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続 原発震災日誌24

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続 原発震災日誌24

私の星ではないと、私対世界とは、世界は私のものではないのだった、癌を見据えるとは、私という生命を見つめることであった、それがどうして、これ程に、地球や、生命やらと、私を超えて、我がこととして問題になったのか、去る私にとって、自然裡としての存在に過ぎなかった世界が、どうしてこれ程の関心事になったのか、3.11以前から世界とはそのようなものであると、自明であったのに、私対世界という到達があったのに、現実と未来が、変更を要求しているのだった、3.11という取り返しのつかない出来事を通して、騙されていた、何をしているか、されているか解からないという、不信、糾弾、そして、人間存在そのものへの疑念へと、人類200万年の総点検が必要となり、科学の名のもとに、芸術、美の名のもとにと、疑っても、疑っても、疑いきれない自己、我などではない、いくらでも疑える、人間の文化、芸術、歴史であるのだった、政官財の癒着構造、利権構造、それらを最も牛耳っているのが財である金融資本、

夢を見た

私はアポロ乗務員となって月へ行っていた、私は友人を一人殺してしまった、その罪に、隠し通すことの苦しさにうなされ、夢から覚めた、見殺しにしたという罪であった、助けられたのに助けなかったという自責、彼等、嘘をつくことなど何とも思っていない、悩むことなどもない、アポロの嘘、もしアポロが事実なら、今、月からの実況中継をしてもらいたい、どんなTVドキュメントより収益が得られるだろう、月面軟着陸技術があるなら、今見せてもらいたい、バンアレン帯を超えられる宇宙服があるなら、福島で使ってもらいたい、

私は私に絶望していない、世界には絶望しているが、私には絶望はしていない、福島が、世界が、今や絶望状況であるとの認識はあるが、4号機が、東海原発が爆発し、首都圏に人が住めなくなることが、近い将来、5.6年以内に起きることが予想されているが、たとえそうした事態になって、次々と人が死んでいくとしても、その様を、刻々と伝える主体となって、世界を見続けるだろうということ、私の絶望とは、絶望をも自然裡として、人災であっても、自然災害であっても、存在のバリエーションとして、見る、考えるということ、
私の絶望とは、世界に絶望すること、世界に絶望して生き続けること、世界と断絶すること、余命、余生ではない、絶望という海の中を、沈黙、孤独という友と一緒に、おまけの人生を、楽しむではなく、見つめ続けること、

ジオット(1267-1337)
ダビンチ(1452-1519)
ミケランジェロ(1475-1519)
ベラスケス(1599-1660)
レンブラント(1606-1669)
ゼバスティアン・バッハ(1685年 - 1750年)
ヒルデガルト(1098年 - 1179年)

Tと語ったこと

私はジオットについて、彼は近代自我の眼ではなく、神秘の心で、断絶や、絶望ではない、神と私という、絶対肯定の心で描いている、聖フランチェスコを描いた絵にそれは表れ、
近代とは、自我、疎外、実存と、断絶、不条理を経ての希望、理想である、そこにある共同幻想的な、理性、科学というベース、フィルターを通した目で見られたルネサンス以降の絵や音楽ではあるが、私はジオットの絵のように、バッハ以前の音楽に、言いようのない郷愁と喜びを感じると、今や3.11を経て、絶望を通して、近代的フィルターそのものへの不信が湧き起こり、私の絶望に答えられる作家、芸術家がいなくなってしまった、今私の絶望に答えてくれるのは、そうした近代以前の、私対宇宙、私対神との一体を感じていた人々のものだと、
近代が3.11を生んだと思うから、近代が共同幻想を育んだと思うから、私の私対世界は、私対神、私対世界という絶対と一体の感情から感じている世界であるのだと、私は前近代主義者ではない、全歴史の総体をこそ希望とするのだが、絶望の果てに思いを寄せるのは前近代であるのだった、人類は近代へ未来へと進んでいくだろうが、私においては前近代の中に人と世界の一体の感情を見、近代的自我ではない自我、世界と一体の自我を今求めるのだと、


金子光晴全集

絶望の精神史は何とか読めた、だが詩は、その他のエッセイは読めない、甘ったるくて、絶望なぞそこにはない、感傷に過ぎない、絶望で世界を見渡したなら、ああはならなかったはず、金子は絶望などしていなかったし、ディレッタントでしかなかったと思わせる、反権力ではなく、反対なだけあるとの、自由主義者であり、現代のこの世界の絶望に対し、立ち向かう有効性はなく、今の私にあっては読むに耐えられず、金子の全集読了は終了した、私の中で本当に価値観が変化してしまった、世界の変化が、タルコフスキーの映画のように、ダビンチの絵がミケランジェロの絵が、廃屋の水溜りの中に捨てられている風景が思われ、絵や音楽、文学は、何ら型のない、初めからなかったもののように、核汚染後の世界に、型あるものは、かろうじて型を残してはいるが、型のなかったものは、何ら型をとどめず、この絶望、虚無に、如何にあらゆる試行を人はするのだろう、このしのび寄る破滅に対して、
近代も、前近代も、歴史の流れであり、現代とはそうした流れの上にあり、未来がどのようであっても、これは人間の流れであるのだった、絶望もその一つに過ぎないのだった、

6.26で20万人が抗議に立ち上がった、全国で様々に意思表示が行われている、絶望的状況、更なる地震と核汚染の不安の中、また世界的運動にしないでは希望のないこの核との闘いは、人間の全文化、価値への総点検と新たな価値の共有が必要、近代の産物としての現代であるのなら、この近代をも考えざるを得ないほどの力が必要であるのだった、原発を廃炉にする、福島を安全にする、そうした政治に変える、その中でこそ希望は生まれる、世界はエゴに満ちている、アウシュビッツの彼等が解放されて後、世界の無関心に接し、自分たちの苦労は何だったのかと、絶望し自殺して行ったと同じように、世界は常に圧倒的多数は無関心と無抵抗、又は権力追従で信仰してきた、

3.11あの日、まちがっていたら、又は幸運にも日本は、私は破局を免れた、しかしまだ癌の転移のように54基の原発はあり、福島は、石棺も作れず、未だ放射能を出し続けている、政治は、抗癌剤、放射線治療のように、再稼動、瓦礫焼却、汚染作物流通と、せっかく得た余命も、味わう喜びもなく潰えていくような、現在の日本、やはり絶望的状況に変わりはない、絶望でいい、希望など、100万人が立ち上がったとしても、新しい哲学、新しい生き方、新しい魂が誕生しない限り、訪れない、核の絶望に対する答えを未だ人類は、科学にも答えがないように、宗教、哲学にもないのだった、私に作れるはずもなく、ただ私は私を、今を生きるばかり、昨日はフランスデモをしてる夢、今日は、駅頭で訴えている夢と、

現代においてイエスが山上の垂訓のように訴えても、戦争をしている人間に、戦争をやめるように訴える神父のような、タルコフスキーのノスタルジアのアンドレーエフの焼身自殺のような、訴えは風に舞うだけ、アジェンデが潰されたように、スカルノが、ゲバラが、フセインが、ガダフィーが潰されたように、権力、反権力、民主、独裁を問わず、世界は、人は絶望を日常で超えていくのだろう、家族愛、隣人愛、時に性愛で、が日常には愛へのペシミズムがある、非日常には愛への純化がある、やはり男は、不条理と闘う中で男になるのだった、この現代の絶望と闘う時、男になるのだった、女たちの命への不安、怒り、悲しみ、それを真に受け止め、闘いに立つ時、男は女にとって意味となり、母性社会ではなく、真の父性社会へ、母性の喜びのために、父性に目覚めた男たちの社会、300万年前、母系社会へ、男が受け入れられた時のように、女たちの叫びを男が聞き取り、闘いへと、日本のジャンヌダルクを、「青春の歌」のような「風に乗り、波を切り」のような小説を描いていくこと、全未踏の言葉は、今こそ体現しなければならない状況に、私のツァラトゥーストラと共にナウシカのような、女を愛してはいなくなった男たちが、世界の破滅を招いている、アリストファネスではないが、歴史はいつも、女の持つ日常を愛せなくなった男たちの、憂さ晴らし、または覇権争いであるのだった、女にも問題はあるのだが、命においては基本は女にあるのだった、女が子を産み、育てるためには、日常を必要とするのだった、日常によって、命は繋がっているのだった、動物たちは、多く雌の出産と、日常を守るために存在している、子孫を繋ぐことに生きている、



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