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続 原発震災日誌40

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続 原発震災日誌40

自己実現と有責性

自己実現が無意味になったことによって、有責性が、好むと好まざるとにかかわらず発生していた、世界は人の有責性で保たれていたということ、自己実現とはその有責性の上に達成されるものであったということ、この観点の曖昧さは、無知又は忘却、又は個人の自由の感情の中にある、私は絶望を信じないとする思考の中に、自分の時代のみの刹那主義、又は初めからのペシミズム、利己主義の中に、
人はたとえ有責性を拒んだとしても、原罪も、全てこれらは自己責任という名で負わされている、自分が努力しないから、因果応報だからと、この自己責任とは、人間の自由の源泉であり、努力して得られる、一人でも実現できる自由は在るのだが、その自由を支える世界が崩壊するという事態に至って、その自由の源泉さえも剥奪されたのだった、人の有責性、今や人に白日のものとなり、自己犠牲でもなく、利他でもなく、全ての存在そのものが有責となったのであった、

夢を見た

団地で汚染瓦礫反対の実力行動が行われた、ゴミ置き場を封鎖して、団地のゴミを出させないようにするためだ、ゴミ置き場の周りにバリケードを築き、中に人が篭城しようという作戦のようだった、団地の男や女達、支援者だろう知らない若者などが、4、50人予行演習をしていた、通りかかった私にも参加するように顔見知りが誘った、が、私は声が出ないし、疲れやすいし、もたないなーと思って、後でとそこを後にした、団地の反対の方へ行ってみたら、機動隊が何十人も突入の訓練をしていた、これは怪我人が出るかもしれないなあ、突入をやめさせなければならない、私は近くの機動隊員に責任者は居ないか、上司は誰かと聞いていた、最後は国民全員の問題なのだから、遣る方も、止める方も、どちらも被害者なのだから、今しばらく、住民達に遣らせておいたらいいのだと、私は言おうとしていたが、責任者らしい者はおらず、仕方なく私は家に帰った、家は全国から来た支援者達に占拠されていた、一人の若者の前に私は座り込み、何事かを話した、彼等は生き生きしていた、私は核に未来は無く、もはや世界は終わっているのだと言おうとしていたが、彼等の私を信頼した様子を見ると何も言えなかった、闘いの中に、未来と希望を見るのが若者だからと、核問題は、人生の先のない者等が、現在という時間にしがみついている結果で、核が有ろうが無かろうが、若者には未来が在る、短いか長いかの違いは在るが、彼等には未来は考えられないのだと、未来という観念も、時間も無いのだと、

髪に花を挿していた
踊り続けていた
意思を示すこと、
子供を守りたい
なんという願い
女の声と原発とのコントラスト
フクシマは被曝の中
生命が大事ってことをわかって欲しいと
シュプレヒコールの言葉が
かつてこれ程の実感をともなったことがあっただろうか、
一人一人のコスチューム
一人一人のパフオーマンス
違法、違法だけが警察のアナウンス
自然さ、自由さ、人の願いが
音楽に、プラカードにストレートに表され、
赤ちゃんを抱いたお母さんが
若い女性がスクラム組んで
60年安保、三里塚、学園紛争、
あそこに私はいなかつた、
しかし今、原発反対の闘いの中に私は居る、私の問題として、これが人の意思、共感として
これが統一戦線のテーマ、
シャボン玉を飛ばして、
歌を歌って、楽しく、
核を止めるまで
いつまでも

姜尚中の韓国への旅とNHK

共同体が共同幻想であったことを知らぬ訳ではないのに、またNHKの番組作りが、国家、村、社会への帰属意識であるのに、姜は共同体に理想を見出そうとしていた、市民という自立した個人の自治意識の欠如、東洋的村落共同体は、今や抑圧機構であるのに、かつてなら私も幻想を持っただろう、が、3.11を経て、全否定の感がある、自立した一人一人の個人こそが必要、それ以外にこの破滅に向かう社会は止められない、共同体の依存関係は時に害悪にさえなると、共産主義がその最たるものであった、その理想は人を家畜化する、
血族が部落を作り、血族の利益が国を作りと、
理想から虚無へ、虚無主義こそ現在の世界の破滅的進行に即しているのだと、世界に対しては虚無、無政府、自己に対しては絶対我

辺見~瓦礫中から言葉をと、言葉があてがわれたなら、この絶望が捉えられるのではないかと、辺見には言葉への幻想が常にあり、言葉探しの苦渋が常々語られ、
エミール・クストリッア(1954- )サラエボ映画監督、ジャン・ボードリャール(1929-2007)仏思想家、ガストン・バシュラール(1884-1926)仏思想家、ブァルター・ベンヤミン(1892-1940)独思想家、ドウルーズ・ガタリ(1930-1992)仏思想家、の言葉を引き合いに出し、「人間存在というものの根源的な無責任さ」を自責的にとらえようとしている辺見の、未だ保持されている幻想があり、それは大導寺への、その他への辺見の抵抗ではあるかのだが、今、この丸ごとの絶望への、意味の喪失の、この現実を捉えるには「ペスト」のリュウ医師の誠実にも劣る足掻き、作家に於いては、絶望することだけが絶望への武器、抵抗であるのだ、串田孫一の「人類無き後のサバサバとした風景」は言葉では捉えられない、私は癌以降絶望を持続していたのだった、言葉は唯私において吐露していただけ、だから3.11で世界に絶望できたのだったと、

人生に果たして意味があるのかと、青年の日、未だ絶望も知らぬ身で議論していた、意味を問うより、いかに生くべきかだと、政治運動に身も置いた、が人生の意味は常に私を問い続けた、意味を感じられないと、政治運動からの離脱、意味を求めて文学へ、逡巡と、自己嫌悪、そして癌を得、人生に意味を見出したのだった、今が在るだけで良い、存在することだけで意味だと、あの日、手術の日の朝、明日は無いかもしれないが、今が在ると、得た希望、意味は、無ではない、絶望をも呑み込む有、存在していることの喜びであった、あれから25年、今、3.11を経て、私が絶望に身を置くとは、意味は無くとも今が在るといった、あらゆるものに囚われない背景と実感が3.11によってもたらされたのだった、今までなら思索しなければならなかった哲学的定義が、いとも簡単に人に理解想像されるものとなったのだった、絶望している人と、してない人の違い、世界に理想を求める者と、求めない者と、どのような世界であっても今だけで良いとする、世界の絶望を見据えた、希望と意味、絶望に深さなど無い、虚無でいい、そこからの今があるばかり、

子供の情景

いつの時代も、子供とは絶望と不安を体験してきたのではとフト思った、潤が私の原発震災日誌を読んで電話してきた、「あの作品は何のために書いたのかと」毒気を含んで聞いてきた、「私は自分のためだ」と、「あのようなことは自分は昔から感じていた」と、私への共感ではなく、今頃親父は目覚めたのかといった、世界への再びの絶望感の表明だった、少年の頃、学校は荒れていた、いじめや、たかり、万引き、子供達は不信を強め、すさんでいた、社会への反抗、家庭内暴力と、私は世界への不信を言いつつも、理想を語り子供達を繋いできたと思っていた、が子供達は理想を信じてはいなかった、又求めてもいなかった、世界に理想はないことを身近な出来事を通して知っていた、子供達は私に合わせていただけであった、嘉樹はボブマーリー、潤はニルバーナにと、自分の世界を生きていた、生れ落ちた時から世界は絶望で満ちていた、核や原発があろうが無かろうが、そして今も、世界は絶望の中にあり、自分と家族を守り、生きることが人生であると、生きていたのだった、彼等私の語る理想など信じてはいなかったのだ、世界へではなく、絶望している家族へ向けて欲しいと求めていたのだった、世界がどのようであっても、親と子、家族が一体のものであれば生きられると、彼等は叫んでいたのだった、世界への理想ではない、家族への理想を、世界が絶望しようがしまいが、自分においては絶望に他ならないと、世界を定義していたのだった、世界に理想を求めていた者が絶望しているのだと、そんなもの信じても、求めてもいなかった者に、絶望は無いと、世界は元々そうしたものと、世界は今やそうしたものに覆われてしまっているのだった、1パーセントの世界資本に対する、99パーセントの者も、理想や、求むべきものは、神が死んだように、今や無いということを身近な出来事を通して、自明となっているのだった、家族を守りたいために、止むに止まれず抗議をしてはいるが、抗議の先の政治を誰も信じてはいない、世界は絶望の中にあることは目に見え、変更しようがないのだと、世界への責任など、義務など無意味、本心絶望を感じ、世界を放棄しているのだった、子供達に、世界の理想や未来を指し示すものが無いということは、そうしたことであるのだった、ニーチェの超人思想であっても、あらゆる革命思想であっても、現代の核の絶望の中にあっては無効であるのだった、



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