美と、価値の放棄の中から誕生した価値、これ以外にこれからの世紀には希望はないのだから、ミケランジェロが、ダヴィチがチェルノブイリの廃墟の美術館で朽ちた姿で、誰も美術など価値として見る者などなく、地震、核汚染、食糧難、核戦争と、しようがないではなく、なぜと考えると、必然、意図、意味が見えてくる、やろうとしている者の意図とそれを受容する人間の心が、矛盾に対して人が真実を追究するかしないかは、奴隷が鎖を断ち切れるか、アウシュビッツであっても、反抗、逃亡するかしないかの、一人か、全員かの、何故全員が逃走しないのかの、死の行進とはこの集団心理、疎外と同じように、絶望は認識するとしないとに関わらず存在していることの、絶望を私の創造において、絶望とは、絶望していることではない、絶望を見据えているということ、決して絶望に飲み込まれているわけではないと、実存主義から絶望主義へ、人へのものではなく、私の生きる主義としての個人主義のようなもの、汝、死を忘するべからずのような、私への標語、絶望をいくら文学、哲学的に探ったとしても、原発以上の絶望はないのだった、私が今癌の宣告を受けたとしても、将来、人類の生物の絶滅を考えるなら、絶望の中で死んでいくこととなる、3.11以降の人の死、個人の死が、種の死へと霧散し、理想を幻想しているがために、政治に、社会に、怒り絶望するのだった、絶望に足を据えているなら、政治は見るもの、笑うものとなる、絶望は全てを笑い飛ばす、再度の原発震災の、忍び寄る危機を見据えての、 絶望主義 モナリザの微笑み アウシュビッツに、世界の飢餓に、癌患者に、核汚染に、死刑囚に、何か説くことのできる理想などあるのか、絶望の共有だけが残る現実、今身近にある身内の死に対して、何の理想が、天国はもはや人の心には描けず、愛はどこにでも転がっており、死は医者にコントロールされ、人としての有責性には拒否感がある、有責性の先にある、義務や、理想、罪が待っているヒューマニズムという哲学、しかし、私には、実存のもつ絶望の先にこそある絶望主義的実存への、かつて先人達、多くの絶望を人々の中に見、自らの哲学、芸術を創造してきたのであったが、今私は世界の理想に対して、理想、幻想を排除した絶望の共有、共感をこそ叫ぶ、現実への幻想があるが故に対立があり、絶望の前には、共感だけがひろがり、絶望していない者への微笑みだけがそこにはある、ニヒルではない、今少しの喜びを見据えた微笑み、モナリザの微笑みの中に見る、絶望の微笑み、理想主義の、人間の文化に対しての、今こそ絶望主義の文化を共有するべきだと、 再稼動反対の集会で女が、女性国会議員に対し「貴女はどう行動しているのか」と詰め寄っていた、それに対し「私は私のやれることを精一杯やってきましたし、今もやっている」と、朝生TVの田原対様々な議員、論客に対し、自己の正当性の主張が繰りかえされ、サンデルの授業では、デモクラシーとは、対立した意見を知り、その中から新しい共有点でもって一致していくことであるとやっている、 どのシュチエーションも、観点も、絶望を共有などしてはいない、理想を求め、絶望を薄め、忘却させようと、それが人の生きる日常のもつ意味、必然、自明、直ちに健康に影響しない、先のことは解からない、今が大事、仕事が、いずれ人は死ぬ、僅かの癌が増えるだけと、世界は損なわれずある、汚染地帯など僅か、水俣も、足尾も、たかが知れた汚染と、アスベストの飛散も、直ちに影響するものではなく、コストを考えればと、虚構の、欺瞞の、非合理の肯定、 脳性マヒの彼ら、明日死ぬとしても、今人の手を借りないでは生きられないその彼らが、絶望を口にしつつ人に理想を語ることの欺瞞、絶望を利用し、差別を特権化している、部落問題の同和の中にもあった既得権、在日、etcのも、原一夫、渡辺文樹らの映画は、それら日常性の持つ、欺瞞、虚妄を暴こうとしているのだが、絶望しているわけではない、彼等の理想と、正義があってのことで、けっして絶望を見据えてではないのだった、 O、S、H、等の死、彼らの絶望を私は共有することは出来なかった、去るものと、生き残るもの、牧師の教戒を説くようなことは出来なかった、死に行くものにとっては、世界は絶望、世界が自分の死後も続こうが、無の有、存在があるばかり、死に行く者のそれ程の絶望があっても、今日があり、死ぬまでの今を生きていることの、アウシュビッツ行きの列車の中で、糞尿にまみれてセックスする、飢えては人肉も喰らう、人という者の、絶望の中にも在る、日常、生命という存在、文学、哲学に、この不条理を表す中に、その虚無を描く中に、理想を見るのではなく、「死にいたる病」のように、絶望して死んでしまい、哲学が、文学が、絶望しても死なないものが、原、渡辺等の映画、絶望を見据えてではなく、露悪、嗜虐となり、タルコフスキー、タルベーラとは違い、絶望して死んでいく絶望、作られた絶望、作られた陰謀を見据えること、絶望を通して真実に至る、絶望しても死なないで生きる人の誕生、一粒の麦死なずばと、生きる無数の人の誕生を、 原発を絶望の極地ととらえること、パンドラの箱の原罪ととらえること、絶滅列車で享楽している、いずれ、絶望した人間は、幻想を抱かなくなるだろう、反抗もしなくなるだろう、しかし絶望し続けては生きていけないから、絶望の中から希望を紡ぐだろう、原発こそはその絶望の源であり、この絶望は希望の生みの親であるのだからと、原発こそが、人の理想主義と、傲慢を挫く、それでも人はその原発と共存していく、この人のしぶとさ、死に絶えるまで、進み続ける人の宿命性、本当に世界は癌に罹っている、余命を知っているものは覚悟して、原発の嘘、メディアの嘘、アポロの嘘、9.11の嘘、と、 世界の不条理の背景を、運命などではなく、ドライバーがいての、自明なものであることの認識が必要であるのだった、軍産複合体&国際金融資本、 金子光晴の「絶望の精神史」読んだ、が、現在の世界の絶望と比べれば、小さな歴史上のことで、何ら現代の絶望を捉えてはいない、現代の絶望とは、世界の終焉、人類の絶滅という、全否定の、終末が現実性を帯びた、明日にでも訪れるその瞬間に在るという、まさに死刑囚が断頭台の上で処刑を待つ時間、または癌患者が余命何ヶ月かを過ごす時間、この絶望に勝る絶望はなく、ここにどんな方法が、やはりここに戻ってきてしまう、どうしたら良いのでしょうかと問われても、しっかり絶望することです、時間を割り振るのです、別れの挨拶をして、風や光を眺めて、煙草を一服してと、またやりたい10のことをやり続けてとしか、ドイツが脱原発へ向かうとしても、フランスが、中国が、日本がと、世界には核や、資本の支配が張り巡らされ、絶望をとおして希望に至る道などないのだと、明日は明日の風が吹くとか、一度は人は死ぬのだからとか、成るように成るとか、様々に人はやり過ごしてきた、人が強制収容所行きの列車に乗せられていることに、またはガス室に入れられていることに、動物であったなら、暴れまわって、抵抗するのに、